第24話:未知の海を越えて
【ローズ視点】
潮風が正面から頬を叩きつける中、小さなボートは広大な海の上を頼りなく滑っていた。
頭上では、つぎはぎだらけの帆が不格好に膨らみ、風を受けるたびに――
ギシ……アン……
ギシ……アン……
と、いまにも壊れそうな不安げな音を立てる。
布の色も統一感はなく、古い袋や毛布の切れ端のようなものまで混ざっていた。強い風が吹くたび、今にも裂けてバラバラになってしまいそうで、見ているこちらの神経がガリガリと削られる。
(……本当に、これで良かったのか)
そんな考えが頭をよぎるが、現実はすでに四方が海に囲まれていた。
どこまでも続く圧倒的な青。太陽の光が水面に砕け、まるで散らばったガラスのようなきらめきを放っている。
この世界に戻ってきてから、初めて――ほんのわずかだが、安堵に近い感覚を覚えていた。
どこまでも広い海は、今の私たちにとって唯一の避難場所のように思えた。そう信じたかった。
だが、進んでいるのは“間違った海”だ。
世界最強の艦隊を持つ国家、ミルバー共和国の領域から今まさに逃げているのだから。
私は船尾に立ち、視線を水平線に固定する。
空と海の境界を切り裂くようなマスト、帆、紫の旗……そのどれかを、無意識のうちに探していた。あの国の船乗りにとって、海は完全に“支配された領域”なのだから。
だが――意識は、どうしても別のものに引きずられる。
「おおお~深海のルイおじさんッ!
港の悪夢! ラム酒の破滅ォォオッ!!」
エレノア・アラソーン。
“海賊”と呼んでいいのか本気で疑わしい女が、舵の横で胸を張りながら、信じられないほどでかい声で音痴な歌を歌っていた。
「船を百隻奪い~♪ 酒代は一度も払わない~♪
ヒック! ガハハハハ!」
……最悪だ。私は思わずこめかみを押さえて目を閉じた。
ボートが揺れるたびに内臓がぐっと持ち上がるような感覚に襲われ、胃が悲鳴を上げていた。不覚にも船酔いだ。
それでも、絶対に弱さは見せない。エヴァの騎士として。そして――吉田がここにいるから。
視線を横へ向けると、そこには無防備に眠る彼の姿があった。
即席の寝床で静かに呼吸を繰り返すその表情は穏やかで、まるで元の世界の日常の延長であるかのようだった。私のセーラー服を毛布代わりに丸まっている姿が、どこか小さく見える。
「うわ、何これ。そこの坊や、完全にぐっすりじゃん。丸太みたいに微動だにしないね」
いつの間にか歌をやめたエレノアが、すぐ横から眠る彼の顔を覗き込んできた。
「そこ、私の特等席なんだけど?」
……苛立つ。理由ははっきりしないが、この女には確実に神経を逆撫でされる。
「ねぇ! ロゼット・ベイカー!」
エレノアは持っていた酒瓶の栓をガッと歯で引き抜き、豪快に中身をあおった直後――あろうことか、その瓶をこちらに向かってぶん投げてきた。
私は表情一つ変えず、身体をわずかにスッとずらす。
ヒュッ――。
瓶は私の髪をかすめ、そのまま海へと落ちていった。
ポチャン……。
「…………え? はぁぁぁぁぁぁ!?」
エレノアが目玉が飛び出しそうな顔で絶叫したかと思うと、次の瞬間だった。
ドボンッ!!!
派手な水音を立てて、彼女はそのまま海へ自ら飛び込んだ。
しばらくして、しっかりとその酒瓶を右手に握り締めたまま、プハッ!と海面に顔を出す。……本当に馬鹿だ。
「あんた、絶対友達いないでしょ」
びしょ濡れのまま這い上がって船に戻ってきた彼女は、なぜか誇らしげに鼻を鳴らし、再びその酒を嬉しそうに飲み始めた。
「どこへ向かう?」
私は冷淡な声で短く問いかけた。エレノアはケラケラと笑いながら、両手を広げて肩をすくめる。
「うーん……流れに任せる!」
私が真顔のまま冷たい視線を向けると、エレノアの顔からふっと軽薄さが消え、真剣な眼差しに変わった。
「どこでも――あんたたち、殺されるよ?」
背筋に冷たい氷の刃を押し当てられたような戦慄が走る。
五大王国すべてにおいて、吉田も、そして自分も――「世界公敵」なのだ。
逃げ切ったのではない。ただ“次に追われる場所を選んでいるだけ”なのだと、冷たい現実を突きつけられる。
私は無言のままエレノアの背後へ歩み寄り、指先に小さな風の渦を集めた。
「……静まれ」
フワァァン!と魔法の温かい風がエレノアの身体を包み込み、濡れた衣服の水分を一気に、そして綺麗に奪い去っていく。
「ちょっ、先に言ってよ!」
笑いながら抗議する彼女を無視し、私の視線はふと彼女の身体に落ちた。
水分が抜けてもなお、張り付いた衣服のせいで、引き締まった脚と無駄のないしなやかな筋肉のラインが浮き出ている。
(……強い)
ただの酔っ払いではない。その事実を再確認し、私は無意識に視線を逸らして、眠る吉田を見た。
なぜか胸の奥に、わずかな不快感のような澱が残った。
「ねえ、面白い話を聞いたんだよね」
エレノアの声から完全に軽さが消える。酒瓶を見つめる彼女の目が、酷く冷ややかに光った。
「ワーウィック王国で大戦があったらしいよ。魔神の軍勢が突然現れて、地獄みたいな戦争。史上最悪レベルって話」
彼女は指を一本立てて続けた。
「ザリアの一族は滅亡。エヴァ騎士団は壊滅。……そして、結果は引き分け」
何百万もの魔族が追い返されたらしい。“何か”によって。
「あとさ、魔導王たちが騎士を送り込んだって話。任務は単純。『魔王』討伐」
ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。
「でもさ、その騎士、失敗したらしいよ? 殺すどころか――連れて帰ってきたんだってさ」
にやりと笑う彼女の眼帯のない瞳が、私の動きを値踏みするように捉えて離さない。
誰がそんな話を流したのか。胃の奥が鉛のように重くなる。
「最高じゃない? その当事者が、私の船にいるんだから」
ザザァン!と風が吹き、船が激しく揺れる。
それでも、私たちは生きている。それだけは確かだった。
とんでもない狂人に拾われてしまったけれど、だからこそ、この絶望的な状況では一番信用できるのかもしれない。
◆ ◆ ◆
――その頃。二人が出発したばかりの浜辺。
一人の騎士が、静かに海を見つめていた。
背には、あの異様な禍々しさを放つ黄金の槍。
周囲の騎兵たちが砂を巻き上げて慌ただしく捜索する中、彼だけは微動だにしない。
その鋭い視線はただ一点、遥か遠くへと遠ざかっていく小舟の影を捉えていた。
「エレノア・アラソーン……」
隣の騎士が吐き捨てるように呟いたその名を聞き、ケンの低く冷徹な声が響く。
「誰だ、その女は」
「自称海賊の、ただの小癪な飲んだくれです」
「……そうか」
ザクッ――。
黄金の槍の穂先が、容赦なく砂地へと突き刺さる。
その漆黒の瞳の奥に、陽光さえも凍りつかせるような冷酷な殺意が宿った。
「次の標的は、決まったな」




