第17話:出発の時
【吉田視点】
落ち着きを取り戻したローズに、彼女が眠っている間に起きたことを、すべて話した。
あの灼ける砂の海。
空からの落下。
どうやってあの巨大な猫に運ばれ、この洞窟まで辿り着いたのか。
そして――俺たちが、その獣に守られていたことも。
ローズは、何も言わずに聞いていた。
話し終えたあと。
彼女はなぜか、ゆっくりと片手を持ち上げた。
「……マナの流れを感じる」
小さく呟いた直後、聞き慣れない響きの言葉を口にし始めた。
それは、歌のようでもあり、呪文のようでもあった。
空気が、一変する。
目の前の地面がわずかに盛り上がり――石が意志を持ったかのように形を成し、小さな器になった。
さらに短く呟くと、その空っぽの器の中から、透明な水がこんこんと湧き出した。
思考が、止まる。
(……は?)
「……美味しくはないけれど、水です」
彼女が近づいてくる。
震える頭を支えられ、そのまま水を口に流し込まれた。
味は――確かに、酷いものだった。
泥臭く、喉を焼くような感覚。
でも。
乾ききっていた喉に、それは確実に染み込んでいく。
身体の奥底に、生命が戻ってくる感覚。
(……生きてる。俺、まだ生きてるんだな……)
聞きたいことは山ほどあった。
漏れ出そうな疑問を抑え、まずはここからだった。
「……ローズ。何が起きてるんだ、一体」
彼女はすぐには答えなかった。
周囲の石を集め、短く呪文を唱える。
パチッ……!!
その瞬間、彼女の手のひらから鮮やかな火が生まれた。
それを使って、手際よく焚き火を起こしていく。
あの猫が持ってきた肉の残りを拾い上げ、火にかざす。
ジジュウ……ッ
肉が焼ける音。
脂が弾ける、暴力的なまでに食欲をそそる匂い。
「……レピル」
彼女が小さく呟く。
「運がいいことに、食べられる個体です」
そのあまりにも自然な動作。
魔法。
見たこともない生き物。
この閉ざされた空間。
すべてが、俺の知る「現実」から切り離されていく。
(……ついていけない。何なんだよ、これ……)
絶望的なまでの隔たりに気づいたのか。
ローズは、ゆっくりと俺の隣に腰を下ろした。
焚き火の光が、彼女の紅い瞳の中で不規則に揺れている。
「吉田……」
少しの間。
「……聞きたいことは山ほどあるでしょう。ですが、答えは一つだけです」
彼女は短く息を吸い、覚悟を決めたように言い切った。
「ここは、日本ではありません。あなたのいた世界でもない」
「……は?」
間抜けな声が漏れた。
頭が追いつかない。
そのあと、彼女は長い時間をかけて説明してくれた。
この世界の名前。
――エヴァの大地。
魔法が存在し、魔獣が跋扈し、国々が争い、神に近い存在すらいる世界。
そして――本来、俺たちが来るはずではなかった場所。
ローズは立ち上がり、落ち着かない様子で歩き始める。
「……本来、戻ることなど不可能なはずでした」
低く呟く彼女に、気になっていたあの猫のことを聞いた。
その瞬間。
再び、洞窟の空気が凍りつく。
「……あれは、大魔獣の一種です」
「……魔獣?」
「凶暴で、制御は不可能。……そして」
彼女はわずかに視線を逸らし、震える声で続けた。
「人間を、最も好んで捕食する存在です」
思わず、そちらを見る。
巨大な猫は穏やかに眠っていた。
子どもたちが、その温かな腹に寄り添っている。
「……おかしいだろ。そんなふうには見えない」
言葉が漏れる。
ローズは何も言わずに立ち上がり、黒い剣を手に取った。
(まさか――殺す気か!?)
「……やめろ!」
俺の声に、彼女は振り返る。
「吉田。確認したいことがあります」
理解できないまま、彼女に手を差し出される。
鋭い刃が、俺の指先に触れた。
スッ……
浅く切れる感覚。
そこから、血が滲み出す。
彼女はその血を指で受け止め、焚き火の光にかざした。
その瞬間。
ローズの顔から、すべての色が消えた。
「……黒い……」
彼女の喉が鳴る。
俺も、自分の指先を見た。
赤じゃない。
それは、どろりと濃く、重たい色。
まるで――墨のように「黒い血」だった。
「……リュウジンが、言っていた……」
彼女が小さく呟く。
でも。
俺にとっては、それは昔からだった。
生まれた時から、ずっと。
(……別に、普通だと思ってたんだ。少し色が濃いだけだって……)
けれど――ローズの反応は、決定的だった。
その視線が獣へ、そして、俺へと向けられる。
「……命令してください」
「……え?」
「何でもいい。その魔獣に、命じてください」
言われるまま、俺は獣に視線を向けた。
猫もまた、俺の瞳をじっと見つめ返す。
「……座れ」
――いや、もう座っている。間抜けな命令だったが、獣は微動だにしない。
「……来い」
ガサリ。
獣は即座に立ち上がった。
三歩。
一ミリの迷いもなく、俺の元へと近づいてくる。
子どもたちも、その後に続く。
ローズが、恐怖に顔を歪めて後ずさる。
彼女の呼吸が、激しく乱れた。
「……あり得ない。こんなこと……っ!」
彼女は頭を押さえ、狂ったように歩き回る。
剣が石の床を擦る、嫌な音が洞窟に響き渡った。
「……ローズ、どうしたんだよ。説明してくれ!」
彼女が足を止める。
俺を振り返ったその目にあるのは――恐怖だけではなかった。
激しい葛藤、否定、そして、隠しきれない痛み。
「……吉田」
声が、初めて弱々しく揺れた。
「私が、あなたの世界へ行ったのには理由があります」
背中に、冷たい氷の柱が走る。
(……嫌な予感しかしない。聞きたくない……!)
「探していた人物がいるのです」
普通なら、笑い飛ばしていたかもしれない。
でも。今は違う。
何が「普通」なのか、もう分からなくなっていた。
「……その人物は……戦争を引き起こし……数え切れない命を奪い……国を滅ぼした存在」
息を、呑む。
「……ローズ」
まっすぐに見つめられる。
そこにはもう、ただのクラスメイトはいなかった。
一人の、冷徹な騎士の目だった。
「黒い血。魔獣の服従。剣の反応……」
彼女の唇が、絶望に震える。
「……間違いであってほしい。これは、神の悪質な冗談だと……そう思いたかった……っ!」
俺は、何も言えなかった。
理解できないからじゃない。
理解した瞬間、俺の人生が終わることを察してしまったからだ。
(……俺は、まだ十六だぞ)
ついこの前まで。
期末テストの心配をして。
うんざりするような日常の中にいたはずなのに。
「……吉田」
彼女の声が、静かに崩れ落ちる。
「あなたが……私たちの国を滅ぼした、『魔王』です」
焚き火が、大きく爆ぜた。
それに応えるように、猫が低く喉を鳴らす。
グル……ッ
その重たい響きが、心臓を直接掴まれたように響いた。
その瞬間。
生まれて初めて。
自分が「何者」なのか、完全に見失った。




