第20話:黄金の槍の騎士
静まり返った洞窟の奥底に、再び複数の足音とざわめきが反響した。
空気の中には、未だ乾ききらない生々しい血の匂いが重く淀んでいる。
掲げられた数多の松明が闇を切り裂き、そこに広がる惨状を無慈悲に照らし出した。
折り重なる無数の遺体。
無惨に砕かれた鋼の鎧。
そして、物言わぬ骸と化した十人の騎士たち。
かつて二人の避難所であったその場所は、今や冷徹な死が支配する静かな墓場と化していた。
しかし、今回現れた者たちは、先ほどの斥候たちのような無秩序さは微塵も感じさせない。
彼らは整然とした動きで、ザッ、ザッ、と音を極限まで抑え、研ぎ澄まされた規律のもとに前進していく。
互いに言葉を交わすことさえなく、その鋭い視線だけで空間の隅々をなぞり、状況を冷徹に読み解いていく。
その沈黙の隊列の中から、一人の騎士が静かに歩み出た。
若い。だが、他の騎士たちよりも頭一つ分は抜けた堂々たる体格。
肩にかかる長い黒髪はわずかに乱れているが、それがかえって彼が纏う得体の知れない威圧感を際立たせている。
身に纏う鎧は、長旅の過酷さを物語る傷跡を刻みながらも、他の誰よりも手入れが行き届いていた。
そして、その右手に握られていたのは――。
黄金の槍。
工芸品のような美しさと、凶器としての禍々しさを併せ持つその槍は、松明の火を吸い込み、穂先から冷たい黄金の光を放っていた。
男――ケンは、遺体の間を縫うようにゆっくりと歩を進めた。
焦る様子は微塵もない。
やがて一体の遺体の前で足を止めると、彼は静かに膝を折った。
狙われたのは喉元。
そこに刻まれた一筋の切り口に、革手袋の指先でそっと触れる。
迷いの欠片もない、あまりにも正確で無慈悲な一撃。
「……確かに、ここにいたな」
低く、確信を含んだ独白が漏れる。
彼はゆっくりと立ち上がり、背後に控える騎士たちへと鋭い視線を向けた。
「まずは遺体を回収しろ。我らが同胞を、このような汚らわしい場所に放置することは許さん」
その声音は静謐であったが、逆らいようのない絶対的な重みを含んでいた。
数人が即座に作業に取り掛かり、他の者はさらなる増援を呼ぶべく外へと駆け出していく。
「残りは私に続け。奴らはまだ、遠くへは行っていない」
その言葉が発せられた直後だった。
赤い外套を纏った一人の騎士が、不遜な足取りで一歩前に出る。
その瞳には、隠しきれない疑念の色が浮かんでいた。
「……ケン卿」
短い沈黙。張り詰めた空気の中、赤い外套の男は言葉を継いだ。
「今回の失態……貴公ならば、未然に防げたはずではないか?」
周囲の空気が、肌を刺すように冷え切る。ケンは無言を貫く。
「我ら全員で包囲していれば、あの女など問題なく――」
そこまで言いかけた男が、思わず一歩後ずさった。それは生存本能が引き起こした無意識の反応だった。
「まさか……貴公は――」
言葉は途切れた。それ以上、紡ぐ必要がなくなったからだ。
次の瞬間――。
――ビシィィィンッ!!
閃光。空気が悲鳴を上げて爆ぜる音と共に、黄金の槍が一直線に放たれた。
ガキィン、と硬質な音を立てて穂先が止まったのは、男の眼前わずか数ミリの地点。
だが、引き起こされた風圧だけで、男の頬にはすでに細い鮮血の筋が刻まれていた。
ポタッ、ポタッと血がゆっくりと顎を伝い、床に落ちる。
男は動けない。呼吸の仕方すら忘れたかのように、金縛りにあっていた。
「本気で私が刻を遅らせるつもりだったのなら――」
ケンの声は、どこまでも凪いでいた。
「今この瞬間、貴様は言葉を発してはいない」
氷の刃のような視線が、男を射抜く。
「これ以上その口を開けば、次は外さない」
スウッ、と槍が引き戻される。限界まで張り詰めていた空気が、僅かに弛緩した。
赤い外套の男は、屈辱に顔を歪めながらも唾を吐き捨て、背を向ける。
「……勝手にやってろ。俺が先に見つけて殺してやる。――ロゼット・ベイカーをな」
呪詛のような言葉を残し、男は洞窟を去った。他の騎士たちも気まずさを隠せないまま、散り散りになっていく。
再び訪れた静寂の中、ケンは足元の砂を見下ろした。
砂の乱れ。引きずられた跡。
その痕跡は――真っ直ぐに、外の世界へと続いていた。
視線を上げると、地平の向こう側で夜の帳がほどけ始めていた。
淡い曙光が空を紫に染めていく。
「……さすがだな、ロゼット」
誰にも聞こえないほどの小声で呟く。
「だが、逃がしはしない」
【吉田視点】
パカパカパカ、と蹄の音が、朝の静寂を打ち破っていた。
果てしなく続いていた死の砂海はいつの間にか姿を変え、地面は固い土へと変わり、やがて――潮の香りが風に混じり始める。
俺は、半ば意識を手放したまま馬の揺れに身を任せていた。
頬に触れる風の質が変わっていることに気づく。
あの肌を刺す乾いた冷たさではない。湿り気を帯びた、重く、どこか懐かしい空気。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。視界の先に広がっていたのは――。
果てのない水平線。
空と海の境界線からゆっくりと昇りゆく黄金の太陽。
橙色に燃える空が、ザザァ、ザザァと波打つ水面に反射して眩しく揺れていた。
――海だ。
「起きたか」
前方から、凛とした声が降ってくる。
彼女の背中に寄り添うようにして顔を上げると、手綱を握るローズの横顔があった。逆光に照らされたその紅い瞳は、真っ直ぐに前方を見据えている。
「……悪い、寝てたみたいだ」
ぼんやりとした声が漏れる。
馬の速度が徐々に落ち、駆け足から穏やかな歩みへと変わった。
「もうすぐだ」
短く告げる彼女の声に、波の音が重なる。
「港町に着くわ」
「……町?」
思わず、驚きの声が漏れる。
わずかな間を置いて、彼女は答えた。
「ええ」
その返答は、どこか慎重で、警戒を孕んでいた。
「……それって、喜んでいいことなのか?」
俺の問いに、すぐには答えが返ってこない。
手綱を握る彼女の手に、ほんのわずかな力がこもる。
「……追手に先に見つかれば、最悪の事態になるわね」
背筋に氷の棘が走る。
再び、視線を海へと向ける。
広く、静かで、美しい。
だが同時に、その美しさの裏には得体の知れない不安が潜んでいた。
馬は湿った砂浜を進み、波打ち際にザシュ、ザシュと蹄の跡を残していく。
やがて――それは姿を現した。
海岸沿いに広がる、小さな港町。
そこには巨大な城壁も、天を突くような塔も存在しない。
ただ、古びた木造の建物が不規則に並び、潮風と長い歳月に晒されてきた痕跡をその身に刻んでいる。
簡素な桟橋が海へと伸び、数隻の帆船が波に合わせて静かに揺れていた。
干された網。積み上げられた木樽。無造作に置かれた荷物。
そのすべてに、人々の手作業の温もりと生活の息吹が宿っている。
それは、誰かに与えられた箱庭ではない。
この世界の住人たちが、長い時間をかけて積み重ねてきた本物の世界。
俺は、言葉を失ったままその光景を網膜に焼き付ける。
コンクリートも、電線も、信号機もない。俺の知っているものは、何一つなかった。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……本当に……」
掠れた声が、風に溶ける。
「……別の世界なんだな……俺たちは……」
寄せては返す波の音だけが、静かにその独白を包み込んでいった。




