第100話:別れ
魔王親衛隊が設立されてから、数週間が経過していた。
最初は思いつきの戯れに思えた組織も、いまや真のエリート部隊へと変貌を遂げつつあった。ローズが勧誘した兵士たちは夜明けから夜遅くまで猛訓練に励み、なかには強制的に入隊させられた者も多かったが、次第に一つの結束した部隊として機能し始めていた。
だが、何ひとつ改善しない関係があった。ローズは依然として、吉田と口をきこうとしないのだ。
廊下ですれ違うたび、彼女は背筋をピンと伸ばし、まるで彼が存在しないかのように視線を前方へ固定した。吉田が歩み寄ろうとすれば何かと理由をつけてはその場を立ち去り、定例会議の場ですら必要最低限の言葉しか口にしなかった。
吉田は、この絶望的な距離感に疲弊しきっていた。
その日の朝、玉座に腰掛けた吉田は、腰に差した『光の剣』を数秒間見つめたのち、手にしたもう一振りの武器――『地獄の剣』へと視線を落とした。
決断の時は、来ていた。
「デルガド」
数メートル離れた場所に控えていた魔族の王子が、即座に深く頭を下げた。
「はい、陛下」
「ローズを呼んでくれ」
デルガドは理由を尋ねなかった。
「ただちに」
「それと、もう一つ頼みがある」吉田は顔を上げ、彼を直視した。「お前自身の手で、ケン・アラタカを連れてきてくれ」
デルガドは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐさま敬意を込めて一礼した。
「御意のままに、陛下」
重厚な足音が広大な謁見の間に響き渡り、やがて去っていく。吉田は一人取り残された。
魔王の座に就いて以来初めて、吉田は自分の立場に不釣り合いな学ランを脱ぎ捨てていた。いま身に纏っているのは、彼のために特別に仕立てられた、濃い漆黒と褐色の竜革の衣装だ。思っていたよりもずっとシンプルな仕立てだったが、驚くほど体に馴染んでいた。
吉田は玉座に深く腰掛け直し、静かに天井を見上げた。巨大な石柱、壁面を彩る荘厳な装飾、そして王都を一望できる巨大な窓。
十五分ほどが経過した頃、広間の巨大な扉が重々しい音を立てて開かれ始めた。
『ゴゴゴゴゴ……!』
ローズが入ってきた。
肩に垂れる黒髪、そしてここ数週間ですっかり定着した冷ややかな赤い瞳。彼女は親衛隊の黒い鎧を身に纏い、腰に一本のありふれた剣を差していた。
彼女は玉座の前まで歩みを進めると、一礼すらせずに立ち止まった。
「お呼びでしょうか」氷のように冷たい声だった。「用件なら手短にお願いします……時間がないのです」
胸に突き刺さるような痛みを覚えながらも、吉田はすぐには答えなかった。
微動だにせず佇むローズに対し、吉田は玉座から立ち上がると、『地獄の剣』をその手に抱えて歩み寄った。そして彼女の目の前で、静かにその武器を差し出した。
「受け取れ」
ローズは剣を見下ろし、数秒間、状況を理解できずに固まった。
「え……?」
吉田はその手に直接剣を押し付けると、振り返って玉座へと戻り、再び腰掛けた。
ローズはそこに立ち尽くし、明らかに困惑していた。
「ロゼット・ベイカー」
その名を呼ばれ、彼女の表情が微かに引きつった。
「お前に多くの苦痛を与えてしまったことを、心から申し訳なく思っている。辛い思いをさせてすまなかった」
ローズは眉をひそめた。それは彼女がここ数週間、ずっと待ち望んでいたはずの謝罪だった。
しかし、彼女が言葉を返す前に、吉田は淡々と続けた。
「只今をもって、お前を親衛隊の職務および誓約から解放する」
ローズの瞳が大きく見開かれた。
「な……っ!?」
「自由だ」その言葉は、誰も想像し得ないほどの重みを伴って吉田の口から絞り出された。「もう俺に縛られる必要はない。……どこへでも行くがいい」
ローズは完全に凍りついた。
「ちょっと……待ちなさいよ……」
「――者ども!」
側面の扉が勢いよく開かれ、十名の兵士たちが雪崩れ込んできた。吉田が事前に手配していた手はずだった。
ローズが形勢を把握する間もなく、数人の兵士が拘束しようと一斉に飛びかかる。だが――相手が悪すぎた。
「離しなさいッ!」
ローズは瞬時に身を翻すと、一人の兵士の腕を支点にして跳躍した。
『バシィッ!』
顔面に叩き込まれた直撃で、兵士が倒れ込む。
別の兵士が背後から組み付こうとするが、ローズはしなやかに身を屈めてやり過ごすと、相手の脚を掴み、自らの体重をかけて他の二人を巻き込みながら豪快に倒し込んだ。
『ガシャンッ!』
重厚な鎧のぶつかり合う音が響き渡る。
「親衛隊長、お辞めくださいッ!」
「愚か者どもがッ!」
ローズはさらに一人の兵士の鎧を掴むと、力任せに投げ飛ばした。『ドカァン!』
残りの兵士たちが彼女を囲い込んだ頃には、すでに五人の猛者が床に転がっていた。
吉田は玉座に座ったまま、すべてが思い描いた通りに進行していく様を見つめていた。ローズが自分の親衛隊員を圧倒し尽くしているという、些細な誤算を除いては。
「あんた……ッ!」
ローズの声が、怒りと困惑で激しく震えていた。
その時、騒ぎを聞きつけたデルガドとケンが広間へと足を踏み入れ、目の前の惨状に目を見張った。
「こういう結末を望んでいたわけじゃないんだろ?」吉田は穏やかな表情を崩さぬまま、静かに告げた。「行きなさい……お前は自由だ」
ローズの瞳が、激しい憤怒と痛みに揺れた。
次の瞬間、彼女は剣の柄を固く握りしめた。
「――吉田ぁぁぁッ!!」
直線的に突進してくるローズの姿に、吉田は思わず目を見張った。
「ケンッ!」
直後、黄金の閃光が広間をまっすぐに切り裂いた。
『ガキィィィンッ!!』
二人の間に突き出されたケン・アラタカの長槍が、激しい衝撃波を生み出し、石造りの床を揺らした。
一歩後退したローズは、間髪入れずに再び斬りかかる。だがケンは素早く柄を返し、その一撃を完璧に受け止めた。
『ガァンッ!』
続いて二撃目。
『ガキィンッ!』
さらに三撃目。
『ドガァンッ!』
一打ごとに、巨大な謁見の間が鳴動する。ケンは一切の攻撃を行わず、ただ愚直に彼女の剣を受け流し続けていた。
「もうやめろ、ローズ!」
「どきなさいッ!」
「嫌だね」
ローズは死に物狂いで防陣を破ろうとしたが、ケンはその刃を巧みに側方へと受け流した。
「もう終わりだ、ローズ。……行くぞ」
ローズは悔しさに歯をぎりぎりと噛み締めた。
「邪魔しないでッ!」
ケンが沈黙を守るなか、玉座から吉田の声が再び響いた。
「お前との思い出まで、嫌な形にしたくないんだ。だから……これ以上、俺を恨むような真似はさせないでくれ」
その一言が、ローズからすべての力を奪い去った。
ケンはその刹那の隙を見逃さず、彼女の片腕を拘束した。すかさず滑り込んできたデルガドが、もう片方の腕をがっちりと押さえ込む。
「放しなさいッ!」ローズは狂おしく暴れ回り始めた。「吉田ッ! 吉田、待ちなさいよッ!!」
その叫びは、どんな名剣よりも深く吉田の胸を抉った。しかし、彼は玉座に腰掛けたまま、微動だにしなかった。
ケンとデルガドは、抵抗を続ける彼女を力ずくで謁見の間から連れ出し始めた。
「放しなさいッ! 私にはまだ……っ!」
巨大な両開きの扉が、ゆっくりと閉まり始める。
完全に視界が閉ざされる直前、ローズが振り向いた。吉田はその顔をはっきりと捉えた――そこに怒りはなく、ただ一筋の澄んだ涙が、彼女の頬を静かに伝っていた。
『バタンッ!』
扉が完全に閉ざされ、謁見の間には死のような静寂が訪れた。吉田は身動きひとつせず、ただ玉座に座り続けていた。
「デルガド……」
その声は掠れた囁きに過ぎなかったが、王子はすでに先ほどの指示の意図を理解していた。
「……言われた通りに手配いたします」
城の外では、ケンとデルガドがローズを連れて郊外へと向かっていた。
近くの丘には巨大な竜が待ち受けており、彼らを魔神国南部へと送り届ける手はずが整っていた。そこからローズとケンは船に乗り込み、ヘッセンへと向かう手はずになっている。
それこそが吉田の立てた計画であり、ケンもまた事前にその協力を承諾していたのだった。
道中、ローズはなおも二人から逃れようと抵抗を続けていた。
「行きたくない……行きたくないわッ!」
デルガドは表情を変えずに告げた。
「陛下の御命令にございます」
「わかってるわよッ!」
ローズは悔しさに拳を固く握りしめた。だが、もう引き返すことはできなかった。
一方、遥か遠く離れた玉座の間――
吉田はゆっくりと席を立ち、巨大な窓辺へと歩み寄ると、街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始める王都の夜景を見つめていた。
胸の奥が、ぽっかりと空洞になったかのように虚しかった。
ここ数週間、彼はローズに嫌われているのだと思い込んでいた。
近づこうとすれば無視され、会話は途切れ、その視線はいつだって自分から遠ざかりたがっているように見えた。
だからこそ、吉田はある結論に達したのだ。――ローズが親衛隊を設立したのは、彼女自身がこの国を去る準備のためであり、残される俺を守るために兵士たちを鍛えてくれていたのではないか、と。
そして……もしかすると、吉田自身もまた、彼女に対して特別な感情を抱き始めていたのかもしれなかった。
それこそが、彼にとって何よりも恐ろしいことだった。だからこそ、傷が浅いうちに、自らの手でこの関係を絶ち切ることを選んだのだ。
吉田は窓ガラスにそっと手を当てた。一筋の涙が、静かに頬を伝っていく。
「……バカみたいだな、俺」




