第25話:魔王
【吉田視点】
闇が、すべてを覆っていた。
果てのない虚無が周囲一面に広がり、疲れも眠気も、そして空腹さえも感じない。
体が異様なほどに軽く、まるでこれまでずっと背負っていた見えない重荷が、跡形もなく消え去ったかのようだった。
俺はゆっくりと手を動かし、足を動かして、初めてその場に立ち上がった。
痛みも抵抗も、自分を縛る何の制限もない。
ドクン――。
ドクン――。
心臓の鼓動だけが、静寂の中でやけに鮮明に響いていた。
足元には血のような色をした赤黒い液体が広がり、果てしない水面を形作っている。一歩踏み出すたびに、静かな波紋が広がっていく。
ぴちゃん……。
空気は重く、粘りつくようだ。まるで炎のない地獄の中で呼吸しているような錯覚に陥る。
その時だった。空間そのものが震えるような、低く深い声が響いた。
「……ようやく、戻ってきたか」
重なり合う無数の声が耳を打ち、胸を押し潰されるような圧迫感に冷たい汗が頬を伝い落ちた。
一瞬で全身を貫くような恐怖に、俺の声は激しく震える。
「だ、誰だ……!? 何なんだよ、ここは……! ここはどこなんだ!?」
必死に視線を巡らせるが、自分の周囲にある淡い光以外はすべて完全な闇だ。
(ローズ……?)
ズン……。
闇の奥から重い足音が近づいてくる。同時に、鎖を引きずる不吉な音が響いた。
ガシャ……ガシャ……。
姿は見えないが、本能が「危険だ」と狂ったように警鐘を鳴らしている。
やがて、闇の中に二つの赤い光が浮かび上がる。それはローズと同じ瞳の色。だが、そこには温度など欠片もなく、底の見えない闇だけが湛えられていた。
呼吸すら苦しくなるほどの威圧感を放ちながら、そいつは姿を現した。
灰色の長髪に、頭部を覆う冷徹な兜。左頬にある小さな黒子、そして古代の怪物の骸骨で作られたかのような黒い鎧。
全身から溢れ出す暴力的な気配に、俺は見覚えがあった。
「お前は……リュウジンだろ!?」
「……リュウジン?」
そいつはわずかに首を傾げ、ゆっくりと腰の剣に手をかけた。
シャァン……。
金属音が闇に溶け、鈍く光る白銀の剣が姿を現す。
「違う。俺はリュウジンではない」
動きは見えなかった。次の瞬間には、衝撃が胸を貫いていた。
ズブッ――!
心臓を正確に捉えられ、俺は瞬きすら忘れて固まった。不思議と痛みはなく、叫びも出ない。
世界がただ静まり返る中、赤い眼が俺を覗き込み、狂気に満ちた殺意が魂を侵食していく。
「人が俺を何と呼ぶか……教えてやろう」
「『魔王』だ」
思考が止まる。そいつは俺の名を静かに呼んだ。
「吉田カト」
剣を刺したまま、そいつはもう片方の手で三本の指を立てた。
「三度だ。お前の前に現れるのは……三度だけ」
「この歴史も……これで最後だ」
「目を覚ませ。そして、死ぬな」
声はさらに冷たさを増し、底なしの深淵のように沈んでいく。
「なぜなら、お前は……いずれ、俺になる」
その囁きに、遠くから無数の声が重なり、頭の中で反響した。
「……時間だ。彼女のもとへ戻れ」
体はまだ剣に貫かれている。だが、痛みはない。
「生き延びろ。これからの戦いを戦え」
「今ここで死ねば――すべてが無意味になる」
咆哮のようなその言葉を合図に、世界が音を立てて砕け散った。
バキィィンッ――!!!
「目を覚ましなさい、吉田ッ!!」
ガバッ!
目を開くと、そこは地獄のような騒音に包まれていた。
唸る暴風、激しく叩きつける雨。黒い雲が狂ったように渦を巻く空から、鋭い雨粒が顔に突き刺さる。冷たく、そして痛い。
波はそびえ立つ壁のように迫り、船は上下左右に激しく振り回されていた。
「起きて!! 吉田!!」
振り向くと、ずぶ濡れのローズがいた。赤い髪が顔に張り付き、その瞳には明らかな恐怖が浮かんでいる。
その時、嵐の音を切り裂くような笑い声が響いた。
「ガハハハハハ!!」
エレノアだった。彼女は嵐の中、舵の前で目を輝かせて笑っていた。激しく暴れる黒髪を気に留める様子もなく、この最悪な極限状態を心の底から楽しんでいる。
「ローズ!!」
エレノアが叫び、マストを指差した。
意味は分からなかったが、ローズはその意図を即座に理解し、顔色を変えて走り出す。彼女は揺れるマストをしなやかに駆け上がり、風に引き剥がされそうになりながらも、つぎはぎだらけの帆へと辿り着いた。
エレノアがまた大声で叫び、今度は俺を指差した。
彼女は両腕を広げ、自分をぎゅっと抱きしめるような仕草をしてから、俺に不敵なウインクを送ってくる。
(……は? 言葉は分からんけど、この状況で『身体を固定してろ(しっかり掴まってろ)』じゃなくて、『私を抱きしめて!』とでも言いたいのか!?)
船が巨大な波に持ち上げられ、一瞬、身体が完全に宙に浮きかけた。俺は必死に壊れかけの手すりへと爪を立てるようにしがみつく。
「何言ってんだよ!?」
俺の叫びは暴風にかき消された。上空ではローズが必死に帆と格闘し、足元の船体はミシミシと悲鳴を上げている。
ミシィ……メリメリッ……!
エレノアが笑っているのは、もう助からない可能性を悟っているからではないか。
そう気づいた瞬間、俺たちの目の前に、巨大な「黒い水の山」が現れた。船よりも、マストよりも遥かに高い、圧倒的な破壊の塊。
ゴォォォォォッ!!!
「来るぞォ!!」
エレノアの叫びが響く。マストから降りてきたばかりのローズも、これではもう間に合わない――!
ドォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃と共に、世界が完全に白濁した水の中に飲み込まれた。
マストがへし折れる絶望的な音と、甲板が粉々に砕ける轟音が重なる。
バキィィッ!!!
身体は無慈悲に宙へと投げ出され、冷たい海がすべてを押し流していく。
最後に聞こえたのは、耳を劈くような濁流の轟音。
そして、その後に訪れたのは――深く、深い静寂だった。
昏い闇が、落ちてきた。




