第45話:白銀の勇者と、九尾の甘辛い休戦協定
霊山の中腹は、異様な熱気と魔力に包まれていた。
木々はなぎ倒され、地面には巨大な剣で抉られたような生々しい爪痕が無数に刻まれている。
そして開けた頂の広場に辿り着いた私たちの目に飛び込んできたのは、圧倒的な「暴力」の直前という光景だった。
「おおおおおっ!! 灰に還れ、魔王の残党ども!!」
広場の中央で巨大な大剣を掲げていたのは、泥ひとつ跳ねていない白銀の鎧を纏った金髪の若者だった。
彼――『東の勇者』ゲイルの全身から、空を焦がすほどの凄まじい炎と雷の魔力が立ち昇っている。その矛先には、傷つき、毛を逆立てて威嚇する十数匹の巨大な狐たちと、彼らを統べるように立つ、九つの尾を持つひときわ巨大で神々しい『妖狐』の姿があった。
「あの馬鹿! 山の霊脈のど真ん中で、あんな爆裂魔法を撃つつもりか!?」
ゲンの悲鳴に近い声。
狐たちは確かに強大な力を持っているようだが、ゲイルの無軌道な複合魔法をまともに食らえば、彼らだけでなくこの霊山そのものが吹き飛ぶ。
「――どいてろ、ゲン」
私は地を蹴った。
ゲイルが大剣を振り下ろし、極大の炎雷が解き放たれる、まさにその瞬間。
私は彼と妖狐たちの間に割って入り、背中から引き抜いた『新生・黒片手鍋』の底を、迫り来る炎雷の奔流へと真正面から叩きつけた。
ガァァァァァンッ!!!
星隕石が練り込まれた極厚のドワーフ鋼が、凄まじい衝撃と熱を完璧に受け止める。弾き飛ばされた魔法の残滓が上空へと逸れ、空で虚しく爆発した。
「なっ……!? き、貴様、何者だ!?」
必殺の魔法をただの『鍋』で弾かれたゲイルが、目を見開いて後ずさった。
私は熱を帯びてわずかに赤熱した鍋の柄を握り直し、ゆっくりと立ち上がる。
「……随分と威勢がいいな、絵本の中の勇者様」
「魔物を庇うとは、貴様も魔王の手先か! ええい、まとめて焼き払って……!」
再び剣を構えようとするゲイル。その背後で、警戒心を剥き出しにした九尾の妖狐もまた、喉の奥で唸り声を上げて青白い火球を練り始めている。
一触即発。だが、私は剣も魔法も抜かず、背負い袋から笹の葉の包みを取り出した。
「お前ら、腹が減ってイライラしてるだけだろ。とりあえず、これを食え!」
私は、甘辛い匂いを漂わせる飴色の俵――『いなり寿司』を、妖狐たちに向かって放り投げた。
殺気が渦巻く戦場に、場違いな甘い醤油の香りが広がる。
狐たちは一瞬ビクッとしたが、空中でその匂いを嗅ぎ取った瞬間、魔力を練るのをピタリと止め、パクリといなり寿司を空中で咥え取った。九つの尾を持つ巨大な狐もまた、警戒しつつもその一つを上品に口に含む。
「ジュワァァッ……」
「コンッ!?」
いなり寿司を噛み締めた眷属の狐たちが、完全に戦意を喪失し、その場にへたり込んで尻尾をパタパタと振り始めた。
そして。
『……何百年ぶりであろうか。これほどまでに心に染み入る「供え物」を口にしたのは』
不意に、脳内に直接響くような、凛とした女性の声が聞こえた。
声の主は、九尾の妖狐だった。彼女を覆っていた凶悪な妖気が霧散し、その体から神聖で清らかな『白い神気』が立ち昇り始める。
「なっ……魔物が、喋った……!? それにあの光は……神聖魔法か!?」
「馬鹿野郎。最初から魔物なんかじゃない。こいつらはこの山の霊脈を護る、お稲荷様の使いだ」
呆然とするゲイルをよそに、私は鍋を下げて九尾の狐に向き直った。
「口に合って何よりだ。帝都の裏路地で、今でもあんたたちに祈りを捧げ続けている飯屋の娘から教わった、特製のいなり寿司だ」
『いなり……そうか、人間どもはこれをそう呼ぶか。我は九尾の神使。長きにわたり、極東の霊脈を視てきた者』
九尾の狐は、黄金の瞳を細めて私を見た。
『感謝する、黒鍋の戦士よ。我らはただ、欲に駆られて霊脈を破壊しようとする帝都の人間どもを、山から追い払っていただけなのだ。……しかし、この白銀の若者は問答無用で我らを焼き払おうとしたゆえ、やむを得ず牙を剥いた』
「……え?」
ゲイルが、マヌケな声を漏らした。
「ほ、本当なのか……? だが、俺は帝都の筆頭祈祷師から『魔王の残党が山を荒らしている』と討伐依頼を……」
「だから、自分の足で調べもしないから、そうやって権力者の都合のいい鉄砲玉にされるんだ」
私はゲイルの口に、残っていたいなり寿司を強引に突っ込んだ。
「むぐっ!? きさ、なにを……う、美味い!?」
極上の味覚の暴力に、絵本の勇者の動きがピタリと止まる。
私は彼がモグモグといなり寿司を嚥下するのを見計らってから、静かに告げた。
「お前が今、その安っぽい正義感で焼き払おうとしたのは……その甘辛い味を作った、大豆を育て、出汁を引き、祈りを捧げてきた極東の『人間の営み』そのものだ。……本当の勇者なら、剣を振るう前に、護るべきものが何なのかをその足で歩いて知れ」
ゲイルは、いなり寿司の甘辛い後味を口の中に残したまま、私の言葉と、神気を放つ九尾の狐を交互に見比べ、完全に絶句していた。
その時だ。
『……ふふふ。忌々しい神使どもを間引き、霊脈を焼き払う良い機会でしたのに。邪魔が入りましたね』
木々の奥から、ひどく冷たく、生臭い声が響いた。
顔を白い布で覆い、豪奢な着物を引きずった男――筆頭祈祷師が、数人の護衛を連れてゆっくりと姿を現したのだ。
「筆頭祈祷師殿……!? まさか、あなたが俺に嘘を……!?」
「ええ。勇者殿があまりに純粋で手こずっているようでしたので、様子を見に来たのですよ。……しかし、想定外のネズミが紛れ込みましたね」
祈祷師が私を見た瞬間、その白い布の奥の瞳が、爬虫類のように縦に細く割れた。
そして、私の肌をチリチリと撫でていたあの『嫌な気配』が、爆発的に膨れ上がった。
「……やはりな。お前からは、三年前の腐った臭いがするぞ」
私は黒い片手鍋を構え直し、静かに笑った。
極東の知恵と飯は護った。ここからは、いよいよ魔王討伐者としての、本当の『尻拭い』の時間だ。




