第109話:陥落
城の中庭は、まさにむき出しの屠殺場と化していた。
石畳は埃と血、破砕された甲冑の破片で埋め尽くされていた。崩落した幾つもの石柱が煙の中で燃え上がり、反乱兵の最後の残党が未だに城の階段付近で激しく激突を続けている。
だが、混沌の真っ只中で、世界の空気が一変した。
空だ。
帝都を覆い尽くしていた禍々しい赤が、急速に色褪せ始めたのだ。その禍々しい光彩は失われ、灰色に濁り、やがてその異常な輝きは完全に消え去った。本来の暗澹たる闇が、再び天穹を呑み込んでいく。
巨大な竜の背に乗るデルガドが、天を見上げた。
「何だ……!?」
不気味に眉をひそめ、不吉な呟きを漏らす。
巨獣は飛翔を続けていたが、次第に異常な興奮を見せ始め、動揺を深めていった。
下方では、眼下に広がる植物が目に見える速さで腐敗し始めていた。葉は生命力を失って枯れ落ち、城の通りを覆っていた緑の草むらは黄色く変色し、次いで不気味な黒へと染まっていく。自然が、恐ろしい速度で死に瀕していた。
デルガドの顔面が引きつった。
ほんの数週間前、魔神帝国の呪いは打ち払われたはずだった。吉田が『光の剣』を抜き放った直後、大地は再び豊穣を取り戻し、緑に萌ゆる大地へと蘇ったはずなのだ。
そして今――死が、再び回帰してきた。
一つの戦慄すべき考えが、デルガドの脳裏を駆け抜けた。
「まさか……そんなはずは……っ!」
彼は背後、帝都の中心部へと視線を向けた。その瞳に、凍てつくような激怒が宿る。
「くそが……ハメられたのか……っ!」
魔族の王子は完全に冷静さを失い、咆哮した。
「引き返せ! 今すぐ帝都へ反転しろッ!」
竜は山々を揺るがすほどの咆哮を上げ、激しく翼を羽ばたかせると、城郭へ向かって急降下を開始した。
「陛下……っ!」
デルガドは歯を食いしばり、低く唸った。
城の中庭では、ローズが吉田の亡骸を胸に抱いたまま、膝をつき続けていた。
彼女の耳には、周囲の混沌など一切届いていなかった。叫び声も、炸裂音も、鋼がぶつかり合う音も、彼女の意識をかすめもしない。
少年の胸元に手を入れた。
手応えはない。
一秒。二秒。三秒。
ただの一度も、鼓動は刻まれない。
震える指先を首元へと滑らせ、頚動脈の脈動を必死で探した。
応答はない。
吉田の瞳は空洞を見つめたまま、白く、完全に生命の光を失っていた。
ローズは頭を垂れた。
一滴の涙が頬を伝い落ち、次いで二滴、三滴と溢れ出していく。絶叫も、悲鳴もなかった。ただ静かで、全てを破壊し尽くすような無声の哭泣だけがあった。
吉田は、死んだのだ。
異世界から来た少年。地球では歩くことすら叶わず、この地で魔王となった若者。彼女の友人であり……最後の力を振り絞って自分に想いを告げた、大切な人。
死んだのだ。
数メートル先で、群がる反乱兵どもが勝ち誇った嘲笑を上げた。
「ハハハハハハッ!!」
「偽りの魔王が死んだぞ!!」
「あの間抜けはもうタダの死体だ!!」
反乱兵の一人が、笑いながら足元に転がる吉田の剣を蹴り飛ばした。
「終わりだ! 帝国は俺たちのものだ!!」
ケンは拳を血が滲むほど強く握りしめた。シェイリーは激怒のあまり息を呑み、エレノアは笑みを消し去った顔でアークエバスの引き金を固く握りしめた。
「クソ野郎どもが……」
海賊の女将軍が吐き捨てるように呪詛を吐く。
だが、ローズは――ローズは泣くのをやめた。
彼女の中で、何かが永遠に途絶えた。顔から温もりが消え去り、そこには冷酷な石の面だけが遺された。
吉田の骸を石畳の上へと静かに横たえると、彼女は両手で漆黒の剣を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
反乱兵の一人が、彼女を指差して嘲笑した。
「なんだ騎士様よぉ? 死んだ王様のために泣き言でも抜かす気か?」
ローズは瞬き一つしなかった。
「殺せぇっ!」
将校の一人が大斧を掲げ上げて叫んだ。
ローズが一歩踏み出した――次の瞬間、彼女の姿が全員の視界から消失した。
「なっ……!?」
『ドガァンッ!』
先頭の反乱兵は、自分の身に起きた現象を理解する間もなく首を跳ね飛ばされた。ローズは瞬きする間もなく距離を詰めていたのだ。
『ズバッ! ズバッ!』
正確無比で、残虐かつ寸分たがわぬ一閃。吉田の死体を取り囲んでいた反乱兵たちは、ほんの数秒で、ことごとく斬り伏せられた。ローズは叫びもせず、罵倒もしない。感情を殺したまま、ただ無心に刃を振るい、敵を屠っていく。
『キンッ!』
将軍の一人が掲げた盾を真っ二つに叩き割り、その勢いのまま胸元を一刺しで穿つ。
大勢の群れが一斉に彼女へ襲いかかろうとした。
「殺せぇぇぇっ!!」
『ズガァァァンッ!!』
その渦中にデイランドが躍り出た。『神聖なる護りの聖者』は己の『太陽の盾』を全面に押し出し、一気に十数人の敵兵を空中へと吹き飛ばした。
「一人で戦うな、ローズ!」
『シュバッ!』
反対側の側面からケンが肉薄し、黄金の槍で敵兵の胸元を深く穿つ。
「ローズ! 背中は俺たちが守る!」
『シュバッ!』
ケンの背後に迫っていた射手の首を、一本の矢が正確に撃ち抜いた。シェイリーが人知を超えた速度で光の弓を引き絞る。
「死角の敵は任せて!」
『バァンッ! バァンッ!』
エレノアが側面から回り込もうとした反乱兵二人の頭部を容赦なく撃ち抜いた。
「突撃ぃっ! 一匹たりとも逃がすんじゃないわよっ!」
聖者たちは、一切の迷いもなく、完璧な連携で敵を追い詰めていく。デイランドが重い衝撃を全て受け止め、ケンが黄金の槍で敵陣を穿ち、エレノアとシェイリーが遠距離から圧倒的な射撃で牽制し、そしてローズがその軌跡に残された全てを粉砕していく。
反乱軍の只中に、一瞬にして恐慌が広がった。
「な、何なんだコイツらは!?」
「聖者だ……聖者たちがいる!!」
「退却ぅぅっ!!」
だが、慈悲など存在しなかった。ローズは返り血の嵐を纏いながら前進を続けた。戦争に勝つために戦っているのではない。吉田が倒れたこの地に足を踏み入れた愚者どもを、ただただ打ち倒すために刃を振るっていた。
城の回廊では、親衛隊が最後の抵抗拠点を押し潰していた。
忠実な兵士たちの中に、かつて吉田によって救われた少女、エリカの姿があった。黒漆の軍服を身に纏い、彼女の剣は反乱軍の将校を処刑した直後で赤く濡れていた。
「通路を確保しろ!」
彼女が命じた。
破砕された窓からふと中庭を見下ろした瞬間、彼女の動きが凍りついた。
そこに、吉田がいた。
石畳の上に、ピクリとも動かずに倒れ伏している。
「嘘……」エリカの手から剣が滑り落ちた。「陛下……?」
彼女は狂ったように外へと駆け出した。
『グオォォォォォォォォンッ!!』
雲を突き破って現れた大竜が、鼓膜を裂くような咆哮を上げた。デルガドが巨獣の頭上に立ち上がり、その声が帝都全体に響き渡る。
「我らが魔王陛下が討たれた!! 裏切り者どもを一人残らず駆逐せよ!!」
二度目の咆哮は、もはや脅威ではなく、悲痛な弔いの遠吠えであった。
親衛隊とデルガドの直属部隊が都市の出口を完全に封鎖し、狂乱して逃げ惑う反乱兵たちを狩り尽くしていった。反乱は鎮圧されたが、払った代償はあまりにも破滅的であった。
中庭に、再び死のような静寂が訪れた。
ローズは静かに歩み寄り、吉田の傍らへと戻ってきた。膝から崩れ落ちるように倒れ込む。
少年の頬に触れた。凍りつくように冷たい。
「吉田……」
彼女の声が、静かに消えていく。
シェイリーは声を押し殺して涙を流した。エレノアは溢れ出る嗚咽を必死で堪えようと歯を食いしばっていたが、堪えきれずに涙を散らした。ケンは手元の黄金の槍を石畳に深く突き立て、指関節が白くなるほど力任せに握りしめた。
『ドスンッ!』
竜から飛び降りたデルガドが着地した。重い足取りで吉田の遺体へと歩み寄り、その前にひざまずく。
頚動脈に二本の指を当てた。反応なし。胸元に掌を置いた。鼓動なし。口元で呼吸を確かめた。途絶えている。
デルガドは瞳を閉じ、苦い溜息を吐き出した。
「間違いない……陛下は、お隠れになられた」
その瞬間、エリカが息を切らせて駆け込んできた。命の恩人の遺体を目にし、激しい哭泣に身を沈める。彼女は吉田の反対側に膝をつき、少年の手の甲に顔をうずめて声を上げて泣いた。
デルガドは拳を固く握りしめ、天を仰いだ。
「不覚……」
そして、彼は集まった者たちへと視線を巡らせた――ローズ、ケン、シェイリー、エレノア、デイランド……そして彼らが手に抱く神器へと。
「……こうなることは、予想しておくべきだったのかもしれん」
魔族の王子が低く呟いた。
「どういう意味よ……?」
ローズが掠れた声で問う。
デルガドは立ち上がり、いつもの冷徹な表情に戻った。
「完璧な罠を仕掛けられたのだ。そして、この裏で糸を引いている黒幕にも心当たりがある」
ローズもゆっくりと立ち上がった。漆黒の剣を握る手には、凄絶な殺気が宿っている。
「誰なの」
「話せば長くなる」デルガドは彼女をまっすぐに見つめ返した。「だが、一つだけ名を教えてやろう……アクセルだ」
その名が、落雷のようにその場に轟いた。エレノアが目を見開き、シェイリーが顔を蒼白にし、ケンが不機嫌そうに歯を鳴らした。
「アクセル……?」ローズが反芻する。
「あいつ以外に、このような悪巧みを仕込める奴は思い当たらん」
ローズが一歩踏み出した。その瞳には、果てしない殺意の炎が燃え盛っていた。
「そいつの首を刈る」
「身の程を知れ、娘」デルガドが彼女を制した。「あいつに近づくことは自殺行為だ。過去に挑み、敗れ去った者を知っている」
「誰よ」
デルガドは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「歴史が繰り返されるとは皮肉なものだ……ジェイソン・ベイカーもまた、あのクソ野郎の首を狙って挑み、散っていった」
全員が息を呑み、凍りついた。
「アクセルってのは一体何者なのよ!?」
エレノアが詰め寄る。
「それに答えられるのは、ベイカーと軍神くらいのものだ」
それ以上の説明を拒むように、魔族の王子はかがみ込み、吉田の冷たくなった身体をその腕に抱き上げた。
「何をするつもり!?」
ローズが叫ぶ。
「地面の上に放置しておくわけにはいかんだろう」デルガドは迷いのない足取りで歩き出した。「おい。親衛隊の士官、ついてこい」
エリカは涙を拭い、小さく頷いて彼の後に続いた。
デルガドは一瞬だけ足を止め、氷のように冷たい決意を込めて背後のローズを振り返った。
「ついてくるなよ……俺には果たすべき貸しがある」
ローズは彼を止めなかった。吉田の遺体を抱えて去っていく背中を、ただ静かに見つめていた。
彼女の瞳からは、もはや涙も、迷いも、苦痛すらも消え失せていた。そこに残されていたのは、ただ黒く燃え上がる死の炎だけだった。
手が痛むほどに、彼女は剣の柄を強く握りしめた。
「アクセル……」
死の気配を孕んだ吐息と共に、その名を呟いた。




