第26話:英雄たちの海
【ローズ視点】
灰色の空の下、海は果てしなく広がっていた。
嵐が去った後、あれほど荒れ狂っていた海は嘘のように静まり返っている。もはや波は獣のように吠えず、ただゆっくりと揺れながら、砕けた木片や樽の残骸、そして無惨に引き裂かれた船の破片を漂わせていた。
――「シー・ゴッデス」の残骸。
ザザァン……ザザァン……。
風が強く吹きつけるたび、それらは軋みながら海の上を滑っていく。まるで、浮かぶ墓場のようだった。
冷たい海水が容赦なく私の体温を奪っていく。寒さのせいじゃない。恐怖で、全身の震えが止まらない。心臓が、痛いほどに冷たくなっていく。
「吉田はどこにいるのよッ――!!」
喉が張り裂けるほどの悲痛な叫びが、海の不気味な静寂を切り裂いた。
応える声はない。ただ自分の声が虚しく響くだけ。頭がおかしくなりそうだった。
「エレノアッ!!」
数メートル先、エレノアは半分沈んだ樽の上で、のんびりと浮かんでいた。疲労の色は見えたが、同時に私の必死な叫びをうっとうしそうに受け流しているようにも見える。彼女は片腕を水に垂らしながら灰色の空をぼんやりと眺め、面倒くさそうに大きなため息をついた。
「さあね……」
ゆっくりとこちらへ向けられた隻眼の視線は、酷く冷ややかだった。
「たぶん……死んでるんじゃない?」
ドクン……!
胸の奥で、何かが音を立てて粉々に砕け散った。
視界が焼けるように熱い。涙が溢れそうになるのを、怒りで強引にねじ伏せる。
すぐにでも泳ぎ出したかった。だが、激戦と嵐を経た全身の筋肉は乳酸で完全に麻痺し、指一本動かすのすら拒絶している。かろうじて浮かんでいる板切れにしがみついているのが精一杯で、下手に動けば確実に力尽きる――そんな自分の無力さに、吐き気がした。
周囲を見渡しても、どこまでも続く無限の水面があるだけ。探している黒髪の少年の姿は、どこにもない。
内側から湧き上がる圧倒的な絶望が、急速に激しい殺意へと変貌していく。
「殺してやる……エレノア」
声が怒りと、そして押し殺せない恐怖で激しく震えていた。だが、彼女はまったく動じない。
「嘘つきが……! 本物の海賊でもないくせに!」
エレノアはわずかに首を傾げた。その表情は、まるで私の絶望をエンターテインメントのように楽しんでいるかのようで、本当に、心の底から反吐が出そうだった。
「むしろ私に感謝してほしいくらいだよ」
彼女が足で樽を軽く揺らす。
チャプン……チャプン……。
「海ですら、あの『魔王』を世界から消そうとしたんだからさ」
その言葉は容赦なく私の胸を抉った。そんなわけがない。彼は、吉田はただの優しい男の子だ。痛みが怒りの炎をさらに加速させ、私の理性を完全に焼き尽くした。
「殺す……ッ!!」
「ははハハハ!」
乾いた笑い声が静かな海に響く。嘲るような視線を向けられ、完全に限界を超えた。
「あなた……ッ!」
板を離した瞬間、疲弊しきった指先がツルッと滑った。
グボォッ!!
ドボンッ!!!
無様に海へと沈み、塩水が一気に口の中へ流れ込む。喉が焼け、鉛のように重い腕は思うように動かない。肺から気泡が漏れ出し、冷たい水圧が容赦なく全身を包み込む。
苦しさと共に視界が急速に暗くなっていく。私はここで、吉田を追うこともできずに死ぬの?
そう絶望した瞬間、私の足首へ何かが猛烈な勢いで絡みついた。
ガシィィン!!!
硬質な金属音。直後、凄まじい力で上方へと引っ張られる。
グンッ――!!!
強引な力で海中から引き揚げられ、激しく水面へと叩き出された。
バシャァァッ!!!
「ゴホッ……! ゲホッ……! ゴホッ!」
激しくむせながら、涙と海水で歪む視界を必死に拭う。
そこにあったのは、鈍く光る金属の鎖。その鎖はエレノアの樽から私の足へと繋がっており、彼女はそこに腰掛けたまま、満面の笑みを浮かべていた。
「はははは! 面白い!」
「その無礼は許してあげるよ。退屈しのぎにはちょうど良かったからね」
ジャラ……ジャラジャラ……。
鎖がゆっくりと引かれ、私の体は拒絶する間もなく彼女の方へと引き寄せられていく。
ズル……ズル……。
「はぁ……はぁ……っ」
呼吸を荒くし、抵抗する魔力すら残っていない私を見て、エレノアは勝ち誇ったように口を開きかけた。
だが、私はエヴァの騎士だ。ただ守られるだけの、諦めるだけの女じゃない。体内に残った最後の意地と魔力を拳に凝縮し、水面を蹴って真っ直ぐに突き出した。
「これでも食らいなさい――!!」
乾坤一擲の一撃。これは戦いだ。
ドゴォォォンッ!!!
「ちょっ、何して――!?」
拳はエレノアの乗る樽に直撃し、メリメリ……バキィッ!! と音を立てて粉々に砕け散った。
直後、砕けた木片の奥から聞き覚えのある、短くくぐもった悲鳴が響く。
「……え?」
エレノアが水に落ち、今度は笑い声を消して忌々しそうに舌打ちした。
カチンと私の足の鎖が外れたが、次の瞬間、彼女の動きは一瞬の淀みもなかった。濡れたマントの影から、今度は別の鎖が弾き出される。
ザシュッ――!!!
それは生き物のように、水中へ鋭く突き刺さった。
ガシッ!!
確かな手応え。エレノアが背筋を反らせ、力任せにそれを引き上げる。
ドバァァッ!!!
水面を割って、一人の人影が豪快に引きずり出された。
エレノアがその人物を片腕で無造作に抱きかかえる。鎖に巻かれた体、濡れて顔に張り付いた黒髪、そして青白い顔に、見覚えのある白いシャツ。
――吉田。
心臓が凍りついた。彼は生きて、そこにいた。
(一体、何が起きているの……?)
「……ありえない」
「驚いた?」
プカプカと浮かぶ別の樽に器用に乗り直しながら、彼女は得意げに薄い胸を張る。
「最初から、ここにいたんだよ。私の特等席の中にね」
目を見開いて硬直する私をよそに、彼女は肩をすくめて続けた。
「いやぁ、でも大変だったんだよ? でっかい波が私の愛しい船をぶっ壊した時さ、二人とも絶対離さないように鎖を投げたんだ。気絶しても、繋がってれば安心でしょ?」
「ローズ……」
吉田の声だった。弱々しいが、確かに聞き慣れた、意味の分からない彼の母国語が唇から漏れる。
生きていた。その事実だけで、胸の奥の重苦しい塊がすっと溶けていくのが分かった。涙が出そうになるのを、必死に堪える。
「その言葉、何? 相変わらず不気味な呪文だねぇ」
エレノアが不思議そうに彼を横目で見た。
「落ち着いて、吉田。ここからは私たちがなんとかするわ」
私は短く告げたが、客観的に見て現状は最悪だった。三人とも海の真ん中で、心許ない木片を頼りに浮かんでいるだけ。食料もなければ、まともな船もない。完全な漂流者だ。
その時、エレノアが何故か威勢よく声を張り上げた。
「よーし! 野郎ども、出発の時間だ!」
「何を言っているのよ、この状況で!?」
彼女は吉田を自分の横に強引に座らせると、胸元から一本の小さなガラス瓶を取り出した。中には古びた羊皮紙の巻物が入っている。
「まさか……」
「私は海賊だよ? 嵐なんて何十回も越えてきた。これくらい、日常だっての」
エレノアはニヤリと不敵に笑い、ボトルのコルクを歯で力任せに引き抜いた。
ポンッ。
現状が理解できず混乱する吉田が、無意識にエレノアの濡れた身体にしがみついている。
……密着している二人の姿が視界に入った瞬間、私の胸の奥に、少しだけ言葉にできない不快感が湧き上がった。なによそれ。離れなさいよ。
「しっかり掴まってな、坊や!」
彼女が海へ投げた巻物から、目も眩むような灰色の光が弾けた。
ボンッ!!!
一気に広がった濃い霧が周囲の視界を白く覆い隠す。
召喚魔法だ。私は確信した。次に現れるのは、アラソーンの名にふさわしい、大砲を備えた堂々たる黒い海賊船なのだと。
……だが。
キィ、キィ……と頼りない音を立てて霧が晴れた先にあったのは。
さっきまでの船の残骸よりもさらに小さく、ボロボロに見える、今にも崩れそうな一枚の「筏」だった。
エレノアはこれ以上ないほど満足げに胸を張り、吉田は呆然と口を開けて固まっている。
私はただ、深く、深く――天を仰いでため息をついた。




