第16話:絶望の幕開け、魔王の到来
英雄暦二四九年。
ドドドドド――
重い衝撃が大地を打ち鳴らす。
蹄が泥を踏み砕き、深く沈み、そして重々しく引き抜かれる。
その不規則なリズムはどこか鈍く――まるで行列の行く先を告げる葬送曲のようだった。
叫び声は、もはや散発的に響くのみ。
命令は途切れ、兵たちの掠れた声は広大な平原の虚無へと溶けていく。
黒煙が巨大な柱のように立ち昇り、天を覆い隠してすべてを灰色に塗り潰していた。
ブゥゥン……。
ハエの羽音が、戦いの後に残された不気味な沈黙を埋めている。
鼻を突く腐臭。
焼け焦げた肉の臭い。
空中に漂う灰が、雪のように静かに降り積もっていた。
ここで――戦争があった。
そこには栄光など欠片もなく、ただ「殲滅」という名の無慈悲な結果だけが転がっている。
百騎ほどの騎兵が、泥濘の中をゆっくりと進んでいた。
無数に転がる亡骸。
折れた槍。
無残に歪んだ甲冑。
それらを踏み越えながら、彼らは進む。
慎重に、まるで――心の底では見つけたくない「何か」を探しているかのように。
その群れの中で、一人の騎士が際立っていた。
漆黒の馬にまたがる男。
体格が最も優れているわけではない。装飾も、黄金の彫刻も、紋章の輝きすら持たない無骨な姿。
だが、彼が進むほどに、周囲の騎士たちは本能的に道を開けていく。
それは敬意であり、同時に、近づくことを拒む本能的な距離でもあった。
その顔には、幾つもの深い傷跡が刻まれている。それは敗北の傷ではなく、幾多の死線を潜り抜けてきた生存者の証。
瞳を縁取る深い隈は、過酷な現実を物語っていた。だが、そこには疲労の色など一切ない。
宿っているのは、ただ冷徹な警戒心。沈黙の中でも、いつでも獲物を殺せるという確信に満ちた目だ。
深緑の外套は、夜の森のように暗い色を湛えている。その下には、鈍く光を拒む重厚な鉄の鎧。
風が布を揺らし、男は静かに、馬を進める。
彼は、この場にいる誰とも決定的に違う「何か」をまとっていた。
周囲の騎士たちは、あまりにも美しすぎる銀の甲冑をまとっていた。この凄惨な戦場には、それはひどく不釣り合いだ。
彼らは遅すぎたのか。それとも――あえて待っていたのか。
一人の騎士が、思わず視線を逸らした。死体に群がる虫たちが、崩れゆく腐肉を貪っている。
「……戦いじゃない」
吐き気を押し殺すような声。
「これは……一方的な処刑だ」
「ザリア族すら、耐えられなかったというのか……」
別の騎士が力なく呟く。
「あり得ない。信じられるはずがない」
ざわめきが波紋のように広がっていく。それは見えない亀裂となり、騎士たちの心を蝕もうとしていた。
「――騎士たちよ」
低く、地を這うような声。
ただそれだけで、場の空気が凍りついたように一変する。ざわめきは一瞬で霧散した。
「同胞の亡骸は、誰かが回収してくれるものではない」
それは命令ではなく、覆しようのない断定だった。誰も反論の言葉を持たなかった。
騎士たちは泥の中に降り立ち、足を引きずり込まれながらも亡骸を持ち上げる。
ベチャ……。
肉が裂け、腕が外れ、脚が泥の中に沈んでいく。
凄惨な感触に、一人の騎士が耐えきれず吐いた。
それでも、誰も笑う者はいなかった。
その惨状の中を、一人の老騎士が歩み寄ってくる。煤と乾いた血に覆われた鎧。一歩ごとに苦痛が滲むその足取りは、ここで死力を尽くして戦った者の証だった。
「……ナイルズ・ヘイスティングス卿か」
男は振り向くことなく、声だけを届ける。老騎士は目を見開き、即座にその場に膝をついた。
「はっ……我こそはエヴァ騎士団団長、ナイルズ・ヘイスティングスにございます」
周囲が息を呑み、ざわめく。その名高き称号。
男はゆっくりと顔を向けた。光の一切を映し出さない、奈落のような瞳。
「頭を上げよ、卿。報告を聞こう」
老騎士は苦しげに立ち上がり、二人は歩き出す。騎士たちから離れ、より深く、濃い泥の中へと。
「……失礼ながら、貴殿は――」
「ドッツ王国、魔導王」
「レヴ・ヴァレリウスだ」
周囲の空気が重く沈み込む。ナイルズの顔から急速に血の気が引いていった。
「だが……儀式は……」
「生き残ったのは、私一人だ」
レヴの手が、使い古された剣の柄に触れる。周囲の温度が数度下がったかのように冷えた。
「生還は、必ずしも祝福ではないのだよ」
重苦しい沈黙が二人を包む。
「……敵を食い止めようと尽力しました」
ナイルズの声は、砂を噛むように掠れていた。
「だが、数が違いすぎた。二十倍……いや、それ以上の軍勢でした」
「……波だった。もはや、人の手で止められるようなものではなかったのだ」
レヴは無造作に地面に唾を吐き捨てる。
「我らのような『凡夫』にはな」
その視線は、遠い過去か、あるいは絶望的な未来を見据えていた。
「ザリア族が健在であったなら、結末は違っていただろう」
ナイルズは無念そうに目を伏せる。
「到着した時には……すでに、全滅しておりました」
風が急に強まる。それは、死にゆく者の最後の吐息のようでもあった。
「どれほどの魔族の軍勢であろうとも――」
レヴの声は、低い。
「ザリア族は、この世界の最後の盾だった」
「それが、消えたのだ」
目が鋭く、残酷な輝きを帯びる。
「これこそが、真の破滅だ」
それは一国の敗北などではない。世界の理、その根本的な崩壊を意味していた。
「疑問が多すぎる……だが、答えは一つとして見つからぬ」
その時だった。
何かが、決定的に変わった。
風ではない。空気でもない。世界そのものの質感が、変貌を遂げたのだ。
ブゥゥン……というハエの羽音が止む。馬たちが怯えたように後退を始める。
――完全な、静寂。
立ち昇っていた煙さえも、空に張り付いたかのように動きを止める。
「陛下!」
ナイルズが叫ぶ。
次の瞬間――。
バキィィン――!!
空が裂けた。それは雷鳴ではない。内側から空間を無理やり破られたような、暴力的な音。
誰もが見上げた。それは落ちてきたのではない。降りてきたのでもない。
――漆黒の剣。
それは空を“貫いて”いた。雲を紙のように裂きながら、静かに進む。それは光を反射することなく、逆に周囲の光を吸い込んでいた。
巨大な影が、剣に向かって不自然に伸びていく。まるで影そのものが従っているかのように。
「……なんだ、あれは」
レヴは動かず、ただそれを見つめ続けていた。瞳孔がわずかに開き、口元が歪む。
それは、恐怖ではない。
強烈な「認識」。
「……来たか」
「陛下……あれは、まさか……!」
誰もが口にするのを恐れていた名。だが、誰もがその存在を知っていた。
数百年の間、囁かれ、禁忌とされ、警告されてきた存在。
レヴは一度だけ目を閉じ、そして開いた。そこにはもう、迷いはない。
「そうか。ついに来たか」
彼は静かに、死を告げる預言者のように言葉を紡ぐ。
「我らの終焉が」
「魔王が、再び現れたのだ」
「ザリア族はもういない。止める術を持つ者は、どこにも存在しない」
風が消え、音が消え、世界が息を止めた。
ミレイアの戦場は、完全な静寂に沈んだ。
そして空では、黒き剣が誰かを探すかのように、音もなく進み続けていた。




