第107話:決断の刻
叛乱の報せは、すでに帝都全体へと行き渡っていた。
南の通りから、膨大な魔族の群れが街の中央を目指して怒濤の勢いで進撃していた。剣や大斧、ありとあらゆる粗末な武器を手にした彼らは、訓練された軍隊というよりも、目につくもの全てを破壊しながら突き進む暴徒と化していた。
街の住人たちは、窓越しにその惨状を恐怖に引きつった目で見つめていた。
粗末な露店を急いで閉める商人たちや、荒れ狂う狂気から子供たちを遠ざけようと、奥の部屋へ隠すために家路を急ぐ親たちの姿があった。
反乱兵たちの怒号が幾つもの通りにこだまする。
「城へ進め!」「偽りの魔王を討ち取れ!」「人間どもを我らの帝国から叩き出せ!」
遥か遠方では、城砦を激しく揺らす轟音が未だに途絶えていなかった。
『ズガァァァンッ!』
尖塔の一つから濃煙が立ち上り、それを見上げる大人たちの顔に暗い影を落とした。
しかし、この街の全員がこの暴動に賛同しているわけではなかった。
「なぜこんな真似をするんだ……」「魔王様がここに来られてから、まだ数週間しか経っていないというのに……」「あの方の本当の姿すら知ろうとしないくせに……」
反乱兵たちは、玉座に座る少年のことなど何も知らなかった。
吉田が市井の暮らしを直に知るために身分を隠して街を巡っていたことも、貧困街から重病の子供二人を城へと連れ帰り、介抱して命を救ったことすら知る由もない。
大半の反乱兵にとって、彼は『魔王を騙る人間』というだけで、殺す理由としては十分すぎた。
群衆が中央へ向かって押し寄せる中、その反乱に加わる気など毛頭ない一人の少女――ロゼット・ベイカーが混ざり込んでいた。
ローズは流れる群衆に紛れ、戦闘から距離を置きながら歩いていた。郊外から彼らの後を追ってきたのは、ただこの暴動がどこへ行き着くのか確かめるためだけに過ぎない。
誰かを襲うこともなく、指図することもなく、言葉ひとつ交わさずに、ただ静かに群衆の後を追っていた。
だが、ローズは突如として足を止めた。
周囲を見回すと、誰も彼もが狂信的な眼差しで城を目指して進軍していた。
「……」
(私……一体ここで何やってるわけ?)
心の中で毒づく。
自分を取り囲む魔族どもを見やり、激しい爆発音が響き続ける城を見上げ、再び視線を暴徒たちの群れへと戻した。
(これじゃまるで、元カレに復讐するために敵軍に紛れ込んだ未練がましい女じゃない……)
ローズは即座に苦々しく眉をひそめた。断じて、絶対にそんな理由ではない。
彼女は目立たぬよう足取りを緩め、群衆の脇へと逸れ始めた。
(ただ、あいつらが何をするつもりなのか確かめたかっただけ。それだけよ)
一歩、また一歩と後退し、ついに反乱軍の隊列から完全に抜け出すことができた。
「よし……」
安堵の息を吐き出したその瞬間、背後から冷ややかな声が響いた。
「どこへ行くつもりだ?」
ローズの身体が硬直した。ゆっくりと振り返ると、そこにはケンが立っていた。ずっと彼女の後を追ってきた少年は、隠しようともしない不機嫌な眼差しで彼女を睨みつけていた。
ローズは素早く路地裏へと滑り込み、ケンもその後を追った。群衆の喧騒から離れるやいなや、彼女は剣を抜き放ち、ケンもまた長槍を構えた。
「何やってんだよ、クソガキ」
ローズは心底鬱陶しそうにケンを睨みつけた。
「ちょっと、ケン。言っておくけど、アンタを呼んだ覚えなんてないんだけど。この馬鹿」
「後を追ってきてやったんだから、少しは感謝されると思ってたんだがな」
「アンタがついて来る理由なんてないわよ」
「見てればわかるさ」
二人は暗い路地裏を駆け抜けた。建物の合間から見え隠れする城砦からは、絶え間なく爆発音と激しい戦闘の音が届いていた。
ケンは厳しい表情で城を見上げた。
「本格的なクーデターだな。どうやらお前の『お友達』の化けの皮が剥がれたらしい」
ローズは一瞬だけ足を止めた。
「化けの皮じゃないわ」そう吐き捨てると、再び地を蹴った。「吉田は……本当の魔王よ」
ケンは眉をひそめた。
「何でそこまで庇うんだ? あいつはお前の敵だろ?」
ローズは横目でケンを射抜いた。
「アンタ……あの男を見たことあるの?」
「は? 何のことだ?」
「アンタが思ってるような魔王と、あいつが同じに見えたの?」
ケンは数秒間黙り込んだが、やがて鼻で笑った。
「理解できねぇな、ローズ。まるであいつに骨抜きにされてるみたいだ」
ローズはぴたりと立ち止まり、殺気立った瞳で彼を睨み据えた。
「……大事なモノが惜しかったら、二度とその口開かないことね」
ケンは引きつった笑みを浮かべた。
「言われただけで痛くなってきたぜ……」
「バカ……」
ローズは呟き、再び走り出した。
背後で広がり続ける混乱を余所に、二人は路地裏の闇を突き進んでいった。
◆ ◆ ◆
城の中庭で、吉田は片膝をつき、力なくうつむいていた。
息は荒く、途切れ途切れだった。片目は完全に腫れ上がり、顔面は血に染まり、片腕はもはや満足に動かない。学ランの上に纏っていた鎧はズタズタに引きちぎられ、原型をとどめていなかった。
その前に立つディレンドもまた、似たり寄ったりの惨状であった。
顔面は打撃で変形し、全身の傷口から血を流し、息を絶え絶えにしながらも、意地だけでその場に仁王立ちしていた。
聖者はゆっくりと顔を上げた。
「本当に……頑丈な奴だな……」
吉田には答える気力すら残っていなかった。ディレンドは消耗しきった笑みを浮かべた。
「お前を殺したくてたまらなかったんだよ、魔王。この機会をどれほど待ったか……。このクソみたいな街で身を潜め、お前を仕留める完璧な混沌が訪れるのを待っていたんだ」
だが、彼がそれ以上言葉を続ける前に、空気を切り裂く切迫した叫び声が周囲を包み込んだ。
「突撃ィッ!」「押し戻せ!」「陛下をお守りしろ!」
ディレンドが首を巡らせると、その顔から笑みが消え去った。
外郭を打ち破って雪崩れ込んできた反乱兵に対し、親衛隊が凄絶な死闘を繰り広げていた。
傷つき疲弊したシェイリーは、敵の進撃を食い止めるために死に物狂いで矢を放ち続けていた。エレノアも全身に負傷を負いながら、二丁のアークエバスの引き金を幾度となく引き絞る。
『バァンッ! バァンッ!』
魔族の一人が崩れ落ちる。エレノアは素早く身を翻し、再び発砲した。
『バァンッ!』
別の反乱兵が血飛沫を上げて倒れ込む。
「これ以上近づいてみろ、クソ野郎どもがぁっ!」
海賊の女将軍が咆哮する。
シェイリーは崩落した石柱の上に跳び移り、高所から矢を放ち続けた。
『シュバッ!』
距離を詰めようとした兵士の胸元を矢が穿つ。エルフの少女は地上へ着地して転がり、再び立ち上がって弓を番えたが、押し寄せる敵の数はあまりにも多すぎた。
ディレンドはその大混乱を困惑の目で見つめた。
「一体全体……何が起きている……!?」
膝をついたままの吉田が、ゆっくりと顔を上げた。
「……お前の味方じゃなかったのかよ……?」
ディレンドは嘲笑を漏らした。
「私が? 魔族ごときと同盟だと? ハハ、冗談を言うな」
吉田は歯を食いしばった。血を吐き出しながら、震える腕で地を押し、激痛に身を捩りながら立ち上がろうとした。
ディレンドはその姿を凝視した。
「無様だな、魔王」
吉田は無言のまま顔を上げた。
ディレンドが地を蹴り、吉田もまた前へ踏み出した。二人の身体が再び激突する。
『ドガァンッ!』
ディレンドの一撃が吉田の顔面を捉えたが、吉田は即座にそのアバラへ拳を叩き込んだ。
『ベキッ!』
ディレンドが痛みに呻く。
「ガハッ……!?」
聖者は猛烈なフックを打ち返した。
『バシッ!』
衝撃が吉田の顎を打ち砕き、一本の歯が血と共に吹き飛んだ。しかし吉田は一歩も引かず、ディレンドの鼻柱へ拳を突き立てた。
『ガツンッ!』
鮮血が舞う。ディレンドが後退した隙を見逃さず、吉田は腹部、胸元、そして顔面へと連続で打ち込んだ。
ディレンドは一つをガードしたものの残りを顔面に受け、返しの強烈な打撃で吉田を吹き飛ばした。
両者ともに限界を超えていたが、どちらの目からも折れる気配はなかった。
ディレンドが右ストレートを放つ。吉田はそれを躱してカウンターを放つが、聖者は間一髪で首を捻り、拳は頬を掠めるにとどまった。吉田の体勢が崩れたその隙を見逃さず、ディレンドは全身の力を込めた拳を振り抜いた。
『ズガァンッ!』
吉田は空中へ吹き飛ばされ、石畳の上を転がり、大量の血を吐き出した。
「吉田ぁぁっ!」
シェイリーが悲痛な悲鳴を上げる。
彼女が駆け寄ろうとしたその瞬間、一本の矢が空を切って飛来した。
『シュバッ!』
その矢は、吉田の脚深くへと突き刺さった。
「ぐああぁぁぁぁっ!?」
吉田は悲鳴を上げて崩れ落ちた。
ディレンドは驚愕して振り返った。
「な……!?」
どこからともなく、反乱兵の一人が放った長槍がディレンドを目がけて一直線に飛来した。
『ヒュンッ!』
ディレンドは本能的に盾を掲げ上げた。
『キンッ!』
長槍は『太陽の盾』に弾かれ、明後日の方向へと落ちていった。ディレンドは地に伏せる吉田を見下ろした。
「おい……魔王……」
戦火の狂騒が激しさを増し、再び爆発音が中庭を揺らした。シェイリーとエレノアは死力で戦い続けていたが、押し寄せる反乱兵の波は留まることを知らなかった。
「数が多すぎる……!」シェイリーが悔しそうに叫ぶ。
エレノアが撃ち続け、ついに片方のアークエバスが『カチッ』と虚しい音を立てた。弾切れだ。
「くそっ……!」
飛来した大斧を、ディレンドは間一髪で盾で防いだ。直後、頭上から矢の雨が降り注ぎ、一矢が彼の腕を深く穿つ。
「グアァッ!?」
周囲を見回したディレンドは、これがもはや吉田との決着などではなく、理性を失った大殺戮の渦だと悟った。
「狂ったか、魔族どもめ……!」
初めて、状況が完全に己の手を離れたことを悟った。逃げねばならない。こんな場所で犬死にする意味などどこにもない。
背を向けて走り出そうとした――だが、身体が動かない。己の持つ盾が、異常なまでの重量と化していた。
「な……んだ……!?」
持ち上げようと試みるが、微動だにしない。ディレンドは信じられない思いで『太陽の盾』を見つめた。
「なぜだ……なぜ行かせてくれない……!?」
ふと地に倒れる吉田へ視線を落とすと、少年の瞳から急速に光と生気が失われていくのが見えた。
ディレンドは息を呑み、その場から動けなくなった。
突如として、盾の黄金の表面が目も眩むような光を放ち始めた。
「な……」「……」
離れた場所では、シェイリーの持つ弓もまた眩い光を発していた。エルフの少女は絶句して己の『光の弓』を見つめた。
「え……何……!?」
幾つもの路地を隔てた街中で、ケンと共に走っていたローズの剣が激しく振動を始めた。足を止めると、刀身から深い闇の気が溢れ出している。
「何が起きてるの……!?」
同時にケンの『黄金の槍』も異様な輝きを放ち始め、彼は思わず足を止めた。
「俺の槍が……!?」
城の中庭に転がる吉田の『光の剣』は、その輝きを失い、急速に濁った色へと変貌していった。
吉田は弱々しく咳き込み、石畳の上に血の斑点を散らした。二度目の激しい咳と共に、黒い血の塊を吐き出した。
ディレンドはその光景を前に、一歩も動くことができなかった。盾の輝きが絶頂に達したその瞬間――優しく、澄み渡った、聖歌のような声が彼らの頭の中に直接響き渡った。
『その者を……死なせてはなりません』
ディレンドは混乱して天を仰いだ。シェイリーもまた同じ動作をした。路地裏のローズは言葉を失い、ケンは長槍の柄を力任せに握りしめた。
四人は、全く同じ言葉を耳にしていた。
「な……」
ディレンドは再び吉田を見下ろした。この街に降り立って以来初めて、彼を『討つべき敵』ではなく、『いま命を落とそうとしている一人の人間』として見つめていた。
まさに、その瞬間――
『ズガガガガガガァァァンッ!!』
凄まじい大爆発が中庭に面した巨大な外壁を木っ端微塵に砕き割った。舞い上がった土砂と白煙が広がり、あっという間に吉田とディレンドの姿を呑み込んでいった。
混沌の渦中に残されたのは、絶叫と、吹き荒れる土煙、そして――神器たちが解き放つ不可思議な余光だけであった。
本作は元々、私個人がスペイン語で執筆した作品です。プロローグから読み返して見直しと修正を進めているのですが、評価していく中で多くの誤りや至らない点に気づかされました……。
実は日本語が「まだそこまで得意ではなく」、その影響で「より自然で崩した表現や、文章に溶け込むオノマトペ、ドラマチックな展開を生み出す短い文節のカットイン」などが不足していると感じられる場面があるかもしれません。読者の皆様には大変申し訳なく思っております 。゜(゜´D`゜)゜。




