第23話:世界で最も恐れられている女海賊
【吉田視点】
死の気配は――
俺が想像していたよりも、ずっと近くまで肉薄していた。
港へ向かって、急ぎ足で石畳を蹴る。
一歩進むごとに、肺に流れ込む空気の中の潮の匂いが濃くなっていく。
ドン、ドン、と桟橋に打ちつける波の音。
ザザァン……ザザァン……という重低音に重なるように、荒くれ者の船乗りたちの怒号や、商人の強引な呼び込みの声が、雑多な熱気となって飛び交っていた。
環境が一変し、再び視界が開ける。
海だ。
果ての見えない巨大な水面が、朝の柔らかな光を乱反射させながら、鈍く揺れている。
岸壁には、無数の船が隙間なく並んでいた。
威圧感のある巨大な商船、天を突くほどに高いマスト、重厚に巻かれた帆。その隣には、小ぶりな漁船や使い古されたボートが、まるでお互いの肩を寄せ合うようにして停泊している。
俺の後ろにいるローズの足取りは、一瞬たりとも緩まない。
だが、その端正な表情には、僅かな変化が兆していた。
彼女の鋭い視線が、一隻ずつ船をなぞっていく。
性能を測り、状況を読み、その価値を値踏みするように。
(……まさか、盗む気か?)
怖くて聞けなかったが、彼女の考えていることはなんとなく想像がついた。
ただ――同時に、言いようのない不安も首をもたげる。
(船って……馬みたいに簡単に扱えるもんなのか?)
複雑に絡み合うロープ、巨大な錨、操舵。それに何より、周囲にはあまりにも人の目が多すぎる。
彼女もその事実に気づいたのか、ほんの一瞬だけ、眉間に険しい皺を寄せた。
(……あのローズ・ベイカーでも、悩むことがあるんだな)
その時だった。
すぐ近くの荷揚げ場で、激しい言い争いの声が上がった。
意味の分からない言語だが、相手を激しく罵倒していることだけは嫌というほど伝ってくる。
「ガサツナ、ノラ犬ガ!」
「ハッ! シケたツラして震えてナ!」
数人の大柄な男たちが積み上げられた木箱の陰から現れ、その中の一人が、乱暴に誰かを突き飛ばした。
ドサァッ!
湿った砂の上に、一人の人影が派手に転がる。
「二度と面を見せるナ!」
ガハハハ! と下品な笑い声を残して、男たちは去っていった。
残された影は、しばらくの間ピクリとも動かなかったが、やがて――ゆっくりと、呪いでも解けてかのように顔を上げた。
女だった。
腰まである長い黒髪は潮風に吹かれてボサボサに乱れ、その服装は……一言で言えば、支離滅裂だ。
船乗り風の意匠を凝らしてはいるが、どこか派手で、統一感という言葉を忘れてきたかのような奇抜さがある。
そして何より目を引いたのは、その左目を覆う――黒い薔薇を模したデザインの眼帯だった。
女はふらりと、危うい足取りで立ち上がる。
ヒック、と豪快にしゃっくりを漏らしながら、砂を払おうとして空振りし、そのままズデンッ!と尻餅をつきかけている。
(……酔ってるな。それも、相当に)
だが、本人は全く気にする様子がない。 その女の視線が――ローズと真っ向からぶつかった。
数秒の沈黙。
女は首を傾げ、片目を限界まで細めてローズを観察する。
そして――ニィッ、と。
驚くほど不敵で、自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。
女の口から、楽しげに弾むような異世界の言葉が飛び出す。その奔流のような発音の中で、俺の耳に一つだけ、はっきりと聞き覚えのある単語が飛び込んできた。
「――『ローズ・ベイカー』――」
心臓がドクンと跳ね、身体が硬直する。
(なんで……こいつ、彼女の名前を知ってるんだ?)
後ろのローズも、僅かに肩を揺らして反応した。
女は千鳥足で、ふらふらとこちらに近づいてくる。
「……何者?」
ローズの声は、真冬の夜のように冷徹だった。
女は大げさに胸に手を当て、芝居がかった動作で大泣きするジェスチャーをしてみせる。
その場でくるりと回り、優雅(だが足元はふらふら)な一礼。
捲し立てるような彼女の言葉に、ローズは冷たく短く返した。
「……見覚えがないわね」
即答。同時に、ローズの手が腰の「天空の剣」の柄へと伸びる。
すると女はガッと胸を張り、天を指差して誇らしげに叫んだ。
「――エレノア・アラソーン!!」
その単語だけは名前だと分かった。
(……なんだ、このテンションの高さは)
言葉の内容は理解できなくても、浴びせられる空気感だけでお腹がいっぱいになりそうだった。
エレノアと名乗った女は、そのまま俺の方を向き、眼帯のない方の瞳をキラキラと輝かせる。
ぐいっと、鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけてきた。悪戯っぽく、肉食動物のような笑み。
(うわ、距離感バグってる……! 酒臭っ!!)
彼女は俺の顔を覗き込みながら、これ以上ないほど露骨にパチンッとウインクをして見せた。さらに俺の顎を指先でクイッと持ち上げようとしてくる。
(いや、言葉は分からんけど、これ絶対ナンパだろ!?)
隣から、ハァ……と深い、そして重いため息が漏れる。ローズの苛立ちは、すでに沸点に近い。
「エレノア。……どきなさい」
「ハイハイ」とばかりに手を振り、エレノアはふっと声を落とした。
その瞬間、彼女の眼差しが真剣なものに変わる。
街の奥を指差し、親指で首をはねるようなジェスチャー。
(……やっぱり、包囲網は完成してるんだ。街の騎士たちのことを言ってるのか)
冗談のような口調の裏に、無視できない重みが混じっていた。
しかし、エレノアはすぐにまたニカッと不敵に笑うと、両腕を広げて劇的なポーズを取った。
自分を親指で指し、ふんぞり返って鼻を高くする。
(この人、完全にこの最悪な状況を楽しんでやがる……)
数秒の沈黙の後、ローズが決断を下した。
「……船、あるの?」
その問いに、エレノアは力強く何度も頷き、俺をちらりと見た。
「見せなさい」
エレノアが「ついてきな!」と手を振る。
案内されたのは、メインの桟橋から少し離れた、寂れた隠れ浜だった。
ふらふらと酔っ払った歩き方のくせに、彼女の移動速度は妙に速い。
やがてエレノアが足を止め、満面の笑みで両手をジャキーンと広げた。
俺は絶句した。一度目を擦り、もう一度見る。
(……え?)
小さい。古い。塗装はボロボロに剥げ、船体の板はあちこち歪んでいる。
帆は、継ぎ接ぎだらけで何度も縫い直された痕跡が生々しい。
エレノアはこれ以上なくドヤ顔で胸を張る。
「シー・ゴッデス!!」
その単語だけが誇らしげに響いた。
……。
……。
俺とローズは顔を見合わせ、再びその「ボロ船」に視線を落とし、また顔を見合わせた。
「……ただの粗大ゴミね」
「ちょっと!?」みたいな顔でエレノアが飛び上がる。
「行くわよ、吉田」
ローズはくるりと背を向けた。俺も反射的に彼女についていこうとする。
その瞬間――。
「うわああああああん!!」
バササッ! と砂を巻き上げる音。
エレノアが膝から崩れ落ち、そのままの勢いでズサーッ!と地面を這って近づいてくる。 ローズの足にガシッとしがみついた。
涙と鼻水を流しながら、必死の形相で何かを喚いている。プライドという言葉が彼女の辞書にはないらしい。
すると、エレノアは急に俺の方を向き、瞳をウルウルと潤わせた。
(うわ、嫌な予感しかしない……!)
彼女がチュッ、と唇を突き出し、俺に飛びかかろうとした瞬間――。
――ゴンッ!!!
鈍く、重い衝撃音が響いた。ローズの拳が、エレノアの頭頂部に深々とめり込んでいる。
エレノアは目を開けたまま、白目を剥いてひっくり返った。
ドサァッ……。
「……二度と、この子に触れようとしないで」
ローズの冷え切った声が響く。
数秒後、仰向けのままのエレノアが、頭にマンガみたいに巨大なたんこぶを作ってニヤリと笑った。
「ヘヘッ……」
(この人、強いな……いろんな意味で、メンタルが鋼すぎる)
その時。ローズの視線が、遠くの街の方へと向けられた。つられて俺も振り返る。
ガシャァン、ガシャァン! と遠くから微かに響く金属音。
騎士たちだ。彼らは一軒一軒、手当たり次第に扉を叩き、民家に踏み込んでいるのが遠目に見えた。
(来た……もう、そこまで来てる)
ローズの決断は速かった。
「乗るわ。出しなさい」
彼女の意図を察したエレノアが、シャキッと跳ね起きる。
ローズはここまで乗せてくれた馬の手綱を解き、その首筋を優しく撫でた。
「……ありがとう。助かったわ」
ヒヒン……と、馬は静かに鳴いて、主を気遣うように去っていった。
身体はまだ鉛のように重いが、俺はローズに肩を貸してもらいながら、船へと乗り込む。
ギシ……ギシ……と心許ない音を立てて足元の板が軋む。
エレノアが船尾から全力で船を押し、ザザザザッ!と砂を削る音と共に、船体が水へと滑り出した。
ゆらり、と身体が揺れる。
目の前には、どこまでも広がる蒼い海。
そして背後には――遠ざかっていく街と、蟻のように群がる騎士たち。
バササッ!と継ぎ接ぎだらけの帆が、風を孕んで大きく膨らんだ。
エレノアが舵を握り、空を指差して芝居がかった叫び声をあげる。
隣でローズが、フゥ……と深い溜息をつくのが聞こえた。俺は――。
ただ、水平線の彼方を見つめていた。
(……本当に、海へ出るんだな)
そして、奇妙な三人(と一人は気絶寸前の酔っ払い)を乗せたボロ船は、ゆっくりと、だが確実に港を離れていった。




