第9話:最後の平穏な日
【ローズ視点】
結局、一睡もできなかった。
気づかないうちに夜は明け、世界は白み始めていた。目を閉じるたびに、あの夜の光景が鮮明によみがえる。廊下の淡い光、リュウジン先生たちの視線、あの重苦しい沈黙……そして、茹で上がったように真っ赤になった吉田の顔。
それ以上に――自分自身の不可解な反応が、頭から離れない。
私は教室の机に額を押しつけ、腕の中に顔を埋めた。
(どうして、まだあんなことを考えている……?)
おかしい。私はこれまで、幾多の死体の山を踏み越えてきたはずだ。血に濡れた剣を握っても、手が震えたことなど一度もない。なのに――ただの、あんな他愛もない出来事で、一晩中眠れなくなるなんて。
教室は、朝の柔らかな光に満たされていた。窓から差し込む金色の陽光が、宙に舞う埃を静かに照らし出している。生徒たちの喧騒が、絶えず鼓膜を揺らす。笑い声、鞄の擦れる音、椅子を引く無機質な音。
普通の一日。平和で、安全で――あまりにも安全すぎる。
この世界のあまりの静けさに、私はまだ、魂が馴染まないのを感じていた。
「寝てるのかな……?」
「なんか、すごく綺麗……」
「お姫様みたい……」
遠くで誰かの声がする。水底から響いてくるように、ぼんやりと。
目を開ける気力もなかった。瞼が鉛のように重い。まるで、全身に不可視の鎧を纏っているかのようだ。窓が開く音がして、涼しい風がゆっくりと教室に流れ込み、私の髪を揺らした。
何もかもが、穏やかだった。危険の欠片など、どこにもないように見えた。
――その時だった。
吉田の席の近くで、不快な笑い声が聞こえてきた。それは、これまでの穏やかな空気を切り裂くような、卑劣な響きを孕んでいた。
「なあ、吉田……あんな子と一緒にいるって、どんな気分だ?」
「どうせ同情だろ?」
「恥ずかしくないのかよ、お前」
目は開けない。だが、伏せた腕の中で指先がわずかに熱を帯びる。その声は――鋭い毒を塗った針のように、私の神経を逆撫した。
「ほら、答えろよ」
「……それとも、今は喋ることもできねえのか?」
沈黙。
その静寂を、私は知っている。決定的な戦いの直前に訪れる、あの張り詰めた空気だ。
見なくとも分かった。吉田は動かない。避けることも、反撃することもできず、ただ無慈悲な言葉の暴力に晒されている。
苛立ちが、胸の奥で燻り始める。さっきまであんなに軽かった空気が、急激に密度を増していく。
――その瞬間。教室の扉が、勢いよく開かれた。
「はい、席につけ」
教師の声が、戦の開始を告げる鐘のように響き渡った。
ざわめきが一瞬で私を現実に引き戻し、足音がそれぞれの席へと散っていく。何事もなかったかのように、偽りの日常が戻る。
そして――私は、まだ寝たふりを続けていた。
「ローズさん」
「……」
「ローズさん」
机を軽く叩く音に、私ははっと目を開けた。
教室中の視線が、一斉に私に集まっている。差し込む光が、やけに眩しい。
教師が、短くため息をついた。
「正式な生徒ではないのは分かっているが、教室にいる以上は節度を守りなさい。ここで寝るのは感心しないな」
戦士としてのプライドが、一気に悲鳴を上げる。頬が猛烈に熱くなるのを感じた。
「あ、あの……す、すみません……」
慌てて立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。
「もう……しない」
好奇の視線を背中に浴びながら、私は耐えきれず教室を飛び出した。
廊下は静まり返っていた。他の教室から、講義を行うかすかな声が聞こえてくるだけだ。
(……はずかしい)
深く息を吐き出す。私らしくない。
階段を上り、いつもの屋上へと出た。吸い込まれるような青空が広がっている。風が私の髪を乱暴に揺らした。冷たい金属の柵に手をかけ、肺の奥まで空気を吸い込む。
任務は変わらない。魔王を倒すこと。元の世界に戻ること Light Novel Project. それだけだ。
それなのに――。
花火の下で見た、吉田のあの笑顔が浮かぶ。謝っていた時の掠れた声。「もう時間がない」という言葉を聞いた時の、あの胸を抉られるような感覚。
私は眉をひそめた。
(……危ない)
戦場において、感情は致命的な隙になる。隙は、死へと直結する。なのに――どうして、私は彼から離れることができない?
目を閉じる。初めての経験だった。敵が目の前ではなく、自分の中に潜んでいるなんて。
◆
――その頃、教室では。
チョークが黒板を擦る音が、乾いたリズムで耳に突き刺さる。
吉田は必死に授業の内容を追おうとしていた。だが、文字は歪み、ぼやけて、意味を成さない。空気が重く、胸が締め付けられるように痛む。
(……またか)
嫌な耳鳴りが広がり始める。呼吸を整えようと必死に抗う。
(今は……だめだ……ここで……だけは……)
視界の端が、泥のように暗くなっていく。無意識に、動かないはずの手を動かそうとした。これまで何度も繰り返してきた、絶望を確認するだけの無意味な足掻き。
――だが。
指先が、微かに震えた。
ほんのわずか。世界が気づかないほど、砂粒が落ちる程度の小さな動き。
目を見開く。もう一度、祈るように力を込める。
指が、動いた。ぎこちなく、弱々しく。それでも――確かに。
何かが、動いたのだ。止まっていたはずの運命の歯車が。
心臓が、早鐘を打ち鳴らし始める。
(……嘘だろ)
耳鳴りが増幅していく。床が大きく傾いたように感じられ、教師の声が遠い彼方へと遠ざかる。
「吉田!」
椅子が激しく倒れる音が、教室の静寂を撃ち抜いた。
穏やかなはずの一日が、音を立てて崩れ去る。
――闇。
◆
保健室の扉を開けた瞬間、ツンとした消毒液の匂いが鼻を刺した。
私は走っていた。どうして走っていたのか、自分でもよく覚えていない。ただ、何かが壊れたということだけは、本能的に理解していた。
吉田はベッドに横たわっていた。顔色は死人のように青白く、その身体には数本の管と機械が繋がれている。
ピッ……ピッ……ピッ……。
規則的で、安定した電子音。
まるで、何も起こらなかったかのように冷徹に響くその音を聞き、彼が息をしているのを確認して、ようやく胸の奥に安堵が広がった。
――その時、気づいた。
この部屋には、私以外にもう一人いた。窓辺に、静かな影が立っている。
黒い髪。静謐な佇まい。ノゾミだ。
彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳は、凪いだ海のように穏やかだった。あまりにも、この状況にそぐわないほどに。
「早かったわね」
ふふふ……と、彼女はわずかに、喉を鳴らすように笑った。
私はすぐには答えなかった。何かが――この一日と噛み合っていない。すべてが普通で、普通すぎたのだ。
「……見に、来た」
ノゾミは首をわずかに傾ける。まるで、盤上の駒を冷徹に観察する指し手のように。
「あなた、面白いわね。ローズ」
声は柔らかいが、そこには一切の温もりがない。
「気をつけて」
彼女は淡々と続けた。
「誰かに近づきすぎると……眠っているものを目覚めさせてしまうことがあるのよ」
背筋に、氷を押し当てられたような寒気が走った。
「……意味、わからない」
彼女は、ただかすかに微笑むだけだった。
「今は、ね」
ノゾミは私の横を静かに通り過ぎていく。彼女が通った後の空気が、冷たく凍りついたように感じた。
「それと……七夕」
扉の前で、彼女は振り返らずに告げた。
「綺麗だったでしょう?」
扉が閉まる音と共に、再び静寂が戻る。
私はベッドの上の、彼の手に視線を落とした。
今は動かない。いつもと同じ、動かない手。
だが――私は知っている。
動いたのだ。指だけではない。もっと別の、根源的な何かが。
しばらくして、リュウジン先生とキヨミさんが駆け込んできた。二人の表情には、隠しきれない焦燥と恐怖が混じり合っている。私は今の状況を、短く、簡潔に伝えた。
やがて、吉田がゆっくりと瞼を持ち上げた。
その焦点の定まらない視線が、真っ直ぐに私へと向けられる。
――驚いた。
今日は、ただの「普通の一日」のはずだった。
だが、私は理解してしまった。
静けさというものは――時に、すべてが致命的に変わる直前の、最後の溜息なのだと。




