第102話:ベイカー家の少女
ワーウィック王国の首都郊外。
都会の喧騒や貴族たちが集う大広場から遠く離れた場所に、その威容を誇る屋敷は佇んでいた。
広大な敷地は手入れの行き届いた見事な庭園に囲まれ、石畳の小道に沿って咲き誇る色とりどりの花々と、大理石の噴水から絶え間なく湧き出る清らかな水が涼やかな音を立てている。一見すると、王国で最も恐れられる一族の邸宅とは思えないほど、過剰なまでの平穏に満ちた場所だった。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
「死ねぇっ!」
薔薇の植え込みの間から、幼い声が響いた。
眩いばかりの金糸の髪と深紅の瞳を持つ小さな少女が、花々の間を楽しそうに駆け回っていた。上流階級の貴族にふさわしい仕立ての良いドレスを身に纏っているものの、いまの彼女は作法を守ることよりも蝶を捕まえることに夢中だった。
手にした細い木切れを振るい、逃げようと羽ばたく一羽の蝶に的確な一撃を見舞う。
「ふふん! 捕まえた!」
花びらの間に落ちた獲物を見下ろし、少女は声を弾ませた。
そこへ一人の侍女が小道を駆けつけ、その光景を目にして心底恐ろしそうに悲鳴を上げた。
「エイミー様! それは貴婦人としてあるまじき振る舞いですわ! 庭の蝶を殺してはならないと、何度申し上げたらわかるのですか!?」
エイミーは子供らしくぷくっと頬を膨らませた。
「だって、ただ遊んでただけだもん……」
「言い訳になりません! お嬢様たるもの、常に気品と淑やかさをもって行動なさるべきです!」
エイミーは視線を落とし、退屈そうに長いため息をついた。
「つまんないの……」
侍女が説教を続けようとしたその時、石畳を叩く静かな足音がその場を制した。
『コツ……コツ……コツ……』
落ち着いた歩調ではあったが、身に纏う圧倒的な覇気が、通り道の空気を一瞬で凍りつかせる。
白銀の髪をなびかせ、隙のない黒の夜会服に包まれた鋭い躯体で、庭園を進んできた。無表情で厳格なその顔立ちは、周囲のあらゆる喜びを一瞬で消し去ってしまうかのようだった。
ジェイソン・ベイカー――ワーウィック王国において最も恐れられる男の一人。数々の血の海の中でその名を馳せ、必要とあらば我が子すら犠牲にすることを厭わないという陰惨な噂が絶えない処刑人であった。
しかし、この小さな少女にとって、そんな恐ろしい都市伝説は何の価値も持たなかった。
「おじいちゃん!」
エイミーの瞳がパッと輝いた。
少女は全身全霊で駆け出すと、ジェイソンの脚に勢いよくしがみついた。
ジェイソンは足を止め、しばしの間微動だにしなかった。その顔は相変わらず冷徹な仮面のようだったが、少女を払い落とそうとする気配すらなかった。
「おじいちゃん、おかえりなさい!」
「ああ」
「どこ行ってたの?」
「仕事だ」
「たくさん?」
「ああ」
エイミーは顔を見上げ、満面の笑みを向けた。直後、自分の手が泥だらけだったことを思い出すと、ジェイソンの高価な上着の背中で無造作に手を拭った。
その光景を見た侍女は、恐怖のあまり失神しかけた。
ジェイソンは自分の服を飾る泥の汚れにちらりと視線を落としたが、一言の咎めも口にしなかった。テンポを崩すことなく、エイミーは彼の手を力強く握ると、小道へと引っぱっていった。
「行こう、おじいちゃん!」
ジェイソンは黙ってその手に引かれた。進みながら、少女はくるくると彼の周囲を跳ね回りながら、途切れることなく喋り続けた。
「おじいちゃん、ひとつ聞いてもいい?」
「すでに聞いている」
「えへへ……そうだった」少女はもう一周回ってから彼の隣に並び、楽しそうに笑った。「でも、ずっと気になってたんだもん」
「何がだ?」
エイミーは大きな赤い瞳でじっと彼を見つめた。
「わたしのお母さんって、だれ?」
ジェイソンはほんの一瞬だけ沈黙した。その表情には何の感情も浮かばなかったが、穏やかに答えた。
「時が来ればわかる」
「いつ?」
「しかるべき時が来たらだ」
「いつもおんなじお返事! おじいちゃん、すっごくつまんない!」エイミーは可笑しそうに口を尖らせて不満を露わにした。
「知っている」
少女は声をあげて笑い、二人はそのまま緑の庭園を進んでいった。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「ローズ様っておじいちゃんのお子さんって本当?」
「そうだ」ジェイソンは歩みを緩めることなく頷いた。
エイミーは驚きで口を大きく開けた。
「じゃあ、ローズ様もおじいちゃん達みたいに赤い目をしてるの?」
「そうだ」
「それで、すっごく強いの?」
ジェイソンはわずかに間を置いた。その赤い瞳の奥に、誰にも気づかれないほどかすかな誇りの色が過ったが、少女が気づく前に消失した。
「非常に強靭だ」
「すごい! じゃあ今すぐ会ってみたいな!」
「いずれな」
エイミーは再び声を弾ませたが、近づいてくる重々しい足音にその場の和やかな空気は一変した。
ベイカー家の老執事が、儀礼用の鎧を身に纏い長剣を腰に差した騎士を伴い、急ぎ足で近づいてきたのだった。
ジェイソンはわずかに眉をひそめ、孫娘にじっと視線を送った。エイミーはその意図を即座に察知した。
「あ……」
咎められることもなく、少女は手を離すと数メートル先へ走り去り、薔薇の花壇の間で鼻歌を口ずさみながら一人遊びを始めた。
執事は深く頭を下げた。
「ベイカー卿」
「何事だ」ジェイソンは背筋を伸ばしたまま問うた。
「ご面会の方をお連れいたしました。モリソン家が誇る、王国第一軍司令官、ルドグウィン卿にございます」
現れた騎士は高慢な態度で一歩前へ出た。ジェイソンは噴水の傍らにある鉄製の椅子へと静かに歩み寄ると、重々しく腰を下ろし、隣の席を手で示した。
「掛けたまえ」
ルドグウィンは微動だにしなかった。それどころか、剣の柄に手を置きながら、あからさまな軽蔑の色を浮かべて顔を歪めた。
「あいにく、ベイカー卿。私は裏切り者と同じ席につく習慣がなくてね」
執事は憤怒を噛み殺して唇を噛み締め、ジェイソンは特に驚く様子もなく静かに息を吐いた。
ワーウィック王国において、家名の名誉は神聖不可侵なものであった。一族の過ちは政治的な戦争を引き起こし、継承者の不名誉は幾世代にもわたって家名を汚す。
そして現在、ベイカー家はその代償を余りあるほど支払わされていた。
正統なる継承者、ロゼット・ベイカーは五人の魔導王の命令に背き、自らの任務を放棄したことで『裏切り者』の烙印を押されていた。
貴族たちにとって、それはミレイヤの戦いで散っていった何百万もの兵士たちの犠牲に唾を吐きかける行為と同義だった。
さらに悪いことに、首都での壊滅的な惨劇の後、彼女はワーウィックを滅亡の危機に追い込んでいる魔王その人と共に逃亡したのだ。
上流階級における結論は明白だった。――ベイカー家は潰されるべきである、と。
ルドグウィンは赤い蝋で封印された羊皮紙を取り出した。
「モリソン家の署名が入った勅令を携えてきた」
ジェイソンはその紋章に冷ややかな目をやった。
「ベイカー家に属するすべての邸宅、領地、ならびに財産の即時没収を決定する」
執事は無力感に頭を垂れたが、ジェイソンは椅子に腰掛けたまま微動だにしなかった。
「私はすでに我が一族の領地の大部分を譲渡している。これまで差し出してきたもので、まだ不足だというのか?」
ルドグウィンは冷ややかな笑みを浮かべ、首を振った。
「甘いな、ベイカー卿。我々が求めているのは財産だけではない。貴殿の旗印に忠誠を誓ったすべての騎士、ならびに兵士の即時投降と引き渡しを要求する」
ジェイソンは危険な光を宿して目を細めた。
「何の目的でだ?」
「国家叛逆の罪として、公開処刑に処すためだ」
重苦しい静寂が庭園に落ちた。噴水のせせらぎすら消え去ったかのようだった。ジェイソンはその企みを完璧に理解した。これは損害賠償などではない。我が一族の完全な『根絶』だ。
兵を失い、領地を失い、王国から孤立させられれば、ベイカーの名は数年と経たずに歴史の露と消える。格好の粛清であり、彼をこのような陰謀に引きずり込もうとしたのは、これが初めてではなかった。
ジェイソンはゆっくりと顔を上げた。
「私をそのように挑発しようとした者は、ルドグウィン卿、お前が初めてではないぞ」
従順さの欠片も見せない態度に、ルドグウィンは歯を食いしばった。ジェイソンは羊皮紙を受け取り、一瞬だけ目を通すと、それをティーテーブルの上に無造作に放り投げた。
「要求された財産の譲渡には応じよう。だが、我が家に忠誠を誓った者の命は、一人たりとも渡す気はない」
その一言が、司令官の理性を断ち切った。
『シュインッ!』
音を立てて鞘から放たれた白刃が、電光石火の軌道を描いてジェイソンの喉元へと一直線に閃いた。
「ベイカー卿!」
執事は悲鳴を上げ、狼狽えて後退した。
「者たち!」
だが護衛たちが動くより早く、鋭利な鋼の刃は首皮一枚のところでピタリと停止した。
ジェイソンはピクリとも動かず、冷徹そのものの眼差しで刃を見つめていた。
ルドグウィンは忌々しそうに奥歯を噛み締め、剣に力を込めた。
「貴様の忌々しい一族はワーウィックの面汚しだ! ロゼット・ベイカーは我が軍の犠牲を踏みにじり、今や魔王の情婦として媚びを売る汚らわしい雌犬に成り下がったのだからな!」
数メートル離れた場所で、エイミーが口ずさんでいた小さな鼻歌がピタリと止まった。少女はゆっくりと顔を上げ、赤い瞳を騎士の背中に向けた。
「あの落ちこぼれめ、前線のドブネズミどもと共に野垂れ死んでいればよかったのだ!」
ルドグウィンの咆哮が続く。
エイミーの愛らしい表情が消え去った。
そこには怒りも、子供らしい癇癪の欠片もなかった。彼女の顔から、人間らしい感情のすべてが削ぎ落とされていた。
小さな拳を固く握り締め、両手をその光景へと向けた。
ジェイソンの目が大きく見開かれた。
「くっ……!」
少女は一切動じることなく、赤い視線をルドグウィンの首筋に固定していた。
不可視の衝撃が、現実を切り裂いた。火花もなく、予兆もなく、魔法の詠唱すらない――
『ドカァァァァンッ!!』
ジェイソンは超人的な速度で地を蹴った。
残像を残して椅子から消失し、間一髪でその射線上に割り込んだのだ。
「ぐっ……!」
ジェイソンは歯を食いしばり、必死でその攻撃の軌道を横へと逸らした。
剥き出しの狂暴なエネルギー波が、屋敷の西棟へと向かって一直線に吹き荒れた。
『ズガガガガガァァンッ!!』
石造りの建築物が爆音と共に粉砕された。
何トンもの瓦礫と砂塵が舞い上がり、庭園全体が深い煙に包まれる。執事は芝生の上を転がり、護衛たちはその衝撃で腰を抜かしていた。
全身を震わせながらその場に立ち尽くすルドグウィンは、ジェイソンから目を逸らすことができなかった。
あの恐るべきジェイソン・ベイカーが、化け物じみた一撃を受け止めたことで、自らも衝撃の一部を直接食らっていたのだ。
「ベイカー卿……」
司令官は息を呑み、怯えながら一歩後退した。
その時、背後にひそむ小さな影から、戦士のものとは異質な息の詰まる圧迫感が放たれていることに気づいた。
ルドグウィンはゆっくりと首を巡らせた。
エイミーは先ほどと同じ場所に立ち続けていた。その深紅の瞳には、幼子らしい無垢さなど微塵も残されていなかった。そこにいたのはもはや少女ではない。氷のように冷たく、逃げ場のない純粋な『殺意』そのものだった。
司令官は息をすることすら忘れていた。
「な……んだ……!?」




