第4話:見えない水脈と、剣を振るわない勇気
南区画の下水道への入り口は、むせ返るようなカビと汚水の臭いに満ちていた。
待ち合わせ場所に立っていたのは、神経質そうに丸眼鏡をかけた、ひどく痩せぎすな若い文官だった。
「ほ、本当にあなたが……? いえ、しかし、あの英雄様がこんな薄汚れた仕事を……」
「ルミナだ。あなたが依頼人のテオ殿だな? ハッカと泥臭草の準備はできている、すぐにでも始められるぞ」
私が麻袋を軽く揺らしてみせると、テオと名乗った文官は、信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 実は、他の冒険者たちには散々笑われまして。『大ネズミごとき、毒餌を撒くか剣で皆殺しにすれば一瞬だろう。わざわざ生け捕りにしたり追い出したりするなんて、腰抜けの役人の考えることは面倒くさい』と……」
テオは悔しそうに拳を握りしめた。
「ですが、ダメなんです。この南区画の下水道は、すぐ真下に貧民街の井戸へと繋がる水脈が通っています。もし下水道で大ネズミを大量に殺すか毒殺すれば、腐敗した死骸や毒素が地下水に染み出し、数週間後には南区画の住民全員が疫病にかかってしまう……」
「なるほど」
「根本的な解決にはならないと笑われました。ですが、水脈を守るためには、一時的にでも彼らを『生かしたまま』街の外へ追いやるしか……っ」
早口で弁明するテオの言葉を聞きながら、私は彼の強く握りしめられた震える拳を見つめた。
誰にも理解されず、笑われてもなお、見えない『水脈』を守ろうとするその不器用な姿が――かつて、正義感だけで剣を振り回そうとしていた私の拳と、重なって見えたのだ。
――ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる、あのじめじめとした洞窟の記憶。
『待て、ルミナ。その物騒なオモチャをしまえ』
私の脳裏に、あの男の呆れた声が蘇る。
あれは、アルトと共に旅をして、二ヶ月ほど経った頃のことだった。
立ち寄った村で、「水源の洞窟に棲み着いた毒ガエルの群れを討伐してほしい」という依頼を受けたのだ。
私は意気揚々と聖剣を引き抜き、神聖魔法『ホーリー・フレア』で洞窟ごとカエルを焼き払おうとした。だが、詠唱に入る直前、アルトの汚い片手鍋が私の頭を思い切り殴りつけたのだ。
『な、何をするんですか!? 一撃で終わらせられるのに!』
『バカかお前は。よく周りを見ろ。この洞窟の岩肌は、全部脆い石灰岩だ。お前のその馬鹿デカい神聖魔法なんぞぶっ放したら、天井が崩落して水源が完全に埋まっちまう』
『そ、それは……』
『それに、毒ガエルどもをあの狭い空間で黒焦げにしてみろ。破裂した毒袋から出た体液が全部地下水に混ざって、村の連中が全員水あたりで死ぬぞ』
アルトはそう言ってため息をつくと、リュックから乾燥させた動物のフンと、いくつかの薬草を取り出し、洞窟の風上に置いて火をつけた。
もうもうと立ち込める強烈な煙。それは毒ガエルだけが嫌悪する成分を含んだ燻煙剤だった。ほどなくして、カエルの群れは一匹残らず洞窟の奥深くへと逃げ去っていったのだ。
『剣を振って一網打尽にするのは、バカでもできる。だが、その後のことまで考えて「剣を振るわない」選択ができる奴は少ない』
焚き火の煙を払いながら、アルトは私にそう言った。
『目に見える魔物を殺すことだけが勇者じゃない。目に見えない明日の生活を護れる奴が、本当に強い奴なんだよ』
――その時の彼の横顔が、どれだけ私の胸に深く刻み込まれたことか。
「……ル、ルミナ様? あの、やはりこんな面倒な依頼、お引き受けいただけませんか……?」
沈黙してしまった私を不安に思ったのか、テオがおずおずと声をかけてきた。
私は回想から意識を引き戻し、小さく笑って首を横に振った。
「いや、素晴らしい判断だと思ってね。あなたは、剣を振るう冒険者たちよりも、よほど確かな目で『街の明日』を見ている」
「え……」
「さあ、始めようか。地下水脈を守るための、泥臭い仕事を」
私はテオの肩を軽く叩くと、暗く悪臭の漂う下水道へと足を踏み入れた。
作業自体は、アルトから教わった知識の応用でしかなかった。
下水道の奥で風の流れを読み、ハッカと泥臭草をブレンドして火にかける。人間にとっては少し鼻をつく程度の匂いだが、嗅覚の鋭い大ネズミたちにとっては、死の危険を感じるほどの激臭だ。
剣を一度も抜くことなく、小一時間で数十匹の大ネズミたちは下水道から逃げ出し、街の裏山の森へと去っていった。
「す、すごい……! 本当に、一滴の血も流さずに……!」
煙の晴れた下水道で、テオが感極まったように声を上げた。
「報酬の銅貨五枚だ。確かに受け取ったよ」
私はテオから受け取った硬貨を革袋に放り込むと、泥の跳ねたブーツの踵を鳴らした。
「テオ殿。あなたのその『剣を振るわない勇気』は、いつか必ずこの街の土台を支える強さになる。誰に笑われようとも、その見えない水脈を守り続けてくれ」
私がそう告げると、若き文官の目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
何度も何度も深く頭を下げる彼に背を向け、私は再び光の射す地上へと歩き出す。
あの時、私を殴ってくれた不器用な男の背中に、今の私は少しでも近づけているだろうか。
そんなことを考えながら見上げた空は、酷く澄んで青かった。




