第7話:峡谷の馬車と、不協和音の防衛線
乾燥した風が、赤茶けた岩肌を撫でていく。
次の街を目指して『切り裂き峡谷』と呼ばれる険しい街道を歩いていた私の耳に、微かな悲鳴と、金属が打ち合う甲高い音が届いた。
「……前方だな」
足を速め、街道のカーブを曲がった先。そこでは、砂煙を上げながら横倒しになりかけた幌馬車と、それを守るように武器を構える三人の若い冒険者たちがいた。
彼らを囲んでいるのは、六匹の『響岩狼』の群れだった。
大型犬ほどの体躯を持つその魔獣は、目は完全に退化して白濁しているが、代わりに不気味なほど大きく発達した耳を持っている。
「くそっ、当たんねえ! なんで俺の動きが分かるんだよ!」
大剣を振り回す若き剣士が叫ぶ。彼の剣は空を切り、逆に狼の鋭い爪が彼の革鎧を掠めていく。
無理もない。響岩狼は視覚を持たない代わりに、喉の奥から発する特殊な高周波の『鳴き声』を岩壁に反射させ、その反響音で獲物の位置や筋肉の動きまでを正確に把握するソナー能力を持っているのだ。
彼らは群れ全体でそのソナー情報を共有し、寸分違わぬ連携で獲物を追い詰めていく。大振りで単調な剣撃など、あいつらにとっては止まっているも同然だった。
「お、お願いだ! 積荷はどうなってもいいから、命だけは……!」
馬車の陰で、恰幅の良い商人が頭を抱えて震えている。護衛の若者たちも疲労困憊で、陣形は今にも崩壊しそうだった。
このままでは、あと数分で全員が喉笛を食い破られるだろう。
私は腰のポーチからあるものを取り出しながら、静かに息を吐いた。
――あいつらの『目』を潰すのは、鋭い剣じゃない。
脳裏に、かつて同じように峡谷で響岩狼に囲まれた夜の記憶が蘇る。
『ひぃっ!? ア、アルトさん! 囲まれてます、十匹はいますよ!!』
当時、まだ旅に出たばかりの私は、暗闇から迫る唸り声にパニックを起こし、やみくもに聖剣を振り回していた。
だが、頼みの綱のアルトは、武器を抜くどころか、愛用の黒い片手鍋と木べらを持ったまま、焚き火の前でふらふらと立ち上がったのだ。
『うるせえな、せっかくスープのいい出汁が出てきたってのに』
彼は酷く面倒くさそうに首を鳴らすと、おもむろに片手鍋の底を木べらで叩き始めた。
ガンッ! カカッ、ゴガガガッ! トトトンッ!
『……えっ?』
『あー、あー。そこの狼ども。お前らの連携、すげえウザいんで、ちょっと音程狂わせるぞ』
アルトは鍋をデタラメなリズムで激しく叩きながら、さらに最悪なことに、音程の全く合っていない酷いダミ声で、酒場の猥歌を大音量で歌い始めたのだ。
『な、なにしてるんですか!? 食べられちゃいますよ!!』
『バカ、よく見ろ!』
泣き叫ぶ私の目の前で、信じられないことが起きた。
アルトが発する「不規則な打撃音」と「高低差の激しい酷い歌声」が峡谷の岩壁に乱反射し、狼たちが発していたソナーの音波を完全に掻き消したのだ。
正確な空間認識を失った響岩狼たちは、まるで泥酔したようにふらつき、仲間同士でぶつかり合い、ついにはパニックを起こしてキャンキャンと情けない声を上げながら退散していった。
『どうだ。響岩狼ってのは耳が良い分、許容量を超える不協和音をぶつけられると、三半規管がイカれちまうんだよ。剣を振るより、鍋を叩く方が早い』
鍋を片手にドヤ顔を決めるアルトに、私は呆れ果てて言葉を失った。あの時の彼の酷い歌声は、今でも私の夢に出るほどのトラウマだ。
――回想から意識を戻し、私は岩陰から馬車の前へと歩み出た。
「おい、アンタ! 危ないから下がってろ!!」
護衛の剣士が私に気づいて叫ぶが、私は足を止めない。
私の手には剣ではなく、愛用の『黒い片手鍋』と、分厚い鉄の水筒が握られていた。
「悪いが、少し耳を塞いでいた方がいいぞ。私の『歌』は、酷く音痴なものでね」
私は大きく息を吸い込むと、両手の鍋と水筒を、力任せに打ち合わせた。
ガガァァァンッッ!!!
峡谷の特殊な地形に、硬質な金属音が爆音となって反響する。
それに合わせて、私は歩きながら、一定のリズムをあえて崩し、不規則で甲高い音を鳴らし続けた。ガンッ! ガンッ! カカカカッ!
「キャゥンッ!?」
獲物に飛びかかろうとしていた響岩狼たちが、空中で突然バランスを崩し、無様に地面に転がった。
彼らの精密なソナーが、私の作り出した不協和音の乱反射によって完全に破壊されたのだ。
「なんだこれ……!? あいつら、急に動きが……」
呆然とする護衛たちをよそに、私はさらに岩壁に近づき、そこへ金属を打ち付ける音を響かせる。
方向感覚を失い、自らの位置すら分からなくなった狼たちは、耳を後ろにペタンと伏せ、尻尾を巻いて蜘蛛の子を散らすように峡谷の奥へと逃げ去っていった。
ものの数分で、襲撃は嘘のように終わりを告げた。
残されたのは、静寂を取り戻した風の音と、ポカンと口を開けたまま私を見つめる若き冒険者たちだけだった。
「さて」
私は少しへこんでしまった片手鍋を撫でながら、商人と護衛たちの方へと振り返った。
「怪我はないか? ……と言いたいところだが、どうやら馬車の車輪が逝っているようだな」
傾いた馬車の後輪の車軸が、無惨にへし折れている。
これでは、今日中に峡谷を抜けることは不可能だ。そして、ソナーを狂わされて退却したとはいえ、群れが完全に獲物を諦めたわけではない。
夕闇が近づく峡谷に、微かな冷たい風が吹き抜けた。




