第103話:混沌
魔神帝国の玉座の間は、もはや一国の王にふさわしい部屋とは言い難い状態と化していた。
床には空の酒瓶が転がり、テーブルの下にはグラスが散乱し、絨毯の上にはいくつものワインの染みが広がっていた。その惨状の真ん中で、吉田、シェイリー、エレノアの三人がすっかり泥酔し、何ら威厳もなく玉座の近くに倒れ込んでいた。
吉田は階段の段差に体を預けながら、うわ言のように呟き始めていた。
「ローズ……」
「また始まったわ……」
仰向けに倒れたシェイリーが寝言のように呟いた。
ほぼ空になった酒瓶を抱きかかえたエレノアが、けたけたと声をあげて笑う。
「ほっときなさい……惨めねぇ……」
「黙れ……」
「あはははは!」
◇◇◇
一方、その喧騒から遠く離れた城の廊下を、デルガドが一人歩いていた。
肩に大鎌を担ぎ、重厚な足音が石畳に響き渡る。玉座の間にいる三人の酔っ払いとは対照的に、魔族の王子の表情は極めて厳粛であった。
廊下の先から、一人の兵士が慌ただしく駆け寄ってきた。
「デルガド殿下!」
デルガドは足を止めた。
「何事だ」
兵士は一礼すると、封ろうの施された一通の手紙を差し出した。
「北方より、緊急の知らせにございます」
デルガドは封筒を受け取り、素早く封を破って内容に目を通した。
差出人は、魔神帝国の統治のために任じられた四人の大領主の一人、ルーシエン卿であった。
報告は実にきな臭いものであった。北方の山岳地帯に割拠する諸部族が、帝国新政府に対して反旗を翻したというのだ。魔王の発布した法体系を拒絶し、打倒のための戦力を集結させているという。
デルガドは苦々しく眉をひそめた。
「また造反か……」
だが、手紙を読み終える間もなく、別の兵士が息を切らせて飛び込んできた。
「殿下ッ!」
「申してみよ」
「南方より報せにございます!」
デルガドは緩やかに振り返った。
「どのような報せだ」
「徴兵に向かった村で……」兵士は生唾を飲み込んだ。「住民どもが暴動を起こし、派遣部隊は全滅しました! 現在、武装した集団が我が首都を目指して進軍中です!」
廊下に重苦しい静寂が落ちた。
デルガドは数秒間、静かに目を閉じた。南北で同時に巻き起こる反乱、そして首都へとまっすぐに迫る敵軍。
「城内に残る幹部を集めろ」彼は冷ややかに命じた。「ただちに軍議を開く」
兵士が脱兎のごとく駆け去っていくのを見送り、デルガドは二通の報告書を見つめながら表情を険しくさせた。
「クーデターの匂いがするな……」
深まる疑念を胸に秘め、彼はまっすぐ玉座の間へと向かった。扉を開けると、そこに広がっていたのは予想通りの惨状であった。吉田は相変わらず玉座の脇で潰れている。
「ローズ……」
デルガドは無言で彼を見下ろし、深く溜め息をついた。
「陛下……」
返答はない。エレノアが空の酒瓶を掲げてみせた。
「デルガドォ! あんたも飲みなさいよー!」
「断る」
「うぐっ」
デルガドは彼女を完全に無視した。この状態の吉田を起こそうとするだけ時間の無駄であり、軍議も幹部が揃う数時間後まで待つほかない。彼は静かに扉を閉めた。
◇◇◇
数時間後、巨大な会議卓の周囲には、首都に残る主要な将軍や魔族の指導者たちが顔を揃えていた。オークにオーガ、ミノタウロス――各部族の代表者たちだ。
軍議が始まったものの、それが大混乱へと発展するのに大した時間はかからなかった。
「ルーシエンどもの支配など受けるものか!」
「あの人間どもは、俺たちを都合のいい駒として扱う気だぞ!」
「法など不要だ!」
「四人の領主ごときに、俺たちを従わせる権利なんてねぇ!」
「俺たちの部族は古来より自由だったはずだ!」
怒号がテーブルの端から端へと飛び交う。
デルガドは議論に加わることも、声を荒げることもなく、ただ静かに座って耳を傾けていた。
魔族たちが拒んでいるのは、ルーシエン、オーウェン、ガレス、ハロルド――帝国を統治する四人の大領主そのものだ。統制された軍隊も法も、彼らにとっては自らの自由を縛る鎖に過ぎない。
デルガドはテーブルの上に静かに手を置いた。
(愚か者どもめ……)
彼の脳裏に浮かんだのは、ただその一言であった。
だからこそ、この帝国は常に無秩序であり続けたのだ。彼らは何世代にもわたって散りぢりに暮らし、自らの部族の掟にのみ従ってきた。中央集権政府を打ち立てようとすれば反発が起きるのは当然であったが、ここまで思慮が浅いとは予想外であった。
その時、激しい雑音の中から一つの言葉が彼の耳に届いた。
「……あの人間を殺っちまうべきだ」
室内の空気が一変した。デルガドはゆっくりと顔を上げた。
「……今、何と言った?」
発言した将軍は、下劣な笑みを浮かべて繰り返した。
「あの人間を殺っちまうべきだと言ったんだよ! 俺たちを完全に滅ぼしちまう前に――」
『ガァァァンッ!!』
デルガドが叩きつけた拳の衝撃が、部屋全体を激しく揺らした。その場にいた全員が一瞬で口をつぐむ。
デルガドはぞっとするほど平然とした顔で立ち上がると、卓の周囲を静かに歩み、その将軍の目の前に立った。
「貴様はいま……魔王陛下を屠れと提案したのか?」
その魔族は言い訳を試みようとした。
「私はただ……」
デルガドは静かに手を挙げた。
「衛兵」
即座に二人の兵士が入室した。
「連れて行け」
「な、なにッ!?」
兵士たちは抗う将軍の両腕を力任せに拘束した。
「放せッ! 離しやがれッ!」
引きずり出されていく間も、その魔族はデルガドと魔王に対する罵詈雑言をぶちまけ続けた。
「人間の犬めッ! 貴様などにこんな真似が許されると思うなよッ!」
重厚な扉が閉じられた。デルガドはその場に立ち尽くしたまま溜め息をつき、天井を仰いだ。
「この件にはすでに決着がついたと思っていたのだがな……」彼の声には深い疲弊が滲んでいた。「十分叩き込んだつもりだったが、どうやら理解できていなかったらしい」
別の将軍が激しく卓を叩いた。威圧的な角を持ち、全身に傷跡を刻んだ巨大なミノタウロスであった。
「俺たち魔族は常に自由であり、これからも自由だ!」巨大な声が部屋に響き渡る。「人間どもの指図など絶対に受けんぞ!」
数人の将軍たちが卓を叩いて同調した。
デルガドは自身の内に湧き上がる怒りを感じながら静かに目を閉じた。だが、彼は自らに言い聞かせた。自分は単なる王子や将軍ではない。魔王の懐刀なのだと。
デルガドは目を開くと、周囲のざわめきを無視して素早く決断を下した。
「よく聞け。南方の反乱軍が首都へ向かって進軍中だ。城壁に到達する前に、これを捕捉し全滅させよ」
将軍たちは顔を見合わせ、その唇に凶暴な笑みを浮かべた。
「探知の術式を張り、北への備えも怠るな」デルガドは大鎌の柄を固く握りしめた。「山岳の部族どもは、私が直々に赴き平定する」
ミノタウロスが牙を剥き出しにした。
「いよいよか……」
別の将軍が邪悪に笑う。
「戦争だな」
デルガドは微動だにしなかった。
「否」彼の視線が、ゆるやかに室内を射抜く。「これは、魔王陛下に刃を向ける者が辿る末路を証明するための『見せしめ』だ」
将軍たちはその命を受け入れ、この軍議において初めて、誰一人として異論を唱える者は存在しなかった。
◇◇◇
首都から数十キロメートル離れた小高い丘の上に、一軒の小さな小屋が佇んでいた。
古い木材と石造りで建てられた素朴なその場所からは、魔神帝国の首都を囲む広大な荒野を一望することができた。
ローズは一本の大樹の下に体を預けていた。
そこからは遠くにそびえる巨大な城壁と塔の影が見えた。追い出された以上、一刻も早くこの地を去るべきであったが、なぜか彼女の足はここから動かずにいた。
ローズは静かに目を閉じた。意識が再びあの謁見の間へと引き戻される。
『お前を解放する……行け。自由だ』
彼女は芝生に指を深々と食い込ませた。そんなことは考えたくなかった。吉田の顔も、追い出される直前に見た彼の瞳に浮かんでいた小さな涙の痕も、思い出したくなどなかった。
傍らでは、ケンが薪を割っていた。
『コーン!』
斧が薪を一直線に断ち切る。
『コーン!』
ローズは動かずにいたが、やがて遠くから聞こえる叫び声に気づき、ハッと目を開けた。
「何……?」
ゆっくりと起き上がると、ケンの叫ぶ声が耳に届いた。
「ローズッ!」
彼女は跳ね起きるように立ち上がった。丘の上から見下ろすと、街道を巨大な群衆が進軍してくるのが見えた。正規の兵士ではない。魔族の群れだ。
その数、数百。
使い古された剣を掲げる者、斧や槍、あるいは農具を武器として握りしめる者。まともな鎧すらなく、簡素な革あてを身につけただけの無頼の徒。
彼らは北へ向かって――まっすぐに首都を目指して進んでいた。
ローズの表情が凍りついた。
「首都に向かってる……」
考えるより先に身体が動いていた。彼女は剣の柄を握り締めると、丘の斜面を駆け下り始めた。
「ローズッ!」
ケンが斧を放り投げた。
「待てッ!」
彼女は振り返りもしない。
「ローズ、くそッ!」
ケンは自らの長槍を掴むと、彼女を追って全力で足を速めた。
街道を進む叛乱軍の群れとの距離が詰まっていく。
ローズは剣の柄を力任せに握りしめた。どんな群れであろうと、指をくわえて見過ごすことなどできるはずもない。
たとえ吉田に城を追われようと、もはや近衛騎士ではなく、この帝国を去るべき運命であったとしても――自分は今もなお、『騎士』なのだから。
今後の展開を練るために数日お休みをもらってました!……ふふふ、おかげで章(話)のストックは山ほど溜まりましたよwww




