第21話:海辺の街への到着
それはもはや、漠然とした思考や仮説の域を超えていた。
眼前に広がる光景は、疑いようのない峻烈な現実としてそこに存在していた。
ローズは、静寂の中でじっと港町を凝視している。その紅い瞳の視線は微塵も揺れず、まるでその場所に潜む全ての危険と価値を瞬時に測り取ろうとしているかのようだった。
「――あそこが、私たちの目的地よ」
しばらくして、彼女が先に波打ち際から上がる。
海水に濡れたセーラー服が、あどけなさを残す身体のラインに容赦なく張り付き、生地の紺色をさらに濃く変えていた。
その落ち着き払った声に、俺はすぐには応じることができなかった。
俺はただ、遠くに建ち並ぶ粗末な木造建築や、家々の間を縫うように動く人影、そして潮風に帆をはためかせる古びた船を、夢遊病者のような面持ちで見つめ続けていた。
「……小さいな……」
ぽつりと、乾いた独白が口から漏れる。
「それに……全部、なんて言うか、古臭い感じがする」
現代日本の風景を知る者として、無意識にこぼれ落ちた言葉だった。ローズは歩みを止め、横目で俺の横顔を捉える。
「ここは、あなたのいた世界じゃない。……私の世界よ」
その声音には、甘えも柔らかさもなかった。ただ冷徹な事実だけを突きつけるような、重みのある響き。
俺はわずかに視線を落とした。反論の余地など、どこにもありはしなかった。
「……そう不安そうな顔をしないで。私にとっては、東京の喧騒の方がよほど恐しかったもの」
不意に付け加えられたその言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。彼女なりの、不器用な慰めなのだろうか。
やがて馬は、町の喧騒が届く手前で足を止めた。
ザクッ、ザクッ、と湿った砂を踏みしめる音が静かに響き渡る。
ローズが軽やかな動作で先に地面へ降り、続いて、俺の身体を支えながら慎重に下ろしてくれた。
砂に触れた足裏に、夜の名残を孕んだひんやりとした感触が伝わる。
ザザァン、ザザァン、と寄せては返す波の音が、二人の間の沈黙を埋めていた。
俺は自分の手を見つめる。指の隙間にこびりつき、黒ずんで乾いた血痕。それを目にした瞬間、わずかな嫌悪と不快感が脳裏をよぎり、眉間に影を落とした。
「……一度、洗っておかないとね」
ローズは迷いのない足取りで、再び海へと向かった。
「え、ちょっ――おい!」
止める間もなく、彼女は躊躇なくバシャバシャと水を踏み越えていく。
波が押し寄せ、足首を浸し、膝を越えていく。彼女は振り返ることもせず、俺の腕を力強く掴んだ。
「ちょっと待てって――!」
抗う間もなく、俺は海中へと引きずり込まれる。
「つ、冷たっ!?」
思わず声が裏返った。予想を遥かに超える水の冷たさに、身体が一瞬で強張る。
「っ……これ、普通に凍えるだろ……!?」
だが、数秒もすれば肌の感覚は麻痺し、別の感覚が支配し始める。
こびりついていた血が海水に青白く溶け出し、まとわりついていた砂がさらさらと流れ落ちていく。魂にまで染み付いていたようなあの戦場の汚れが、寄せる波にさらわれていく。
繰り返される波音の中で、余計なものが削ぎ落とされていく。
まるで、ここまでの逃走の痕跡を、世界が少しずつ消し去ってくれているかのようだった。
ローズはためらいなく上着を脱ぎ捨て、それを手にした。その瞬間、俺は息を呑み、わずかに視線を泳がせる。
あの制服。元の世界と繋がる、数少ない絆。
だが、この異世界の大地において、それはあまりにも目立ちすぎる。
彼女は愛剣である「天空の剣」を取り出すと、脱いだばかりの上着で丁寧に、その異形を包み込んだ。
「この格好のままじゃ、町には入れない。……目立ちすぎるわ」
再び町へと向けられた瞳は、すでに私情を排した「任務」のそれへと戻っていた。
「……持って一日ね」
「一日……?」
「それ以上滞在すれば、すぐに追手に嗅ぎつけられる。ワーウィックの犬たちは鼻が利くの」
その言葉が、澱のように重く胃の奥へ沈殿する。
人が集う場所。それは休息の場であると同時に、牙を剥く者に見つかる場所でもあるのだ。
不意に、ローズが軽く手を掲げた。
周囲の空気が、キィンと微かに共鳴するように震える。彼女を中心として、くるりと小さな旋風が巻き起こった。
「また、それか……」
魔法という現象への驚きよりも先に、脱力に近い言葉が漏れる。
彼女の濡れた衣服がふわりと揺れ、次の瞬間にはフゥゥンと熱を帯びた風が吹き抜け、水気を完全に失っていた。最初から濡れてなどいなかったかのように。
「……吉田。後ろを向いて」
「え?」
「いいから、見ないで」
有無を言わせぬ声音。その瞳には、先ほどまでの騎士の冷徹さとは違う、悪戯っぽくも拒絶を許さない光が宿っていた。
「わ、分かってるって!」
俺は慌ててクルッと背を向けた。思ったよりも素真面目に、そして機敏に身体が動いたことに、内心で驚きを隠せない。
(……動ける。さっきまでの全身の痺れが嘘みたいだ……)
背後で再びフワァァンと風が鳴る。さああ、と清涼な音が数秒間続いた。
ローズが、濡れて張り付いた下着を魔法で乾かしているのだと勝手に想像してしまい、俺の耳たぶが急速に熱くなる。
「……もういいわよ」
恐る恐る振り返ると、そこには何事もなかったかのように身形を整えたローズが立っていた。
彼女は無造作に馬の手綱を取る。今度は俺を先に鞍へと促し、自らは歩兵のように歩み始めた。
一歩、また一歩。
ザッ、ザッ、と踏みしめる砂の感触を確かめるように。
町の輪郭は、一歩ごとにその密度を増していく。
やがて――人の声が届き始めた。
ざわざわと、喧騒が風に乗って流れてくる。
それは紛れもない、生活の音。人々の営みが放つ、生命の息吹。
俺は思わずゴクリと喉を鳴らした。この世界に来て初めて目にする、暴力や死とは無縁(に見える)光景。
「……変な感じだな。……本当に人が住んでるんだ」
ぽつりと呟いた言葉に、返答はなかった。ただ、彼女の歩みが止まることはなかった。
◆ ◆ ◆
港の入り口に差し掛かると、数人の男たちが不審げに顔を上げた。
陽光に焼かれた褐色肌、節くれ立った荒れた手、そして異邦人を警戒する鋭い眼光。
網を担ぐ者、魚の入った桶をドスンと降ろす者。彼らの視線が、二人の上に重層的に重なっていく。
測るように。値踏みするように。
俺の背筋を、ざらりとした嫌な緊張が這い上がる。
「……見られてるぞ。かなり」
「当然よ。こんな辺境の港に、外から来た余所者なんて珍しいもの。……平静を装って。おどおどしている方が目立つわ」
ローズは淡々と応じ、歩みを止めない。潮騒の音が、少しずつ背後へと遠ざかっていく。
そのまま彼女は、見えない境界線を越えた。
死の荒野と、人の社会。その二つを分かつ絶望的な「境界」を。
俺の視線は、右へ左へと忙しなく彷徨った。その光景の全てを、剥製にするかのように網膜に焼き付けていく。
経済も、テクノロジーも、俺の知る文明のルールもここにはない。
そして、理解し始めていた。
(……ああ。本当にもう、戻れないんだ)
初めて。
俺たちは、異世界の冷たい喧騒の中へと足を踏い入れた。




