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第15話:ロゼット・ベイカー

英雄暦二四九年。


世界は数日前から、止まった時間の中に閉じ込められたかのように変わらないままだった。

 空は赤灰色に燃え盛り、まるで塞がることを拒む巨大な傷口のように世界を睨みつけている。


それは、夕焼けの温もりなどでは決してなかった。

 重苦しく、不吉な色彩。世界そのものが忘れようとして、それでも忘れきれない「何か」に染め上げられているかのようだった。


風が草原を静かに渡り、背の高い草が波のように揺れながら地平線まで続いている。

 その果てに鎮座するのは、大都市ワーウィック。

 白亜の城壁が赤い残光を鈍く反射していたが、その輝きはどこか病的で、見る者の不安を煽る。


街は無傷に見えた。

 だが、都市全体が巨大な獣のように息を潜め、来るべき破滅を待っているような静寂に包まれていた。


郊外の草原では、貴族たちが簡素な宴を開いていた。

 それは戦いの中の束の間の休息であり、彼らにとって現実を忘れるために必要な時間だった。

 卓は優雅に整えられ、杯には酒が満たされ、贅を尽くした料理が並ぶ。


それでも――誰も手を付けようとはしなかった。

 会話は生まれては霧散し、不自然に高い笑い声だけが空虚に響く。

 誰もが理解していたのだ。自分たちが、必死に「何か」を見ないふりをしているということを。


警護の騎士たちは周囲を警戒しながらも、その視線は何度も空へと戻ってしまう。

 あの日から変わることのない、呪われた空へ。


その光景の中で、一人の少女の姿が際立っていた。

 巻いた栗色の髪は、この不吉な赤い空の下であっても、なお眩い輝きを放っている。

 彼女のエメラルドの瞳には、まるでこの絶望的な世界に抗うような強い光が宿っていた。


緑のドレスを翻し、くるりと軽やかに回る。

 彼女は笑っていた。

 まるで、世界には悲劇など何一つ起きていないかのように。


「陛下、どうかお気をつけください」


騎士が困ったような苦笑いを浮かべ、彼女を制する。


「そのように動かれて、もしお転びになられては――」


少女は鈴を転がすような声で笑った。


「心配しすぎよ、カル」


彼女は一歩、草原を踏み出す。


「世界が悲しみに沈んでいるからといって、私まで笑うのをやめてしまったら……その時点で、私たちの負けでしょう?」


その言葉には、幼い強がりなど微塵もなかった。

 それは、気高き意志だった。


騎士たちは顔を見合わせ、そのうちの一人が消え入りそうな声で呟いた。


「ミレイアの戦いから十日……空の色は変わらぬまま。記録にもない不気味な現象だ」

「……これが魔王が、未だ生存している証だというのか?」


風が急に強まり、王国の旗が激しくはためく。


「ベイカー家の娘はどうした? ロゼットが仕留めていないのか?」


一瞬の沈黙。


「彼女は王国第二の剣だぞ。失敗するなど考えられん」

「……だといいのだが」


少女は、もう回っていなかった。

 騎士たちの交わす不穏な言葉を、その耳はすべて拾っていた。

 彼女は静かに、だが威厳を持って彼らに歩み寄る。


「なぜ、彼女を疑うの?」


騎士たちは即座に居住まいを正し、深く頭を下げた。


「疑うなど、滅相もございません――」


「私は見たことがあるの。彼女の剣を」


少女は視線を鋭くし、小さな拳を強く握りしめた。


「恐ろしいほどに強く、美しい剣だった。姉上も……ロゼットも、必ず魔王を討って戻ってくる。私はそう信じているわ」


空は、彼女の願いに応えることなく赤く沈んでいる。


その時だった。

 遠く地平線の彼方から、大地を叩く微かな振動が伝わってきた。


ドドドドドドド――!!


猛烈な勢いで迫る蹄の音。

 貴族たちの会話が止まり、誰かが手元を狂わせて杯を落とした。


カチャンッ!


不吉な赤い液体が、真っ白な卓布に広がっていく。


「……何事だ?」


音楽が途絶え、空虚な笑いも消え去った。

 騎士が叫ぶ。


「来るぞ! 者共、構えろ!」


地平線から現れたのは、一団の騎馬隊だった。

 全速力。しかしそれは軍隊の整然とした行軍ではなく、死の淵から逃れてきた者たちの、なりふり構わぬ走りだった。


馬は泡を吹き、騎士たちの鎧は土埃と――赤黒い血にまみれている。

 恐怖が、目に見えない炎のように周囲へ伝播していく。


貴族たちは悲鳴を上げながら後退し、騎士の背後へとしがみついた。


「守れ! 我らを守れ!」


騎馬隊が急停止し、一人の男が落馬するように降りてきた。

 向けられる剣の群れを無視し、彼は少女の前へと這い寄る。


少女は一歩も引かなかった。


「……この神聖な場を乱すとは。貴殿は、自分が誰の前に立っているのか理解しているの?」


男は力なく剣を落とした。その後に続く者たちも、次々と武器を捨て、地に伏していく。


「……殿下」


男の声は、絶望に震えていた。


「フレデリク王陛下……ならびに、我がワーウィック王国の誇り、魔導女王アリス陛下は――」


息を呑む音が草原に響く。


「ミレイアの戦いにて、惜しくも崩御なされました」


風が、ぴたりと止まった。

 どこかで杯が割れる乾いた音が響く。


「……そんな。嘘よ……」


「それだけではございません。あろうことか、守護の民たるザリア族……全滅いたしました」


信じがたい報告に、その場にいた者全員が凍りつく。

 敗北を知らぬ最強の氏族が、滅んだというのか。


「継承の勅により、ただ今をもって――」


男は深く、大地を叩くように頭を垂れた。


「カミーユ殿下が……新たなる女王陛下となられます」


再び吹き荒れた風が、カミーユの髪を激しく揺らす。

 彼女は、もう笑ってはいなかった。


全員がその場に跪き、地を揺るがす叫びを上げた。


「新女王陛下、万歳!!」


カミーユは動かない。

 いや、そこに立っているのは、もはや守られるだけの少女ではなかった。

 彼女は赤く染まった空を見上げ、その残酷な真実を噛み締めていた。


静かに、震える唇を開く。


「……ロゼット・ベイカーは?」


一瞬の、刺すような沈黙。


「……王命により、ロゼット・ベイカーは『世界公敵』として認定されました」


周囲の空気が一気に冷え切る。


「……なぜ? そんなはずがないわ」


「彼女は魔王討伐に失敗しただけではありません。あろうことか、あの魔王をこの世界へと連れ帰ったのです。戦神の神託によれば、ロゼット・ベイカーは魔王と共謀し、この世界を破滅へ導く手助けをしていると……!」


「発見次第、魔王と共に討伐対象となります」


カミーユは静かに目を閉じた。

 脳裏に浮かぶのは、剣を振るう誇り高いロゼットの姿。あの日の笑顔。交わした約束。


再び目を開いた時、そこにいたのは迷いを捨てた女王だった。


「……城へ戻るわ。神々への誓約を行う準備をなさい」


冷徹な声は、もう揺れていなかった。

 風が吹き抜け、世界は修復不可能なほどに変貌した。


そして――

 どこか遠く。まだ誰も預かり知らぬ場所で。

 本当の絶望と希望の物語が、産声を上げようとしていた。

私は中世ファンタジーというジャンルが大好きです。

前のアーク(日常回)は物語を進める上で必要な過程でしたが、正直に言うと、執筆していてそれほど楽しいものではありませんでした。

ようやくこの展開まで物語を進めることができて、今はホッとしています。ここからが本番ですので、どうぞお楽しみに!

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