第15話:魔王狩り
(また――無力だった)
(また――間に合わなかった)
熱風が吹き抜け、絶望に染まった意識の淵で、再びその音が届いた。
グルル……。
先ほどよりも、ずっと近い。吉田は重い頭を上げた。焦燥と恐怖が混濁し、視界を熱く焼く。
戻ってきたのだ。あの漆黒の獣が。
その顎は――驚くほど綺麗だった。
返り血の一滴もなく、ただ夕闇に洗われたかのように黒く輝いている。だが、今の彼には、その静謐さこそが何よりも恐ろしかった。
獣は迷いのない足取りで近づき、彼の目の前で足を止めた。
見下ろす縦に裂けた黄金の瞳。そこに宿るものは、単純な敵意ではなかった。
飢えでも、好奇心でもない。それは――。
(……認識。それに近い、何かだ)
吉田は、砂に埋もれかけた「漆黒の剣」の柄を必死に握ろうとした。
立ち上がり、振り下ろし、この獣を殺す。せめて、彼女の亡骸だけでも取り戻すために。
だが、指先に力は入らず、身体は無残に崩れ落ちる。視界の端から闇が浸食し、意識が遠のいていく。
獣は静かに頭を下げ、彼の衣服をその強靭な顎で咥えた。
そして――無造作に引きずる。
ズズッ……。
熱砂の上を、死体のように引きずられていく。摩擦によって黒い上着が悲鳴を上げ、鋭い音を立てて裂けた。
ビリッ――。
乾いた音と共に千切れた布は、砂の上に置き去りにされる。それは、かつての自分を脱ぎ捨てた皮のように見えた。異世界の制服。この過酷な砂漠には決して似つかわしくない、過去の遺物。
意識が途切れる直前、吉田は無意識に、胸の下に潜り込ませた「黒い剣」を強く、折れそうなほど抱きしめていた。それだけは、決して手放してはならないと、本能が叫んでいた。
傾いた太陽が地平線に沈む頃――彼の意識は完全に闇へと沈んだ。
◆ ◆ ◆
ドドドドドドドドッ――!!
百の蹄が大地を叩き、黄昏の静寂を粉々に砕く。
地平線の向こうから現れたのは、武装した騎馬隊だった。その鎧の波は、沈みゆく陽光を反射し、金属の濁流となって砂漠を走る。
やがて、砂が激しく乱れた場所――何かが起きた痕跡の上で、隊は止まった。
一人の男が、最初に馬を降りた。
長身。硬質な黒髪。言葉を発せずとも周囲を威圧するその存在は、手に黄金の槍を携えていた。
男は槍を砂に突き立て、兜を外した。ケンだった。
彼の視線は、戦場を統べる者のように鋭く無駄がない。砂の上に残された「引きずられた跡」を瞬時に追い、その場に屈み込んだ。
彼は砂に半ば埋もれている黒い布切れを拾い上げ、じっと見つめる。
「……これは……?」
異質だった。布の質感、裁断、金属の留め具。どれもこの世界のどの国にも見覚えのない、精緻すぎる造りだ。手作業では到底ありえない、冷徹なまでの精度。
「軍の装備ではありません」
一人の部下が、困惑したように呟く。
「どのギルドにも属さぬ、奇妙な意匠だ」
別の声が続くが、ケンは目を細めたまま、砂に残された二つの轍を見つめていた。
「……布切れがここで引きち切られている。そこから先は――何かが引きずっていったな」
一人の騎士が、不快そうに砂を吐き捨てる。
「この砂漠は魔獣の巣窟だ。どうせ、今頃は腹の中だろう」
だが、ケンは即答しなかった。視線の先にあるのは、血の一滴も流れていない砂の道。
「いや……」
彼は低く、確信を込めて呟いた。
「連れ去ったというのなら――それは偶然ではないはずだ」
背後から、赤い外套を纏った騎士が傲慢な足取りで歩み出る。
「一つ、言っておく。我らミルバー島の騎士団は、ワーウィックの配下ではない。この地の領主の命により、一時的に協力しているに過ぎん」
張り詰める空気の中、ケンはその射抜くような視線を受け止めた。
「今回の件は、ワーウィック一国の問題ではない。空から墜ちてきた存在が、もし我々の想定通りだというのなら……」
風が吹き抜け、彼の黄金の槍が怪しく光る。
「どの国も、もはや無関係ではいられないだろう」
短い沈黙。そして、彼の命令が砂漠に響き渡る。
「散開しろ! 扇状に展開し、あらゆる痕跡を追え!」
馬のいななきと共に、騎士たちが一斉に動き出す。静まり返っていた砂漠は、再び狩人たちの騒乱に包まれた。
◆ ◆ ◆
かすかな気配。
そして――グルル……と、低く喉を鳴らすような柔らかい音が鼓膜を叩いた。
吉田が瞼を開くと、そこには焼けるような光も、刺すような砂風もなかった。
あるのは、冷たく湿った石の壁と、静謐な影。洞窟の中だった。
上体を起こそうとすると、激しい鼓動が胸を叩く。
いくつかの筋肉が軋むが、砂漠にいた時ほどの拒絶反応はない。
そして――彼の視界に、あの獣が飛び込んできた。
正面に座り、じっとこちらを見つめている。だが、以前のような威圧感はない。
獣の腹の下で、小さな影がもぞもぞと動いていた。子猫たちだ。
不器用に母乳を探し、必死に吸いついている。
チュッ、チュッ……、という規則的な音だけが洞窟に響く。
その光景に、吉田は息を呑んだ。ここはもう、脅威の場所ではない。
守られているような、深い安らぎを伴う静寂。
彼はゆっくりと視線を動かした。そして、そこに彼女を見つけた。
ローズ。
(……よかった)
冷えた砂の上に横たわり、彼女は静かに、規則正しい呼吸を繰り返していた。
無傷だ。生きている。
胸を締め付けていた鉄の枷が、音を立てて崩れ落ちる。空気が、ようやく肺の奥まで戻ってきた。
再び獣を見る。飢えではなく、子を運ぶ本能。
そして自分たちもまた、その「守るべき対象」として運ばれたのだ。
理由は一つ。自分の中に目覚め始めた“何か”を、この獣が認識したからに他ならない。
吉田は唾を飲み込み、震える声で小さく、だがはっきりと告げた。
「……ありがとう……」
獣はしばらく彼を見つめていたが、やがて満足したようにゆっくりと目を閉じた。
そして。
フゥ……。
穏やかな鼻鳴らし。それは服従でも、単なる敬意でもなかった。
ただ、「お前を理解した」という対等な響きだった。
洞窟の外では、砂漠が依然として牙を剥いているだろう。だが、この石壁に囲まれた空間だけは違った。
ここにあるのは、死を忘れさせるほどの静寂。
そして、吉田は感じていた。
世界が、まだ何者でもない自分を中心に、音を立てて動き始めていることを。




