第108話:あなたの瞳の光
爆発の余韻が未だ城の回廊に重く響き渡っていた。
巨大な土煙の雲が中庭を覆い尽くし、吉田とディレンドの姿を完全に隠していた。兵士たちの叫び声は、絶え間ない刃の激突音、そして崩れ落ちる建物の破砕音と混ざり合い、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
ディレンドはかろうじてその場に踏みとどまっていた。片腕から血を流し、息も絶え絶えになりながらも、己の太陽の盾を正面に構え続ける。
その時、薄闇の灰煙の隙間から、思わず息をのむ光景が目に入った。
二つの深紅の瞳。
それは常人のものではなかった。野生の獰猛な狂気に溢れ、触れる者を押し潰すほどの圧迫感を放つその眼光に、ディレンドの全身の皮膚が一瞬にして粟立った。
「な……んだ……!?」
煙の奥からシルエットが形を成していく。ディレンドはその瞳に見覚えがあった――少女だ。
漆黒の剣を握り締め、疾風のごとく進み出てくる少女。だが、彼女だけではなかった。彼らを取り囲むように、無数の魔神帝国の将兵たちが陣を張っていた。
吉田はもはや動くことすら叶わなかった。激痛に身を捩りながら冷たい石畳の上に倒れ伏し、必死に荒い息を繰り返していた。
その凄惨な光景を目にした瞬間、ローズの表情が引きつった。
「吉田……っ!」
だが、一歩遅かった。吉田を取り囲んでいたオーガの一人が、容赦なく短剣を振り上げた。
ローズは目を大きく見開いた。
「やめろぉぉぉっ!!」
オーガの腕が振り下ろされた。金属の刃が、吉田のアバラを容赦なく貫く。
「ぐはあぁぁっ……!?」
ローズは絶句した。ほんの数瞬、世界の時間が止まったかのように思えた。
その絶望の渦中に、ケンが突風のごとく躍り出た。
「失せろッ!」
ケンは自らの黄金の槍を野性味溢れる凄まじい力で投げつけた。
『ドガァンッ!』
その衝撃でオーガは数メートル吹き飛ばされたが、手遅れだった。吉田は自らの血の溜まりの上に、再び激しく崩れ落ちた。
ローズはゆっくりと頭を垂れた。指先が微かに震え始める。漆黒の刀身が、怒りに狂ったかのように彼女の腕の中で激しく振動していた。
反乱兵の一人が叫び声を上げた。
「殺せぇっ!」
その一言が導火線となった。ローズは一切の感情を削ぎ落とした顔で天を仰ぐと、獣のような咆哮を上げた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
漆黒の刃が空を切り裂いた。
『ズバッ!』
先頭の兵士が血を噴き出して崩れ落ちる。ローズは旋風のごとく軸足を回し、二撃目の強烈な一閃を振り抜いた。
『ズバッ!』
別の敵が血飛沫を上げて倒れ込む。少女の進撃はまさに暴風雨だった。迅雷のごとき速さと、残虐なまでの精密さで敵をなぎ倒していく。反乱兵たちは包囲を縮めようと群がり立つが、誰一人として彼女の領域に踏み入ることすら許されない。
もはや思考などしていなかった。絶叫も、周囲の混沌も届かない。彼女の視界に映っていたのは、ただ地に伏せる吉田の姿だけだった。
ベイカー親衛隊長だっ!」襲撃してきた魔神帝国の兵が慄いて叫んだ。「あの女が戻ってきたぞ!」
精鋭たる親衛隊員たちが一斉に剣を掲げ、中庭は再び凄絶な屠殺場と化した。ケンは投げつけた黄金の槍を手元へ回収すると、ローズの退路を塞ごうとする者に牙を剥いた。
「この女に近寄ろうなんて考えるなよッ!」
ディレンドもまた盾を持ち上げた。傷だらけの身でありながら、吉田の身体を庇うように立ち塞がる。
『キンッ!』
魔神帝国の兵が放つ大斧の一撃を耐え抜き、歯を食いしばった。
「何がどうなってやがるのかさっぱり分からんが……この男を死なせるわけにはいかねぇんだよっ!」
数メートル先では、泥と血に汚れたエレノアが、必死の形相でアークエバスに弾薬を装填していた。薬莢を叩き込み、再び引き金を引く。
『バァンッ! バァンッ!』
「くたばりやがれ、クソ野郎どもがぁっ!」
シェイリーも立ち上がることすら覚束ない状態でありながら、再び光の弓の弦を引き絞った。側方へ跳躍して射ち、転がって立ち上がり、間髪入れずに次の矢を番える。
『シュバッ!』
一矢。二矢。そして三矢。エルフの少女は、吉田へと群がるハイエナどもを遠ざけるために、一瞬の休みもなく矢を放ち続けた。
「ここから先は……一歩も通さない……!」
だが、ローズは既に敵の防衛線を突破していた。彼女の剣が最後に一人の兵士を切り伏せる。
『ズバッ!』
敵が物言わぬ骸となって倒れ込む。ローズは攻撃の手を止め、真っ直ぐに前を見つめた。
そこに、吉田がいた。
彼女の視界には、ただ地に伏せる吉田の姿しかなかった。周囲の肉弾戦も、叫び声も無視し、躓きそうになりながら彼へ駆け寄る。
一歩を踏み出すごとに、身体が鉛のように重く感じられた。彼の目の前に辿り着いた瞬間、ローズの動きが完全に止まった。
目の前に広がっていたのは、あまりにも残酷な光景だった。血の海に身を沈め、瀕死の苦悶に喘ぐ吉田。顔面は赤く染まり、学ランはズタズタに引き裂かれていた。呼吸は弱々しい風鳴りのような音を立てるのみで、その瞳――かつて輝きに満ちていたその瞳から、急速に光が失われていく。
ローズの心の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
「吉田……」
膝から崩れ落ち、押し殺した声で呟く。
背後からオーガが一頭、長槍を構えて襲いかかってきた。
「死ねぇっ!」
ローズはピクリとも動かなかった。
その一撃を遮るように、ケンが割り込んだ。
『キンッ!』
「おい、ローズ! 何やって――」ケンは彼女の顔を見て絶句した。その表情は完全に壊れていた。かける言葉もないと悟ったケンは、即座に踵を返し、再び敵へと向き直った。
「ここは俺が食い止める!」
ローズの耳には、もう何も届いていなかった。抑えきれない震えに苛まれる手で、彼女は吉田の頭部をそっと自分の膝の上に乗せた。朱に染まった少年の頬へ、ボロボロと溢れ落ちる涙が零れ落ちていく。
「なんで……」声が途切れ途切れに破綻する。「なんでよ……っ!」
その瞬間、一つの記憶が彼女の脳裏を過った。日本。あの予知の光景。
彼女はこの光景を、既に知っていたのだ。血を流し、その瞳から生気を失っていく吉田の姿を――あの夢の中で見届けていたのだ。
耐えがたい現実に打ちのめされ、ローズは首を横に振り続けた。
「嘘……嫌……嫌よ、そんなの……!」
必死の思いで吉田を抱きしめ、少年の顔を己の胸元へと強く押し当てた。
「お願い……お願いだから……!」
「ローズ……」
微かな、掠れた声が胸元から漏れ聞こえた。
ローズは身体を強張らせ、視線を落とした。
吉田が、かろうじて瞼を持ち上げようと死力を尽くしていた。
「吉田……っ!」
「無理して喋らないで!」涙で顔をくしゃくしゃにしながら懇願する。「お願い、何も言わないでっ!」
だが、彼は弱々しく首を横に振った。
「ごめん……」
「喋っちゃダメ……っ!」
『ガハッ……!』
吉田が激しく咳き込み、大量の吐血がローズの衣装を赤く染め上げた。彼女は苦痛に身を悶えさせた。
人知を超えた意地を振り絞り、少年は腕を持ち上げた。まともに力の入らない指先だったが、かろうじてローズの頬へと触れることができた。
「ずっと……この……時間……」途切れ途切れの呼吸の合間から、声が消えかかっていく。「気づか……なかった……」
ローズは指先から命が零れ落ちていく感覚に、ただ声もなく泣き続けた。
「もういい……喋らなくていいから……!」
吉田は最後に、弱々しく、濁った空気を深く吸い込んだ。
「好きだ……ローズ……」
少女の瞳が、見開かれた。
「好きなんだ……」
最後の息と共に吐き出されたその言葉が、彼女の心を完全に粉砕した。ローズは頭を垂れ、慟哭した。
「私も……っ!」声が完全に掠れ、絶叫へと変わる。「私も……大好きよ、吉田っ……!」
一瞬だけ、吉田の瞳に小さく温かな光が宿り――そして、静かに途絶えた。
ローズは少年の顔を凝視した。
「吉田……?」
応答はない。
「吉田……っ!」
ローズの頬に触れていた手が力を失い、血に染まった石畳の上へ重く落下した。
吉田の胸の上下が完全に止まった。呼吸が途絶え、彼女の膝の上で脈打っていた鼓動が、静かにその脈打ちを止めた。少年の肌からは見る見るうちに生気が失われ、冷たく青ざめていく。
焦点を失ったその瞳からは一切の色が抜け落ち、二度と光を宿すことのないガラス玉のように静まり返っていた。
ローズは身動き一つできず、吉田の身体から急速に奪われていく体温を感じていた。
ゆっくりと顔を近づける。彼女の唇が、吉田の冷たく、血に汚れた唇へと重なった。最後の、苦く、あまりにも残酷で切ない口づけ。返答も、吐息も、温もりすらもそこにはなかった。
唇を離すと、彼女はその物言わぬ骸を強く抱きしめ、冷たくなった首元に顔を埋めて、溢れ出る涙でその肌を濡らし続けた。
数メートル先で、シェイリーの手から光の弓の弦が離れた。吉田の虚ろな瞳と、その身体の下から広がり続ける血の溜まりを目にし、指先が激しく震えていた。
エレノアはゆっくりとアークエバスを降ろした。いつも強気な海賊の女が言葉を失ったのは、これが初めてのことだった。息絶えた少年の姿を見つめる彼女の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出していく。
二人の周囲では、未だに戦争の狂騒が吹き荒れていた。剣がぶつかり合い、兵士たちが叫び、城が破片となって崩れ落ちていく。
だが、ローズにとって、世界はここで完全に終わりを迎えていた。
残されたのは、静寂と、絶え間ない涙……そして、二度と脈打つことのない吉田の冷たい肉体だけであった。
今回の執筆BGMは、あのセーラームーンの「ムーンライト伝説」でした!笑
まさかこの曲からインスピレーションを受けるとは……自分でも謎ですww ( ゜∀゜)




