第10話:魔王の都の祭典
【ローズ視点】
屋上から校舎の中へ戻る頃には、すでに一つの決断をしていた。
やがて——
キーンコーンカーンコーン……
鐘の音が鳴り、授業の終わりを告げる。
次の瞬間、教室は一気にざわめきに包まれた。椅子を引く音、笑い声、今夜の祭りの話。誰もが誰かと予定を立てている。
——私たちを除いて。
私は何も言わず立ち上がり、吉田の机の横へ回り込む。彼は相変わらず椅子に座ったまま、静かに待っていた。周囲を見ないようにしているのが分かる。
「行く」
短くそう言う。
彼は小さく頷いた。
車輪の取っ手を握り、そのまま教室を出る。廊下は人で溢れていたが、不思議と道は自然に開けた。視線やひそひそ声が向けられるが——気にしない。
吉田も同じだった。
外へ出ると、夕方の空気が肌に触れる。空はゆっくりと橙色へと染まり始めていた。
リュウジン先生の鉄の塊が、入口の前で待っている。
だが、私はすぐには進まなかった。
理由は分からない。ただ——少し、迷った。
「吉田」
彼がわずかに顔を向ける。
「七夕……行く?」
その言葉に、彼の目が大きく見開かれた。だがすぐに視線を逸らす。
「俺は……行かねえよ」
短い沈黙のあと、そう答えた。
「一緒に行くやつ、いねえし」
何でもないことのように言った。だが、その声はどこか——作られているように聞こえた。
私は、無意識に取っ手を握る手に力を込める。
「じゃあ」
一拍置いて、言う。
「私と、行く」
その瞬間—— シーン……
周囲の音が、消えたように感じた。
吉田は何度も瞬きをする。理解が追いついていない顔だった。
「……え?」
頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「お、俺と……?」
私は頷く。
「こういうの、よく分からない。……一緒に行く、って聞いた」
彼は視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「……悪い」
ぽつりと、呟く。
「でも……行く。……一緒に」
その言葉は小さかったが、確かだった。
私は何も言わない。ただ、それで十分だった。
吉田は歯をわずかに食いしばる。
「……ありがと」
顔を上げないまま、そう言った。
それ以上の言葉はなかった。
——必要もなかった。
その夜。
この静かで美しい街で——私は初めて、それを知った。
七夕。
祭りは、光で溢れていた。
赤い提灯が屋台の上に並び、甘い香りと香ばしい匂いが混ざり合って空気を満たしている。子供たちが走り回り、恋人たちが笑い、遠くからは音楽が流れていた。
すべてが——騒がしくて、生きていて、そして不思議なほど温かい。
この日のために、キヨミさんが私にこの国の衣装を着せてくれた。軽くて柔らかな布は見慣れないものだったが、その感触はどこか、私の世界の遠い国の装束を思い出させた。
視線を感じる。
だが、それは戦場で向けられる恐れとは違う。
驚き。興味。どこか敬うような目.
何を言っているのかは、まだよく分からない。
一方で吉田は、兄に着せてもらった衣装に身を包んでいた. 普段は病弱に見える彼の姿も、今は少し違う.
——初めて見た.
心からの、笑顔.
私は人混みの中、慎重に車椅子を押す. 最初は緊張していた彼も、次第に表情を緩めていった.
屋台を一つひとつ見ていく.
そのすべてを、記憶に刻むように.
「……きれいだな」
吉田が小さく呟く.
私は頷いた.
なぜ人々が、こんな単純なものを楽しむのかは分からない.
だが——彼の表情を見て、少しだけ理解した気がした.
祭りそのものではない.
ここにいることが、意味を持っているのだと.
やがて、人々が空を見上げ始める.
私もそれに倣う.
その瞬間——
ドンッ!
夜空に光が弾けた.
赤、金、青.
色とりどりの光が広がり、やがて消えていく. まるで最初から存在しなかったかのように.
歓声が上がる.
だが、私の周りだけ——なぜか静かだった.
遠くの喧騒と、前にいる吉田の穏やかな呼吸だけが、確かに存在している.
言葉はない.
それでも、不思議と居心地は悪くなかった.
私は彼を見る.
夜風が髪を揺らし、その合間から見える横顔は、どこか安らいでいた. 光を追うその目は、初めて何かを見る子供のようだった.
どれだけぶりなのだろう.
こんなふうに外に出るのは.
治療の神殿でもなく、
哀れみの視線もない場所で——.
再び光が弾ける.
その輝きが、彼の瞳に映る.
やがて、彼はゆっくりとこちらを向いた.
「……ありがと」
その声は小さく、音に紛れそうだった.
私はすぐには答えなかった.
なぜ感謝されているのか、分からなかったからだ.
私はただ、ここにいるだけだ.
それなのに——
胸の奥が、奇妙に重くなる.
重いのに、どこか温かい.
視線を空へと逃がす.
私の世界では、夜は常に戦と共にあった. 火は破壊であり、喪失の象徴だった.
だがここでは——
人々はそれを見て、笑う.
本当に、奇妙な世界だ.
「……ローズ」
しばらくして、吉田が呼ぶ.
「……うん?」
彼はすぐには続けなかった.
「来てくれて……よかった」
その言葉に、私は返す言葉を持たなかった.
だから——ただ、頷いた.
彼には見えていなくても.
よく考えれば、私はあまり話していない.
話したくないわけではない. ——どうすればいいのか、分からないだけだ.
最後の光が、ゆっくりと夜空へ昇る.
そして—— ドォン……
白い閃光が、一瞬すべてを照らした.
やがて、闇が戻る.
祭りは終わりへと向かい、人々は少しずつ帰っていく. 笑い声は遠ざかり、屋台は閉じられ、賑わいは静かな余韻へと変わっていった.
私は再び車椅子を押す.
「……帰る」
「……ああ」
出口へ向かう途中で、ふと気づいた.
この世界に来てから初めて——
魔王のことを、考えていなかった.
戦のことも、使命のことも.
ただ、歩いている.
静かに.
それが——少し、怖かった.
なぜなら、自分の一部がここに慣れ始めていると気づいたからだ.
あまりにも、心地よく.
私は最後にもう一度、夜空を見上げる.
忘れてはいけない.
自分がここにいる理由を.
——だが、この夜だけは.
考えるのを、やめた。




