第14話:ターニングポイント — 跳躍
【ローズ視点】
朝は、いつも通りに始まった。リュウジンに学校まで送られ、昨日までと何も変わらない日常が続いていく。あまりにも平凡な光景だった。黒板を引っかく不快なチョークの音。昨日の出来事を小声で語り合う生徒たちのざわめき。新しい紙と消毒液の匂い。
すべてが、正しい場所に収まっている。それなのに――空気のどこかが、妙に気に障った。
吉田は隣に座っていた。いつものように微動だにせず、虚空を見つめている。その静けさは、安らぎというより……どこか諦念に近いものに感じられた。
あの指が動いた兆しがあってから、まだそれほど時間は経っていない。あり得ないはずの奇跡。それでも……今日の彼は違った。どこか、生命の光が薄いのだ。
教師が中間試験について話し始めた時、教室のドアが叩かれた。職員らしき男が顔を出し、教師を廊下へと連れ出す。扉が閉まると、数分後には生徒たちの間でざわめきが広がった。
彼らは“スマートフォン”と呼ばれる魔導の結晶のようなものを見つめ、顔を青くさせている。
「なあ……事故の話、聞いたか?」
「高速で車が爆発したって……」
「今朝のことらしいぜ……この近くで……」
胸の奥で、不快な鼓動が跳ねた。ドクン……ドクン……と、警鐘を鳴らすように。
私はあえて尋ねなかった。知りたくなかった。
ゆっくりと立ち上がる。今朝は特に、気分が優れなかった。リュウジンに告げられた『黒い血』という言葉が、呪いのように胸に重くのしかかっている。
「少し……外の空気を吸ってくる」
小さく呟いたが、誰も私を止めなかった。
「行くのか?」
吉田が、力なく問いかけてくる。
「うん……少しだけだ」
私たちは互いに、周囲の無責任なざわめきには関心を向けなかった。
屋上。扉を開けた瞬間、激しい風が私の顔を打った。空はどこまでも晴れ渡り、透き通るような青が広がっている。残酷なほどに、美しい世界。
手すりへ歩み寄り、冷たい金属に手を置く。
リュウジン。今朝の別れ。遠ざかる背中。フロントガラスに反射する光。
そして――何かが終わっていくような、理由のない予感。
目を強く閉じる。違う。そんなはずはない。馬鹿げている。だが、ふと……ノゾミの顔が脳裏をよぎった。あの日、吉田が倒れた時の彼女の冷徹な視線。あまりにも柔らかく、あまりにも正確な言葉。
背筋に凍てつくような寒気が走った。
「どこにいる……?」
ここしばらく、彼女の姿を見ていない。なぜか、今すぐ彼女を探さなければならないという衝動に駆られた。理屈ではない。それは、戦場を生き抜いてきた私の直感だった。
教室。私が階段を駆け下り、あの隠された部屋へ向かう頃。
彼女は、教師のいない教室へと足を踏み入れていた。
「吉田くん」
ノゾミが微笑みながら近づく。吉田は一人、周囲の事故の話題に耳を塞ぐように座っていた。
「……ノゾミか。ローズの知り合いだろう。どうしたんだ」
彼女はわずかに首を傾げ、毒を含んだ蜜のような声で告げる。
「ローズが、屋上で待っているわ。一緒に来てくれる?」
彼は一瞬だけ迷い、そして――小さく頷いた。ノゾミは椅子の取っ手を握り、ゆっくりと押し始める。タッ……タッ……タッ……。車輪が床を叩く音が、静まり返った廊下にやけに重く響いた。
やがて二人きりになると、空気の密度が変わった。窓から差し込む光は白く、死を暗示するように冷たい。ノゾミは足を止めた。その声から、作られた柔らかさが消える。
「吉田くん……自分の残り時間、知っている?」
彼は瞬きをし、怪訝そうに彼女を見上げた。
「……どういう意味だ」
「あなたの病気。思っているより、ずっと速く進んでいるのよ。臓器は衰弱し、身体はもう以前のようには動かない」
「お前……ッ!」
激昂しようとする彼に対し、ノゾミはわずかに身を屈めて囁いた。
「それに――今朝、リュウジン先生は亡くなったわ」
世界が、停止した。
「……は?」
「交通事故よ。車が爆発したの。遺体は……ほとんど残らなかったそうよ」
その声は優しく、どこか哀れむようで……それでいて、残酷なまでに明瞭だった。
「嘘だ!」
吉田が叫ぶ。ノゾミは容赦なくスマートフォンの画面を突きつけた。炎に包まれ、原形を失った車。昨日まで私を運んでいた、あのゴーレムの変わり果てた姿。
吉田の顔から、一気に血の気が引いていく。
「そんな……ありえない……」
「もう、あなたを救える人はいないの」
その一言が、彼の心を粉々に砕いた。叫びも、涙もない。ただ一瞬、魂が抜け落ちたように呼吸が止まる。ノゾミはその空洞を見つめ、最後の一刺しを見舞った。
「終わりが決まっているのに、戦い続けるのは……疲れるでしょう?」
再び、車輪が動き出す。コトッ……コトッ……。死への階段を上るように、彼らは屋上へと向かった。
私は校内を狂ったように走り回っていた。何かが崩れている。見えない何かが、決定的に壊れていく。
「ローズ!」
キヨミの声だった。彼女は泣きながら私に抱きついてきた。あの凛としていた彼女が、壊れた人形のように震えている。
「ローズ……リュウジンさんが……車が爆発して……何も、残らなくて……」
その言葉だけで、十分だった。足元の地面が崩落していくような感覚。認められない。今朝、笑って別れたばかりなのだ。
「吉田は……!?」
キヨミが掠れた声で問う。
「あなたたちを探して……屋上に行ったと聞いたわ」
世界が、赤く染まる。私はキヨミの腕を振りほどき、全速力で駆け出した。屋上へ。心臓が裂けそうなほど打ち鳴らされる。階段を二段飛ばしで駆け上がる。
(あの女……何者だ……!)
扉は開け放たれていた。風が、先ほどよりも強く吹き荒れている。
そこにノゾミの姿はなく、ただ吉田だけがいた。彼は縁のギリギリに立ち、車椅子は危うい角度で傾いている。
「吉田……」
返事はない。ただ、彼は虚空を見つめたまま呟いた。
「違う……よな……? リュウジンのこと……」
私は答えられなかった。その沈黙が、彼に最悪の真実を悟らせた。
「俺……死ぬんだな、ローズ。身体も動かない。誰も守れない……。それで……あの人も、もういない……」
風が激しく吹きつける。彼は涙を浮かべ、私を振り返ることなく言った。
「こんな状態で、生きる意味なんて……あるのか?」
「だめだ……!」
一歩踏み出した瞬間、車椅子の前輪がバランスを崩した。
彼の身体が、重力に引かれて前へと倒れ込む。
シーン……。
思考より先に、私の身体が爆発した。迷いも躊躇もなく、私は宙へと身を投げた。
空中で、落下する彼に追いつく。
「吉田……!」
全力でその身体を抱きしめた。建物が遠ざかり、風の唸り声が耳を劈く。彼が目を見開いた。
「ローズ……なんで……」
私は彼を胸に強く引き寄せ、覚悟を決めた。
「行くぞ……一緒だ」
地面が迫る。死は避けられない。
(不覚だな……)
女王への誓いも、騎士としての使命も、すべてを裏切った。自分を慕う一人の少年のために、私は異世界で命を散らす。
「……一緒に、死ぬ」
その時――白い閃光が、視界を塗りつぶした。
胸を打つ強烈な衝撃。あの日、あの戦場で私を飲み込んだ、あの絶大な力。
世界から引き剥がされる感覚。光が、私たち二人を包み込む。温かく、荒々しく、そして絶対的な力。
衝撃は来なかった。痛みもない。ただ、魂を裂くような転移の感覚。
私は理解した。これは同じ力だ。私をこの世界へ連れてきたものと同じ、運命の濁流。
今度は、一人ではない。
私たちは光に呑み込まれ、そして――この世界から消え去った。
これにて第一章(第一アーク)は完結となります。
至らない点や誤字脱字など多々あったかと思いますが、最後まで私の物語に付き合ってくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
本当の物語は、ここから始まります……!
次章からもさらなる盛り上がりを見せていきますので、引き続き応援よろしくお願いいたします!




