第30話:魔王
(吉田視点)
闇が、すべてを覆っていた。
果てのない虚無が、周囲一面に広がっている。
なぜか――
疲れも、眠気も、空腹も感じない。
体が軽い。
異様なほどに軽かった。
まるで、これまでずっと背負っていた見えない重荷が、
跡形もなく消え去ったかのように。
手を動かす。
足を動かす。
そして――初めて、立ち上がった。
痛みはない。
抵抗もない。
何の制限もない。
ドクン――ドクン――
心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に響いていた。
足元には、赤黒い液体が広がっている。
血のような色をした、果てしない水面。
一歩踏み出すたびに――
ぴちゃん……
と、静かな波紋が広がっていく。
空気は重く、粘りつくようだった。
まるで炎のない地獄の中で呼吸しているみたいに。
その時だった。
声が響いた。
「……ようやく、戻ってきたか」
重なり合う無数の声。
低く、深く、空間そのものが震えるような響き。
ドクン――!
胸が押し潰される。
冷たい汗が頬を伝い落ちた。
恐怖が、一瞬で全身を貫く。
「だ、誰だ……!?」
声が震える。
「何なんだよ、ここは……!」
視線を巡らせる。
「ここはどこだ……!?」
呼吸が乱れる。
「ローズ……?」
自分の周囲だけ、淡い光に包まれていた。
それ以外は、すべて完全な闇。
その中で――
ズン……
何かが、歩く。
ズン……ズン……
重い足音。
同時に――
ガシャ……ガシャ……
鎖を引きずる音が響く。
見えない。
だが、分かる。
“何か”が近づいている。
本能が叫んでいた。
危険だ、と。
やがて――
闇の中に、二つの光が浮かび上がる。
赤い眼。
ローズと同じ色.
だが――そこには温度がない。
あるのは、底の見えない闇だけだった。
重苦しい気配が、空間を満たしていく。
呼吸すら苦しくなるほどの圧。
そして、そいつは姿を現した。
背が高く、圧倒的な威圧感を放つ存在。
……どこか、見覚えがある。
灰色の長髪。
頭部を覆う兜.
左頬には、小さな黒子。
そして、骨のような黒い鎧.
それはまるで、古代の怪物の骸骨で作られたかのようだった。
全身から、暴力的な気配が溢れている。
「どうやら……鎖から解放されたようだな」
低く、重い声。
一言一言が、異様な重みを持っていた。
俺は息を呑む。
「お前は……リュウジンだろ!?」
必死に叫ぶ。
そいつは、わずかに首を傾げた。
「……リュウジン?」
ゆっくりと、腰の剣に手をかける。
シャァン……
金属音が闇に響いた。
白銀の剣が、ゆっくりと姿を現す。
「違う。俺はリュウジンではない」
次の瞬間――
閃光。
動きは見えなかった。
だが、
ズブッ――
胸に、衝撃が走る。
視界が揺れる。
剣が、俺の胸を貫いていた。
心臓を、正確に。
目を見開く。
動けない。
瞬きすらできない。
だが――
痛みが、ない.
叫びも出ない。
世界が、静まり返っていた。
そいつが顔を近づける.
赤い眼が、俺を覗き込む.
狂気に満ちた殺意.
「人が俺を何と呼ぶか……教えてやろう」
わずかな間。
「魔王だ」
思考が止まる。
そいつは静かに言った。
「吉田カト」
剣は、まだ胸に刺さったままだ。
もう片方の手を上げる。
三本の指を立てた。
「三度だ」
声が低く沈む。
「お前の前に現れるのは……三度だけ」
視線が絡む。
底なしの深淵。
「歴史は……これで最後だ」
わずかに眉を寄せる。
「目を覚ませ」
声がさらに冷たくなる。
「そして、死ぬな」
沈黙。
そして――
「なぜなら、お前は……」
赤い眼が強く光る。
「いずれ、俺になる」
囁き声。
遠くから、無数の声が重なる。
「……時間だ」
あの声。
頭の中で響く。
「彼女のもとへ戻れ」
体はまだ剣に貫かれている。
だが、痛みはない。
「生き延びろ」
命令のような言葉。
「これからの戦いを戦え」
視線が、魂に突き刺さる。
「今ここで死ねば――」
声が冷たくなる。
「すべてが無意味になる」
その瞬間、
世界が割れた。
バキッ――!
闇が砕ける。
足元の血が荒れ狂う。
「目を覚ませ」
咆哮のような声。
「吉田!!」
ガバッ!
目を開いた。
「起きて!!」
ローズの声。
世界が――騒音だった。
ゴォォォォッ!!
風が唸る。
バシャァァッ!!
雨が叩きつける。
空は黒い雲に覆われ、渦を巻いていた。
無数の雨粒が顔に突き刺さる。
冷たい。
痛い。
波が壁のように迫る。
船が激しく揺れる。
ドンッ!
ガンッ!
上下左右に振り回される。
反射的に手すりにしがみつく。
「吉田!!」
振り向く。
ローズがいた.
全身ずぶ濡れ。
赤い髪が顔に張り付いている。
その目には――恐怖。
風が吠える。
視界はほとんど利かない。
その中で――
笑い声が響いた。
「ハハハハハ!!」
振り向く。
エレノア。
嵐の中、舵の前に立っている。
ずぶ濡れ。
髪が激しく暴れている。
それなのに――
笑っていた。
目を輝かせて。
楽しんでいる。
「ローズ!!」
何かを叫ぶ。
帆を指差す。
意味は分からない。
だが、ローズは理解した。
「……っ!?」
顔色が変わる。
船が大きく傾いた。
ザバァァッ!!
海水が甲板を飲み込む。
歯を食いしばる。
そして走る。
ロープへ。
嵐の中でマストを登るなんて――狂気だ。
だが、彼女は迷わなかった。
素早く、しなやかに。
揺れるマストを駆け上がる。
雨が叩きつける。
風が引き剥がそうとする。
それでも――
帆に辿り着いた。
エレノアがまた叫ぶ。
今度は――俺を指した。
「おい!」
何かを要求している。
両腕を広げる。
それから――自分を抱きしめる仕草。
そしてウインク。
「男のハグで元気出させてくれ!」
……は?
今、この状況で?
船が巨大な波に持ち上げられる。
体が宙に浮きかけた。
必死にしがみつく。
「何言ってんだよ!?」
声は風にかき消される.
上ではローズが帆と格闘している.
ミシィ……!
マストが軋む.
船が悲鳴を上げる.
その時、理解した.
エレノアは――分かっている.
助からない可能性を.
それでも笑っている.
心臓が激しく打つ.
その時――
見えた.
波.
巨大な壁.
黒い水の山.
マストより高い.
船より大きい.
ゴォォォォッ!!
風が叫ぶ.
エレノアが笑う.
「来るぞォ!!」
船が軋む.
ローズは降りたばかりだった.
間に合わない.
次の瞬間――
ドォォォォンッ!!!
世界が、水に飲み込まれた.
マストが折れる.
バキィィッ!!
甲板が砕ける.
体が宙に投げ出される.
船が――壊れる.
海がすべてを飲み込む.
最後に聞こえたのは――
轟音.
そして、
静寂.
闇が、落ちてきた。




