第21話:ローズの目覚め
【吉田視点】
あの巨大な猫に、この洞窟へ運ばれてから――三日が経った。
まるで、自分もあの群れの一匹みたいに咥えられて。
あの焼けつく砂と、肌を焦がす熱に呑まれかけた日から、もう三日。
……正直、時間の感覚が曖昧になってきている。
ローズは、まだ完全には目を覚まさない。
時折、身体がかすかに動く。
けれどそれは、目覚めようとしている動きじゃない。
見えない何かと戦っているみたいに、苦しそうに身をよじるだけだ。
目は――開かない。
そして――
喉が、焼けるように渇いている。
空腹と疲労が、じわじわと全身にまとわりつく。
身体が重い。
まるで、水を吸った石みたいに。
何も食べていない。
何も飲んでいない。
少しでも動こうとすると、世界がぐらりと傾く。
視界の端から、黒く滲んでいく。
(……やばいな、本気で)
あの猫は、それを分かっているみたいだった。
毎日、何かを咥えて戻ってくる。
それを目の前に置いて、前足で軽く押してくる。
――食え、とでも言うように。
まるで、同じ群れの一匹であるかのように。
けれど――持ってくるものが問題だった。
見たこともない生き物。
黒ずんだ肉。
力の抜けた虚ろな目。
鼻の奥にこびりつく、重く鉄臭い匂い。
腹は鳴るのに、頭が拒絶する。
(無理だろ……こんなの)
それでも、どうにか動けるようにはなってきた。
体を捻る。
床を擦るように進む。
肘で押して、少しずつ前へ。
まるで、みっともない芋虫だ。
(……情けない)
猫の子どもたちは、母親が狩りに出ると、こっちに寄ってくるようになった。
警戒もなく、自然に。
胸の上に乗って、丸くなる。
そのまま眠る。
シャツ越しに伝わる、小さな体温と呼吸。
不思議だった。
怖がられていない。
獲物でも、敵でもない。
ただ、そこにいる存在として受け入れられている。
(……なんなんだよ、この状況)
三日目の夜。
洞窟の奥に、重い足音が響いた。
ズシ……ズシ……
ゆっくりと、近づいてくる。
入口に視線を向けると、月明かりの中に巨大な影が浮かび上がった。
あの猫だ。
口に何かを咥えている。
近づいてきて、それを落とした。
ドサッ。
……脚だった。
赤く、生々しい。
まだ新しい。
匂いが、強烈だった。
温かい血の臭いが、空気に混じる。
気づけば、口の中に唾が溜まっていた。
(……なんでだよ)
気持ち悪いのに。
身体が、勝手に反応している。
這う。
転がる。
震える腕で、その肉にかじりついた。
ぬるい。
滑る。
繊維が歯に絡みつく。
うまく裂けない。
それでも――止まらなかった。
(……もう、人間じゃないみたいだ)
その時だった。
洞窟の奥。
淡い月光が差し込む中で――
見えた。
ローズが。
座っていた。
乱れた髪。
しわだらけの制服。
ずれたスカート。
肩には、まだ鞄がかかったまま。
まるで――ここが異世界だと、認めるのを拒んでいるみたいに。
その瞳が、こちらを捉える。
紅い光。
前に見た時より、ずっと強い。
「……吉田?」
声が震えていた。
安心じゃない。
――恐れ。
その視線が、ゆっくりと下がる。
口元。
血。
手の中の生肉。
そして――背後の獣。
表情が、固まる。
瞳が揺れる。
次の瞬間――
消えた。
いや、見えなかっただけだ。
気づいた時には、岩に立てかけてあった黒い剣を手にしていた。
「……これは……」
低く、確かめるような声。
「私の剣……」
その瞬間。
猫が立ち上がった。
グルル……ッ――
低い唸り。
空気が変わる。
「吉田!!」
叫び。
ローズの体が動く。
いや――消えた。
速すぎる。
軌道が追えない。
黒い剣が月光を受けて、一瞬だけ光る。
跳んだ。
宙に浮かぶその姿が見えた。
振り下ろされる刃。
猫は、後方へ跳躍する。
――ズサッ!!
刃が地面に突き刺さる。
そのまま、猫が反撃に踏み込む。
(まずい――!)
「やめろ!!」
声が出た。
裂けるみたいに。
でも――それは、ただの叫びじゃなかった。
命令だった。
空気が震える。
洞窟全体に、重たい何かが満ちる。
猫が止まった。
ぴたりと。
そして――座る。
まるで、従うのが当然みたいに。
子猫たちが、不安げに鳴く。
ローズも、動きを止めた。
剣はまだ地面に刺さったまま。
荒い呼吸。
でも、その視線は――
もう獣じゃない。
こっちを見ている。
「……何なの、これ」
低い声。
困惑と警戒。
猫が、不満そうに低く唸る。
体が、限界だった。
まともに座っていることすらきつい。
「ローズ……落ち着いて……」
一歩、下がる。
でも、安心している顔じゃない。
むしろ――何かに気づいたような顔だった。
手が震えている。
そして。
力が抜けた。
膝から崩れ落ちる。
「っ……」
そのまま倒れ込む。
(まずい……!)
体を引きずる。
遅い。
情けない。
それでも進む。
「……動けるの?」
信じられない、という声。
少しだけ笑おうとする。
「……ワニみたいに這うくらいなら、なんとか」
軽口のつもりだった。
でも――笑わなかった。
当然か。
こんな状況で、笑えるわけがない。
少しの沈黙。
やがて、肩を貸される。
岩にもたれさせられる。
息を整える時間。
洞窟の中は、静かだった。
さっきまでの緊張が嘘みたいに。
そして――ようやく、言葉を交わし始めた。




