第27話:栄光の王国への到達
【吉田視点】
目の前に広がる海は、あまりにも大きかった。
どこまでも続く圧倒的な青は威厳に満ち、どこか神々しい。
元の世界にいた頃、こんなふうに海を眺めたことなんて一度もなかった。冷たい白い壁に四方を囲まれた病室の中で、ただ天井を見つめて生きているだけの存在だったからだ。
自分一人では呼吸以外何もできない、生きた屍のような日々。
そんな何も知らないまま終わるはずだった人生は変わった。俺は今、自分の足で立ち、五感のすべてでこの世界を感じている。
小さな筏の縁に腰を下ろし、脚をぶら下げる。つぎはぎだらけの船体は、穏やかな波に押されてゆらりと揺れていた。
ザザァン……ザザァン……。
心地よい潮風が、まだ湿った黒髪を揺らす。肺を満たす塩の匂い。数日前、この凶暴な海に殺されかけたなんて、今の静けさからは信じられなかった。
あの嵐で遭難してから丸六日。目的地も方角も定めぬまま、俺たちは海のど真ん中を漂い続けている。
ローズいわく、エレノアが完全に進路を見失って迷っているらしい。
水平線の向こうには陸地も船影もない。ただ果てのない海が広がるだけだ。
ここ数日の環境の変化を改めて噛み締めていると、背後から鈍い音が響いた。
「舵に触るなと言ったはずだ!」
ローズの苛立った声。振り返ると、予想通り彼女とエレノアがまた激しい口論を始めていた。
「落ち着けよ、騎士様。海はちゃんと進む場所を知ってるさ」
エレノアがケラケラと軽口を叩き、ローズがさらに声を荒らげる。
「意味がわからない!」
「ちゃんと意味あるって」
「あなたのせいで迷ってるのよ!」
「大げさだなあ」
「役立たずの海賊!」
「ハハハハ!」
エレノアの豪快な笑い声が響き、ローズは悔しそうに美形な顔を歪めて歯を食いしばっていた。言葉は分からなくても、この二人の距離感がなんとなく掴めてくる。
「吉田〜♪」
やけに甘ったるい声と共に、エレノアが顔を近づけてきた。風に揺れる黒髪と、いたずらっぽく細められた隻眼。
「退屈してる? その気ならさ、海賊の楽しいこと、色々教えてあげるよ」
何を言っているかは分からないが、背後から肌が焼け焦げそうなほどの鋭い視線を感じた。ローズだ。
「エレノア。彼から離れなさい」
「ん? 嫉妬?」
「違う。ただ、私の監視対象の邪魔をするなと言っているだけよ」
「過保護な騎士様だねぇ」
エレノアが不敵に笑ったその瞬間、俺の情けない腹の虫が大きく響き渡った。
ぐぅぅぅぅ……。
「おっと、食事の時間だね!」
エレノアはウインクを一つ残して離れていった。代わりにローズが小さくため息をつき、俺の向かい側に腰を下ろす。
「……続けるわよ」
彼女は濡れた木片を拾い、短剣の先で表面にガリガリと文字を刻み始めた。
「これは――水」
「みず」
「いいわね。次は――海」
「うみ」
「正解よ」
時々優しく、時々厳しく。彼女の熱心な指導のおかげで、この世界の言葉が確実に染み込んできている。
再び広大な海を見つめる。騎士、怪物、魔法、海賊、あの猛烈な嵐。
この世界はあまりにも危険で流れが速すぎる。正直、精神的に置いていかれそうになることも多かった。
ぎゅっ――。
気づけば拳を強く握りしめていた。その様子を、ローズが深紅の瞳でじっと見つめている。
「不思議ね」
「何が?」
「あなたのその動きよ。最初に召喚の広場で会った時は、全く動けなかったわ。あの奇妙な鉄の椅子に座ったままだった」
その言葉に、俺の脳裏にあの一生消えない暗い記憶がよみがえる。東京の病室、消毒液の匂い、そして自分の意志で一ミリも動かない不自由だった肉体。
「でも今は、普通に自分の意志で動いているわ。体調に異変や、どこか痛む場所はない?」
「ないよ。むしろ前より元気なくらいだ」
「そう……それはいい兆候ね。あなたの言葉の習得も驚くほど早いし、この調子なら数ヶ月で基本的な会話は完璧に理解できるようになるわ」
褒められた勢いで、俺は胸の奥でずっと燻っていた疑問を口にした。
「ローズ。どうして君は、俺の世界の言葉(日本語)が分かったの?」
彼女は一瞬だけ静かに唇を閉じ、遠くの水平線を見つめた。
「昔、ある人に会ったの。私がまだ幼かった頃、ワーウィック王国の近衛隊長を務めていた人よ」
「隊長?」
「ええ。とても奇妙な異国の言葉を話す人だったわ。子供だった私とケンは強く興味を持って、お互いの言葉を学び合ったの」
俺の先人が、すでにこの世界にいたのだ。
「それが……日本語だったんだね?」
「ええ。でも、その人はある日突然消えたわ。あの凄惨な『ミレイアの戦い』の後にね」
消えた、という言葉に眉をひそめる。だが同時に、一つの希望が頭をよぎった。
「ローズ。じゃあ、他にも俺みたいな日本人がこの世界に来てるってことか? 俺が元の世界に……日本に戻る方法って、あるのかな?」
痛いほどの沈黙が流れた。ローズの表情が、明らかに動揺を隠しきれないものへと変わる。
「……あると思うわ」
彼女の口から出たのはそれだけだったが、十分だった。戻る手段が存在するなら、元の世界へ帰れる可能性はゼロじゃない。
「ご飯だよー!」
エレノアの声と共に、焼き魚と海藻の香ばしい匂いが漂ってきた。
「本日のおすすめ料理さ!」と目の前に置かれた魚を一切れ口に運ぶ。……しょっぱい。そして、後味が少し苦い。俺は小声で囁いた。
「これ、食べるの何回目だっけ……味付け変わらないな」
「文句を言わない。贅沢よ」
ぐうの音も出ない正論に苦笑いしながら咀嚼していると、水平線の向こうに小さな影が滲んでいるのに気づいた。波飛沫じゃない。俺は勢いよく体を起こした。
「ローズ、あれ、見て」
指さした先を彼女が鋭く凝視する。やがて、その点は確かな緑と土の形を成した。陸地だ!
「ハハッ! やっぱり私の勘は当たったね! 到着だ、野郎ども!」
エレノアが荷物箱の上に飛び乗り、大声を上げて片腕を掲げる。ローズは不審な目を向けた。
「まだ陸地が見えただけよ。本当に目的地なの?」
「分かるさ! 太陽の位置を見な、この潮風を感じな! 間違いない。ここは――『海賊の隠れ島』さ!」
自信満々に胸を張り、満面の笑みで宣言した直後、エレノアはコンパスを見て「あ、やべ」という顔を一瞬だけ浮かべた。しかし即座に何食わぬ顔で声を張り直す。
「いや! 間違いない、ここは――『ヘッセン王国』だ!!」
ドォーン……!
その瞬間、隣のローズの表情が文字通り氷結した。
(……え? 今、あからさまに目的地間違えて言い直さなかったか……?)
言葉の通じない俺でさえ、エレノアがとんでもないルートミスを誤魔化そうとしたのが丸分かりだった。あ然とした様子で遠くの陸地を見つめ、ローズは完全に絶句している。
「……あなた、本気で言っているの?」
その声は、嵐の夜よりも冷たく、そして困惑に震えていた。




