第18話:ローズの願い
【吉田視点】
ローズが目を覚ましてから、丸一日が過ぎた。
それからの彼女は――まるで、ガラスの刃のように変わってしまった。
学校で見せていた、あの頑固で、人懐っこくて、どこか抜けていた少女の面影はどこにもない。
代わりにそこにいるのは、より静かで、より鋭く、そして決定的な拒絶を感じさせる「騎士」としての存在だった。
「……本当なら」
焚き火の爆ぜる音の中、ローズがぽつりと呟いた。
その手には、あの禍々しい「漆黒の剣」が握られている。刃の先は、地面に伏せる俺の喉元から、わずか数十センチの場所を指していた。
「今ここで、お前の首を刎ねるのが私の役目だ、吉田」
彼女の紅い瞳は、冷徹なまでに俺を射抜いていた。
だが、剣を握る彼女の指先は、白くなるほどに激しく震えている。
殺意と、それ以上の躊躇い。彼女の胸の奥で、相反する二つの使命が、血を流しながら殴り合っているのが見て取れた。
「……お前は生の肉を前にして、人間のように吐き気を催していた。魔王が……そんな無様な真似をするはずがない」
ローズは自嘲気味に息を吐き出し、ゆっくりと剣を下ろした。
命を救われた。けれど、俺たちの間に生じた亀裂は、もう二度と塞がらないほど深かった。
エヴァの大地。英雄暦二四九年。
彼女が背負わされた歴史の重さと、俺が背負ってしまった最悪の肩書き。
未だに、どこかの病院のベッドで、長い悪夢を見ているんじゃないかと疑ってしまう。
(帰りたい……元の世界へ)
無事に、あの日常へ。
でも、今のローズの目を見ていると、その願いさえも傲慢な我が儘に思えてくる。
彼女が探していた宿敵が、毎日隣で間抜けな面を晒していたクラスメイトだったなんて、どんな悪質な冗談だ。
「……少し、外を見てくる」
冷え切った沈黙を破り、ローズが立ち上がった。
乱れた髪を無造作に整え、黒い剣を背負う。その動きは、恐ろしいほどに洗練されていた。
「周囲の状況を確認したい。ここがどの辺り(あたり)なのか、確かめる必要がある……それに」
彼女は洞窟の出口へ向かう途中で足を止め、振り返ることなく言った。
「少し、頭を冷やしたい。お前の顔を見ていると、自分の正義が狂いそうになる」
「一緒に行けたらよかったんだけど……クソ、まだまともに動けない」
思わず漏れた独白は、自分でも嫌になるくらい弱々しく響いた。
彼女は一瞬だけ足を止め、横顔だけでこちらを小さく見下ろした。
「焦る必要はない。この世界の理に、お前のペースで慣れていけばいい」
そして、ほんのわずかな沈黙のあと――。
「赤ん坊でもできることよ。あなただって、すぐに覚えられる」
……。
(おい、それは今言う必要あったか?)
内心で深いため息をつく。いつもの手厳しい口調。それが彼女の精一杯の「いつも通り」のフリなのだと気づいた時、胸の奥が痛んだ。
彼女の影はゆっくりと細くなり――やがて、外に広がる死の砂漠の闇へと溶けるように消えていった。
そして、静寂。
俺は一人、取り残される。
……いや、完全に一人というわけでもなかった。
足元で、小さな温もりがもぞもぞと動く。
あの魔獣の子どもたちが、体温を求めるように俺の脚へと擦り寄ってきていた。
母親であるあの巨大な個体の姿はない。朝から外に出たきり、まだ戻ってきていなかった。
(……魔王、か)
自嘲気味な笑いが漏れる。
魔獣に懐かれ、餌付けされているこの現状。世界そのものが俺を異物として排除しようとしているような冷たい拒絶感の中で、この怪物たちの体温だけが、妙に温かかった。
冷たい岩にもたれかかりながら、ぼんやりと洞窟の奥の闇を眺める。
外の熱気とは対照的に、ここは肌を刺すようなひんやりとした空気に満ちていた。その静けさが、逆に意識を深い泥の中へと沈めていく。
瞼が、鉛のように重い。
ほんの数分、目を閉じるだけのつもりだった。
(少しだけ……)
そう思ったはずなのに。
抗えない眠気の波に飲まれ、俺の意識は深い場所へと沈んでいった。
どれくらい眠っていたのか。
不意に、その「音」が鼓膜を叩いた。
最初は、夢の続きだと思った。
遠くの方で、硬いもの同士がぶつかり合うような鈍い音。
だが、それは一度では終わらなかった。
再び。そして、断続的に。
音は次第に輪郭を持ち始め、現実味を帯びてくる。
足音だ。
しかも、一つではない。
砂を踏みしめる、重く、統率の取れた速い足取り。
それに混じって聞こえてきたのは――。
金属が擦れ合う音。
そして、切迫した、人間の「叫び声」だった。
(……人間!? この場所に!?)
一瞬で、眠気が霧散した。




