第9話:警告
【ローズ視点】
一つ。
二つ。
三つ。
木剣の重みが、何度も腕を打ち据える。
振るうたびに軌道がぶれ、呼吸が乱れた。空気はうまく入ってこない。まるで、この体が私を拒んでいるかのようだった。額から流れた汗が、庭の冷たい地面へと落ち、不規則なリズムを刻んでいく。
私の世界では、マナは意志に応えてくれた。だがここには――何もない。
静寂だけが、そこにあった。
体は重く、鈍く、どこか欠けているように感じる。まるで自分のものではない鎧を無理やり着せられているかのようだ。
もう一度、木剣を振り上げる。かつて無意識にできていた動きを思い出そうとしながら、強引に体に叩き込む。
そのとき――
カン……
乾いた金属音が、静かな朝に響いた。不意に鳴るそれは、まるで見えない戦の始まりを告げる鐘のようだった。
顔を上げると、空はまだ白み始めたばかりだった。廊下の向こうを、リュウジン先生が駆け抜けていく。着替えもしていないまま、焦燥に満ちた表情で。後ろにはキヨミさん。髪は乱れ、隠しきれない恐怖がその足取りに表れていた。
考えるより先に、体が動いた。私は二人の後を追う。
廊下はやけに狭く感じられ、空気は重く淀んでいた。まるで、待ち伏せの直前のような張り詰めた気配。部屋に辿り着くと、扉はすでに開いていた。
そして――見た。血。白いシーツを、赤く染めていた。
ヨシダは激しく咳き込み、動かない体のまま、口から血をこぼしていた。声は出ない。ただ、壊れた鎧に押し潰された兵士のように、必死に呼吸を求めてもがいている。
リュウジン先生は彼を抱え、必死に声をかける。キヨミさんは見たこともない道具と薬を手に取り、迷いなく、しかし焦るように動いていた。
そのすべてが、あまりにも速く――そして私は、動けなかった。
足が床に縫い付けられたように、前にも後ろにも進めない。ただ、見ていることしかできなかった。
戦場では、常にやるべきことがあった。命令があり、敵がいた。だがここには、それがない。ただ、見ているだけだった。
やがてすべてが終わり、ヨシダは深い眠りに落ちた。荒れていた呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
だが、その後に訪れた静寂は――どんな叫びよりも重かった。
シーン……
それでも――今日は、また教室にいる。まるで昨日のことなど、何もなかったかのように。
教室にはざわめきが満ち、窓から差し込む光が机を照らしていた。ヨシダは笑っている。近づいてくる生徒たちと会話を交わし、何事もないかのように振る舞っていた。
誰も、昨日を知らない。
誰も、昨日を知らない。
誰も、あの瞬間を見ていない。
あの少年が、どれほど死に近かったかも――。
私は机に頬を預けたまま、無意識に彼を見つめていた。前髪が目にかかり、乾いた唇はわずかにひび割れている。肌はまだ青白く、陽の光を受けて透けるようだった。
どこか、物悲しい。名前のつけられない何かが、そこにあった。
(どうして――どうして、笑う?)
昨日、お前は死にかけていた。それなのに、どうしてここに来る?
視線が長く留まる。単なる興味ではなかった。もっと別の――説明できない何か。やがて、ざわめきが別の話題へと移る。
七夕。
生徒たちは屋台や遊び、花火の話で盛り上がっていた。声が重なり合い、途切れない雑音となって耳に残る。よくは分からない。だが、彼らにとって大切な祭りらしい。
そのとき――あの男が現れた。以前、ヨシダに手を上げた男。自信に満ちた笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってくる。
「おい、ローズ。一緒に祭り行かねえ?」
一瞬、教室が静まり返る。机の下で、無意識に拳に力が入った。あのときの光景がよみがえる。床に倒れたヨシダ。動けない体。どうにもならない現実。一瞬、殴り返す姿が頭に浮かんだ。
だが――抑えた。ただ、見つめる。それだけで十分だった。
男は気まずそうに笑い、後ずさるように離れていく。その後も、何人かが近づいてきた。男子も、女子も。誘いの言葉、よく分からない笑顔。
全部、断った。ここは私の世界ではない。私の居場所でもない。
ふと、気づく。ヨシダが、誰かに話しかけようとしていた。唇がわずかに動く。だが、言葉は出ない。会話はそのまま続き、彼の存在など最初からなかったかのように流れていく。
やがて笑顔が消え、静かな表情に変わる。諦めたような――最初から結果を知っていたかのような顔。
私はそれを見て、理解した。行きたいのだ。だが、自分には無理だと決めている。
そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。教師が入ってくる。楽しげに七夕の話をし、自分も家族と行くのだと笑っていた。教室は一気に明るい空気に包まれる。
誰もが、誰かと行く。――彼を除いて。
なぜか、それが妙に腹立たしかった。教師の話は続くが、内容はほとんど頭に入らない。日付、名前、説明。どれも私には意味を持たない。
私は学びに来たのではない。観察するために、ここにいる。
最初から、教師もそれを理解していた。私は正式な生徒ではない。ただヨシダに付き添っているだけだ。何も強制されない。ただ静かにしていればいい。
だから――見ていた。生徒たちを。窓の外を。そして――ほとんどの場合、彼を。
話が長くなった頃、私は静かに席を立った。教師は軽く頷くだけで、何も言わない。廊下の空気は、少し軽かった。
当てもなく歩き、階段の先にある金属の扉を見つける。開けた瞬間、冷たい風が頬を打った。
屋上。
空は広く、街の上に広がっている。世界の音が、少し遠くなった気がした。手すりに手を置き、風に残った汗を乾かす。
この世界は――奇妙だ。平和で、静かで。静かすぎる。
私の世界では、静寂は戦の前触れだった。だがここでは、それが当たり前らしい。
「少し、逃げに来たのかしら」
声が、いつの間にかそこにあった。振り向く。一人の少女が、扉の近くに立っている。入ってきた気配はなかった。最初からそこにいたかのように、自然に。
穏やかな笑み。だが、その目は――こちらを見過ぎている。
「授業って、つまらないものよね。特に、何も分からないと……異邦人なら、なおさら」
わずかに眉をひそめる。なぜか、不快だった。脅威ではない。ただ――違和感。言葉以上の何かを知っているような、そんな感覚。
少女は私の隣に立ち、空を見上げた。
「今日は七夕の話ばかりね。食べ物、遊び、花火……単純だけど、大切なもの。人はそういう時間を、特別な誰かと分け合いたがるものよ」
私は何も言わない。彼女も、答えを求めていなかった。
「それと……忠告を一つ」
軽い調子で続ける。
「ノゾミって子がいるでしょう? あまり深入りしないほうがいいわ。悪い子ではないけれど……他人を自分の問題に巻き込む癖があるの」
優しさのようで、どこか距離のある言い方だった。風が、彼女の髪を揺らす。
「ヨシダは、たぶん行きたいのよ」
ぽつりと、独り言のように言った。
「でも、あの子は……頼むのが下手だから」
私は目を見開く。次に見たとき、彼女はすでに扉へ向かっていた。
「祭りはね、誰かに誘われるほうが楽しいものよ。特に――もう諦めてしまった人には」
そう言い残し、出ていく。誰だ……あいつは。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。私はしばらくその場に立ち尽くし、街を見下ろした。ヨシダの姿が浮かぶ。言葉を飲み込んだ瞬間。届かなかった声。
なぜ、こんなにも引っかかるのか。私には関係ない。私の世界ではない。
……それでも。
小さく息を吐く。
(ただ――あの笑顔を、やめさせたかった)
いつも本作をお読みいただきありがとうございます。
この**章**もいよいよ終盤に差し掛かっています。ここまで楽しんでいただけていれば幸いです。
以前のチャプターについても、細かい部分を少しずつ修正しておりますので、あらかじめご了承ください。
また、物語の展開上、これからの数話は通常よりもボリュームが増える予定です。
引き続き、応援よろしくお願いします!




