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第9話:響き合う刃と、夜明けの車輪


 暗闇からぬらりと姿を現したのは、先ほどの個体とは比較にならないほどの威圧感を放つ、響岩狼の『群れのボス』だった。

 通常の三倍はあろうかという巨体。針金のように硬く逆立った体毛。そして、白濁した両眼の周囲には、無数の歴戦の傷跡が刻まれている。

「グルルルルルォォォォォォォッ!!」

 ボスが低く吠えた瞬間、ビリビリと大気が震えた。

 ただの威嚇ではない。強烈な高周波のソナーが物理的な衝撃波となって峡谷を駆け抜け、焚き火の炎を吹き消した。

 先ほどの片手鍋の音程度では、到底掻き消せないほどの圧倒的な出力。

「あ、ああ……終わりだ。アンタの『剣』は、馬車の下敷きだぞ……!」

 護衛の若き剣士が、恐怖で歯の根を鳴らしながら後ずさる。

 商人も悲鳴を上げて馬車の陰にうずくまった。ボスの背後の暗闇には、再び集結し始めた無数の群れの気配がある。

 私はゆっくりと息を吐き出し、へたり込んでいる若き剣士の傍らに立った。

「……少し、貸してみろ」

「え……?」

 私が手を伸ばし、彼の膝の上にあった『大剣』の柄を握る。

 使い込まれた、ただの鋼の剣だ。刃こぼれもあり、聖剣のような神々しい輝きなど微塵もない、どこにでもある量産品。

「ずいぶんと重心が前に偏っているな。だが、刃の油引きは丁寧だ。……いい剣じゃないか」

 私がその無骨な鉄の塊を片手で軽く振り抜くと、ヒュッ、と鋭い風切り音が鳴った。

「な、なにをする気だ!? アンタの細腕じゃ、そんな重い剣……」

「よく見ておけ。君の剣が、どれだけ頼もしい『牙』になるかを」

 言葉が終わるか終わらないかのうちに、ボスの巨体が爆発的な脚力で大地を抉り、宙を蹴った。

 ズドォォンッ! という岩の砕ける音と共に、圧倒的な質量が砲弾のように放たれる。狙うは私の喉笛。回避不能の死の突進。数トンの巨体が巻き起こす風圧だけで、周囲の砂利が弾け飛ぶ。

 だが、その暴力を前にしても、私の心は湖面のように凪いでいた。

 迫り来るボスの動きが、ひどくゆっくりと、コマ送りのように見え始める。

 ――あの日、アルトの不味い飯を守るために、私はどれだけの魔物の生態を観察し、どれだけの泥に塗れてきたか。

 魔力が込められているわけではない。聖なる光も宿っていない。

 私が見ているのは、ただの『物理法則』だ。

 ボスの後ろ脚の筋肉が収縮し、前傾姿勢に入る角度。風の抵抗。重心の移動。

 次に繰り出されるのは、その巨大な顎による噛み砕き。

 私は大剣を構え上げることもなく、だらりと下げた状態から、すり足で半歩だけ前へ出た。

 自ら死地に踏み込んだように見えた瞬間、ボスの大顎が私の視界を覆い尽くす。生臭い息、鋼鉄より硬いとされる巨大な牙が、私の首筋に触れる――その、ほんの数ミリ手前。

 ボスの突進の死角となる絶妙な一点へと滑り込んだ私は、自らの重心を深く落とし、地面を蹴り上げた反発力を、腰から肩、そして腕へと波のように伝播させた。

 無骨な大剣の『偏った重さ』を遠心力に変え、相手の突進速度そのものを逆利用する。

「ふっ……!」

 下から上へ、一切の無駄を削ぎ落とした『ただの斬り上げ』。

 だがそれは、魔物の生態を知り尽くし、筋肉の動きを完全に読み切ったからこそ放てる、神速の一閃だった。

 ガガァァァァァンッッ!!!

 ありふれた鉄の刃と、魔獣の誇る最強の牙が激突し、暗闇の峡谷に強烈な火花が散る。

 刃こぼれだらけの鋼の剣は、私の腕の中で軋みを上げながらも、完璧な角度でボスの牙の『継ぎ目』を捉えていた。

 衝撃を一切逃がさない、完璧なカウンター。

 ボスの巨体が、空中でピタリと静止したように見えた。

 次いで――メキ、メキィッ! という硬質な破壊音が響き渡る。

 鋼鉄をも噛み砕くはずのボスの牙が、無骨な大剣の一撃に耐えきれず、根元からパリンと音を立てて真っ二つに砕け散ったのだ。

「ギ、キャァァァンッ!?」

 自らの突進の威力をそのまま顎骨に叩き返されたボスは、脳を直接揺らされる強烈な打撃に悲鳴を上げ、数メートル後方へ吹き飛ばされた。

 ズッシャァァァッ! と赤茶けた岩肌を派手に削りながら激突し、激しい土埃を上げる。

「な……っ!?」

「ウソだろ……っ!? あの化け物の突進を、ただの一撃で……!?」

 若者たちが、信じられないものを見るように目をひん剥いた。

 聖剣の力ではない。神の奇跡でもない。

 ただのありふれた鉄の剣による、極限まで研ぎ澄まされた物理と剣技。それが、魔王の軍勢すらも切り裂いた『本物の勇者の刃』だった。

 土埃の中から立ち上がったボスは、もはや先ほどの威厳を完全に失っていた。

 牙を折られ、脳震盪を起こしてふらつくその眼差しには、目の前に立つちっぽけな人間に対する『絶対的な恐怖』が刻み込まれていた。

 私は静かに大剣を構え直し、ピタリと切っ先をボスに向ける。

「……まだ、やるか?」

 低い声で問いかけると、ボスはひっ、と喉の奥で引きつった音を立て、弾かれたように背を向けて暗闇の奥へと逃げ去っていった。群れの気配も、潮が引くように峡谷から消え去っていく。

 完全な静寂が戻った。

「……ほら、返そう。良い太刀筋だった」

 私は刃を布で拭うと、腰を抜かしている若き剣士の胸元へ、大剣の柄を押し付けた。

「け、剣が通じなかったわけじゃ……なかったのか」

 若者は、震える手で自分の大剣を受け取った。

「当たり前だ。剣はただの鉄の板だ。相手の強さに怯え、ただ力任せに振り回せば、それはただの重りになる。だが……」

 私は、彼の顔をまっすぐに見据えた。

「何を護りたいのか、どうすれば生き残れるのか。それを考え、恐れずに相手を『見る』勇気があれば、その鉄の板はどんな脅威にも立ち向かえる最高の牙になる」

 若者は自分の剣を抱きしめ、それから、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣き始めた。

 自分の無力さへの悔しさと、そして、彼自身の剣が持っていた『本当の可能性』を知った安堵の涙だった。

 他の二人の護衛たちも、彼に寄り添うように肩を叩き、静かに泣いていた。

 翌朝。

 すっかり陽が昇り、明るさを取り戻した峡谷を、一台の馬車がゆっくりと進んでいく。

 車軸には泥だらけの聖剣が括り付けられたままだが、商人の顔も、周囲を固める若き冒険者たちの顔も、昨日の絶望が嘘のように晴れやかだった。

「ルミナさん! 街に着いたら、必ずこの剣は綺麗に磨いてお返ししますから!」

 馬車の横を歩くリーダーの若者が、照れくさそうに笑う。

 彼らが剣を握る手には、もう昨日のような無謀な力みはなかった。地に足の着いた、確かな『護る者』の歩幅だった。

「ああ、頼んだぞ。……まあ、どうせまたすぐ泥だらけになるだろうがな」

 私は自分の背中で揺れる『黒い片手鍋』をポンと叩き、大きく伸びをした。

 あの不器用な男が私に教えてくれたものは、こうしてまた別の誰かの勇気となって、世界に響き渡っていく。

 さあ、次の街ではどんな美味しいスープが待っているだろうか。

 私の旅は、まだまだ終わらない。

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