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第16話:ローズの目覚め

  【吉田視点】


  あの巨大な猫に、この洞窟へ運ばれてから――三日が過ぎた。


  自分もあの群れの一匹にでもなったかのように咥えられて。

  あの焼けつく砂と、肌を焦がす熱に呑まれかけたあの日から、もう三日。

  ……正直、時間の感覚が曖昧になり始めている。


  ローズは、まだ完全には目を覚まさない。


  時折、身体がかすかに動く。

  けれどそれは、穏やかな目覚めの兆候じゃない。

  見えない何かと戦っているかのように、苦しそうに身をよじるだけだ。

  その目は――決して開かない。


  傷んだ喉が、焼けるように渇いている。

  空腹と疲労が、泥のように全身にまとわりつく。

  身体が重い。まるで、濁った水を吸い込んだ石みたいに。


  何も食べていない。何も飲んでいない。

  少しでも動こうとすれば、世界がぐらりと不気味に傾く。

  視界の端から、どろりとした黒い影が滲んでいく。


(……本気で、やばいな……)


  あの猫は、それを分かっているようだった。

  毎日、何かを咥えて戻ってくる。

  それを俺の目の前に置き、前足で軽く押し出す。

  ――「食え」、とでも命じるように。

  それこそ、俺を同じ群れの一匹として扱っているかのようだった。


  けれど――持ってくるものが問題だった。


  見たこともない異形の生き物。黒ずんだ肉。力の抜けた、虚ろな目。

  鼻の奥にこびりつく、重く鉄臭い匂い。

  腹は悲鳴を上げているのに、脳が全力で拒絶する。


(無理だろ……こんなの……)


  それでも、どうにか動けるようにはなってきた。

  床を擦るようにして、少しずつ前へ。

  肘で這い、みっともなく進む。

  その姿は、泥まみれの芋虫だ。


(……情けない……)


  猫の子どもたちは、母親が狩りに出ると、こっちに寄ってくるようになった。

  警戒も、迷いもなく、自然に。

  俺の胸の上に乗って、丸くなる。そのまま眠る。

  シャツ越しに伝わる、小さく震えるような体温と鼓動。


  不思議だった。怖がられていない。

  獲物でも、敵でもなく。

  ただ、そこに「在る」存在として受け入れられている。


(……なんなんだよ、この状況は……)


  三日目の夜。

  洞窟の奥に、重い足音が響いた。


  ズシ……ズシ……。


  ゆっくりと、確実に近づいてくる。

  入り口に視線を向けた俺の前に、月明かりを背負った巨大な影が浮かび上がった。あの猫だ。口に何かを咥えている。

  俺の目の前まで来ると、それを無造作に落とした。


  ドサッ。


  ……「脚」だった。

  赤く、生々しい肉塊。まだ新しい。

  匂いが、あまりに強烈だった。

  温かい血の臭いが、洞窟の空気に混じる。

  気づけば、口の中に唾液が溜まっていた。


(……なんでだよ)


  気持ち悪いのに。反吐が出そうなのに。

  身体が、勝手に反応している。


  傷ついた体で這う。転がる。

  震える腕を伸ばし、俺はその肉にかじりついた。


  ぬるい。滑る。

  肉の繊維が歯に絡みつく。うまく裂けない。

  それでも――止まらなかった。


(……俺はもう、人間じゃないみたいだ……)


  その時だった。

  洞窟の奥、淡い月光が差し込む中で――見えた。


  ローズが、座っていた。


  乱れた髪。しわだらけの制服。ずれたスカート。

  肩には、まだ鞄がかかったまま。

  まるで――ここが異世界であることを、認めるのを拒んでいるみたいに。


  その瞳が、こちらを捉える。

  紅い光。前に見た時より、ずっと強く、鋭い。


「……吉田?」


  声が震えていた。それは安心じゃない。

  ――「恐れ」だ。


  その視線が、ゆっくりと下がる。

  俺の口元。付着した血。手の中にある、生の肉塊。

  そして――背後に控える、巨大な獣。


  表情が、固まる。瞳が激しく揺れる。


  次の瞬間、彼女が消えた。

  いや、速すぎて見えなかっただけだ。

  気づいた時には、岩に立てかけてあった「黒い剣」を手にしていた。


「……これは……」


  低く、自分に確かめるような声。


「私の……剣……」


  その瞬間、猫が立ち上がった。


  グルル……ッ――!


  低い唸り。一瞬で空気が凍りつく。


「吉田!!」


  叫びと共に、ローズの身体が跳ねる。

  速すぎる。軌道が追えない。

  黒い剣が月光を反射し、一瞬だけ不吉に閃いた。


  跳んだ。宙に浮かぶその姿が見えた。

  振り下ろされる、死を孕んだ刃。

  猫は、後方へ鋭く跳躍する。


  ズサッ!!


  刃が地面に深く突き刺さる。

  そのまま、猫が反撃の体勢へ踏み込む。


(まずい――!)


「やめろ!!」


  声が出た。喉が裂けるような叫び。

  でも――それは、ただの叫びじゃなかった。明確な、「命令」だった。


  空気が激しく震える。

  洞窟全体を、重たい「何か」が支配した。


  猫が、止まった。ぴたりと。

  まるで、従うのが当然のことであるかのように、その場に座る。

  子猫たちが、不安げに鳴き声を上げた。


  ローズも、動きを止めた。

  剣はまだ地面に刺さったまま、肩で激しく呼吸をしている。

  でも、その視線は――もう獣には向いていない。

  俺を。俺のことだけを見ている。


「……何なの、これ……」


  低く、かすれた声。困惑と、拭いきれない警戒。

  猫が、不満そうに低く唸る。


  身体が、限界だった。まともに座っていることすらきつい。


「ローズ……落ち着いてくれ……」


  彼女は一歩、後ずさる。

  けれど、それは安心した顔じゃない。

  むしろ――取り返しのつかない「何か」に気づいてしまったような顔だった。

  彼女の手が、震えている。


  ふっと、力が抜けた。俺の身体は膝から崩れ落ちる。


「っ……」


  そのまま、砂まみれの床へ倒れ込む。


(まずい……!)


  身体を引きずる。遅い。あまりに情けない。

  それでも、彼女の元へ進む。


「……動けるの……?」


  信じられない、という絶望に近い声。

  少しだけ、笑おうとした。


「……地を這う爬虫類トカゲみたいになら、なんとか……」


  軽口のつもりだった。

  でも――彼女は笑わなかった。

  当然だ。こんな状況で、笑えるわけがない。


  重たい沈黙が、しばらく洞窟を支配した。


  やがて、彼女の手が肩に貸される。

  冷たい岩にもたれさせられる。


  息を整える時間。

  洞窟の中は、しんと静まり返っていた。

  さっきまでの殺気が嘘みたいに。


  そうして俺たちはようやく、言葉を交わし始めた。

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