第28話:王国への上陸
【吉田視点】
何日間、あの果てしない海を彷徨っていたのだろうか。
長すぎる漂流の果てに、俺たちはようやく、本物の「地」を踏んだ。
ザザァン……、ザザァン……。
岸辺に穏やかに打ち寄せる波の音が、周囲の空気を満たしている。
沖合にいた頃よりも少し強い風が、草木の匂いが混じった湿った潮の香りを運んできた。
小舟がザリッ……と鈍い音を立てて砂浜に乗り上げ、小さな衝撃と共に停止する。
自力でそこから降りようとしたが、酷使した足はまだ思うように動かなかった。
「気をつけて」
ローズの声がした。
すかさず彼女の引き締まった腕が、俺の身体を横から支えてくれる。力強く、それでいてどこか安心感のある心地よい感触だ。
俺は彼女に遠慮なく体重を預けながら、ゆっくりと波打ち際の砂地へと降り立った。
足の裏に感じる砂は冷たい。何日も不安定な板の上にいたせいか、地面が揺れないという「固さ」が、今の俺にはひどく奇妙に感じられた。
背後では、エレノアが軽い身のこなしで船から飛び降りた。
彼女は両手を腰に当て、相変わらず妙に誇らしげな様子で、あごを上げて顔を見上げる。
「ヘッセンの地だよ!」
エレノアは大げさに宣言した。
「見なよ! 『魔王』と『裏切り者』の再臨だ!」
ローズは冷ややかな、明確な苛立ちを込めた視線で彼女を鋭く睨みつけた。
俺の方はといえば、彼女たちが何の話をしているのかさっぱり分からない。
エレノアはそんな俺たちの反応を気にする風でもなく、くるりとその場で踵を返し、不敵に微笑む。
「湿っぽい話はなしさ! それより大事なのは……彼らの逃亡をド派手に助けた、この恐るべき大海賊の存在だね!」
芝居がかった仕草で両腕を広げるエレノア。
だが、あたりを支配するのは冷たい沈黙だけだ。彼女のいささか痛々しい宣言を聞いているのは、当事者である俺たち二人と、背後で唸りを上げる海だけだった。
俺は彼女の背後、地平線の向こうに広がる風景に目を向け、その圧倒的な光景に言葉を失った。
深く濃い緑に覆われた、見上げるほどに高い山々。空を鋭く切り裂くような巨大な山脈が、背景で圧倒的な存在感を放っている。
以前ローズと最初に出会った場所――あの乾燥して荒涼としたミルバーの過酷な気候とは、あまりにも対照的だった。
空気は驚くほど澄んでいて、涼やかだ。まるで元の世界で見たスイスの絵葉書のような、本当に美しい場所だった。
ローズは俺が数歩進むのを手伝ってから、砂の乾いた場所にゆっくりと座らせてくれた。
彼女自身はすっくと立ったまま、その美しい紅い瞳を警戒するように森の奥へと向けている。
「ここに来ることになるとはね……」
彼女が、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
「あんたたちにとっては、そう悪くない場所さ」
エレノアがマントの襟を整えながら、面倒くさそうに言った。
「この国は今、色々とひどい有様だからね。誰もこんな外れの辺境まで探しに来やしないよ。少なくとも、あのゼドリエルたちが戦争を続けている間はね」
すべてを理解できたわけじゃないが、「戦争」という不穏な言葉だけは脳裏に重く焼き付いた。
少し離れた場所で、神妙な面持ちで沈黙しているローズを見上げる。
「ローズ……」
呼びかけてみたが返事はない。深く考え込んでいるようだ。
そこでふと、俺はある違和感――彼女の身体に何かが足りないことに気づいて眉をひそめた。
「君の剣は、どこにいったの?」
俺が腰のあたりを指差すと、ローズはハッとしたように自分の身体を見つめた。
「本当だ。言われてみれば……どうして今の今までに気づかなかったんだい?」
エレノアがヒック……と、間の抜けたしゃっくりを一つ漏らしながら呟く。
あの嵐の最中、船と一緒に海に沈んでしまったのだろうか。
しかし、ローズは焦る様子もなく、驚くほど自然な動作で、すっと右腕を空へと高く上げた。
「どこにあろうと関係ないわ。あの剣は……常に、持ち主の元へと戻ってくるものよ」
その言葉の真意を俺の頭が理解するよりも早く、遥か彼方の空気が凄まじい音を立てて切り裂かれた。
ヒュゥゥゥゥウウウウウ――ッ!!!
遠くから響く、鼓膜を刺すような鋭い風切り音。
反射的に海の方へ顔を向けると、遥か沖合の水面を割って、一本の黒い物体がとんでもない速度で、プロペラのように激しく回転しながらこちらへ一直線に飛んでくるのが見えた。
「なんだ、あれは……っ!?」
ドガァァァンッ!!!
激しい金属音と衝撃波が響き渡り、それは吸い込まれるようにローズの掌の中にガシィィン!と収まった。
漆黒の大剣。
それは一瞬にして広大な大海原の底から彼女の手へと舞い戻り、着弾の衝撃で周囲の砂浜に凄まじい土埃を巻き上げた。
あまりにも現実離れした光景に、俺の脳が状況を処理するまでに数秒のフリーズを要した。
「……え? 嘘だろ、トールのハンマーみたいだ……」
声に出さぬよう、心の中で小さく呟く。
ローズは何キロあるかも分からないその巨大な漆黒の武器を、まるで一枚の羽毛でも扱うかのように、軽々と片手で持ち上げてみせる。
「言ったでしょう?」
彼女の涼しげな声には、ほんの微かに、誇らしげな響きが混じっていた。
「へぇ、それが太陽神の伝説の武器の一つかい? 大層なことだねぇ」
ヒュー……と口笛を吹きながら、からかうように肩をすくめる。
「だけどさ、売っちまいなよそんなの。そんな物騒なもの背負って歩いてたら、一発で正体がバレるよ」
ローズは静かに首を振り、その剣の柄を、あえて海賊の女へと差し出した。
「なら、あなたが持ちなさい」
「ふん、アタイを誰だと思ってるんだい?」
エレノアは不敵に眉を上げ、自信満々にその両手で大剣の柄をガシィッと掴んだ。
だが、次の瞬間、彼女の顔から余裕の笑みが消え失せた。
ズシィィィン……!!!
「ぬ、ぐぅゥゥ……っ!?」
凄まじい質量に引きずられるように、エレノアの身体が前のめりになり、剣は地響きを立てて砂浜へとめり込んだ。
彼女は顔を真っ赤にし、首に青筋を何本も浮き出させながら、歯を食いしばって全力でそれを持ち上げようと試みる。
しかし、大剣はまるで地面と一体化しているかのように、一センチたりとも動かない。
「ぬ、ぬぅゥ……っ! なんなんだい、これ……重すぎるだろ……っ!」
エレノアはついに諦めて手を離し、激しく息を荒らげながら、不満そうにローズを睨みつけた。
「なぁんであんたはこれを普通に振り回せて、このアタイが動かせないんだい?」
納得がいかない様子で、エレノアがローズを問い詰める。
ローズは何も答えず、ただ静かに沈黙を守った。
「吉田」
ローズが俺の前に一歩歩み寄り、日本語のイントネーションで話しかけてきた。
「あなたがこれを背負って。私が持っていると目立ちすぎるわ。あなたの薄い魔力なら、人目を逸らしやすい」
一瞬ためらったが、俺は座ったまま身を乗り出し、その漆黒の柄に手を伸ばした。
背後から、エレノアの「は? 何させてんだい?」と言いたげな視線が突き刺さる。
指先が冷たい金属に触れた瞬間、確かにずっしりとした重みは感じた。だが、エレノアが顔を真っ赤にして苦戦していたような、あの絶望的な重さでは決してない。
少し腕に力を込めると、拍子抜けするほどあっさりと、それを地面から持ち上げることができた。
鋭く、美しく、そしてどこか底知れぬ「闇」を纏った不思議な剣だ。
「……え?」
エレノアが間の抜けた声を漏らし、あ然と目を見開いた。
彼女の隻眼の視線が、地面から剣をひょいと持ち上げた俺へと釘付けになる。出会って以来初めて、その顔からおチャラけた笑顔が完全に消え去った。
それはまるで、得体の知れない何か危険な怪物を値踏みするような、冷たい目だった。
言葉は完全には分からなかったが、二人のジェスチャーから方針は決まった。
とにかくここを移動して、他人の目から姿を消す。
俺はローズに肩を借りて苦労しながら立ち上がり、支えられながら未知なる内陸への行軍を開始した。
砂浜のエリアを離れ、一歩、森の中へと足を踏み入れる。
足元の地面は見たこともない青々とした湿った草に覆われ、進むにつれて木々の密度が増していく。
時折、木々の間を、現実の世界では見たこともないような光り輝く毛並みを持った奇妙な小動物たちが、すばしっこく横切っていくのが見えた。
「本当に、ファンタジー映画の中にいるみたいだ……」
ぽつりと、自分にしか聞こえない独り言が漏れる。
空の太陽が徐々に暖かさを増していく中、俺たちは数時間にわたって静かに歩き続け、やがて帳が下りるように静かな夜が訪れた。
優しく月光を映し出す、澄んだ小川の近くで足を止める。
ローズは無駄のない手慣れた動きで、数分のうちに即席の焚き火を作り上げた。
パチチッ、パチッ……。
「ちょっと、その辺で食いもんでも探してくるよ」
エレノアがそう言い残し、軽い足取りで夜の闇の中へと消えていく。
俺は静かに、赤く揺らめく炎を見つめていた。
薪が爆ぜる心地よい音と、すぐ側を流れる水のせせらぎが、張り詰めていた俺の心に不思議な安らぎを与えてくれた。
少しだけ、自分の足で焚き火の周りを歩いてみる。
動きはまだ少しぎこちないが、歩く感覚は確実に、少しずつ良くなっている。
炎の向こう側から、ローズがそんな俺の様子をじっと見つめていた。
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「バランスを保って」
静かで、どこか温かい声。俺は彼女に向けて小さく頷いた。
周囲の自然を指差しながら、ここ数日で彼女に教わった言葉を一つずつ、口に出して繰り返していく。
「みず……、き……」
ローズの口元に、微かな、優しい微笑みが浮かんだ。彼女は小さく頷く。
「ええ、上達しているわね。吉田」
ゆっくりと深呼吸をして、夜の冷たい空気を吸い込む。
目の前で火は爆ぜ続け、この過酷な異世界に送り込まれてから初めて、俺は胸の奥に、小さな、確かな「平穏」を感じていた。




