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第36話:黄金の稲穂と絶望の冷気


 ドワーフの隠れ里である『鉄床の谷』を抜け、東へ向かって数日。

 険しい山岳地帯を越えた私の視界に飛び込んできたのは、これまで旅してきた大陸の風景とは全く異なる、息を呑むような光景だった。

 見渡す限りに広がる平野を埋め尽くす、黄金色の波。

 風が吹くたびにザワザワと心地よい音を立てて揺れるそれは、極東の文化が流れ込むこの穀倉地帯でのみ栽培されているという希少な穀物――『稲穂』だった。

「……凄いな。全部、米か」

 私は無意識にごくりと生唾を飲んでいた。

 パンを主食とするこの大陸では珍しいが、私はかつてアルトから、この極東の穀物の美味さを嫌というほど聞かされていた。

『いいかルミナ、米ってのはな、ただの穀物じゃねえ。それ自体がメインディッシュにもなり得る、魔性の食べ物なんだ。極限まで研ぎ澄まされた熱と水分で炊き上げた「白飯」の甘みを知ったら、もうカチカチの干し肉なんて食えなくなるぞ』

 そう語るアルトは、いつか必ず極東へ行って本物の米を食うのだと息巻いていた。

 そして今、私の背中には、バルガスによって限界まで性能を引き上げられた『新生・黒片手鍋』がある。

 蓄熱性と密閉性が桁違いになったこの鍋なら、間違いなく極上の「炊きたて白飯」を作ることができるはずだ。

「絶対に、ここで米を手に入れる。何が何でも」

 私は決意を新たに、意気揚々と農村のあぜ道へと足を踏み入れた。

 だが、村に近づくにつれて、黄金色の風景に似合わない『ひどく重苦しい空気』が漂い始めた。

 あぜ道の脇に座り込んでいる農民たちは、皆一様に頭を抱え、絶望的な表情で自分たちの田んぼを見つめている。

「……おしまいだぁ。今年もまた、あいつらが湧いてきやがった。このままじゃ、村は冬を越せねえぞ……」

「くそっ、なんでこんな時に……!」

 農民たちが血走った目で睨みつけている先。

 広大な黄金の海の一部が、不自然なほど真っ白に凍りついている区画があった。

 近づいて目を凝らすと、黄金色に実った稲穂の茎に、手のひらほどの大きさを持つ青白い甲虫がびっしりと群がっている。

「……『霜枯らし(フロスト・ブライト)』か」

 私は思わず顔をしかめた。

 それは、周囲の熱を奪って自らの体内に圧縮した冷気を溜め込み、植物を凍らせてからその養分を吸い取るという、極めて厄介な魔虫だった。

「おじさん。どうして駆除しないんだ? 剣で叩き落とすなり、松明で燻すなり、やりようはあるだろうに」

 私が傍らで座り込んでいる農民の肩を叩くと、彼は力なく首を振った。

「旅人さんか……。あんた、あの虫の恐ろしさを知らねえな。あいつら、下手に剣で叩いて殻を割っちまうと、体内に溜め込んだ猛烈な『冷気ガス』を一気に撒き散らすんだ。一匹潰しただけで、周囲数十メートルの稲が全部一瞬で凍りついて枯れちまう」

「……なるほどな」

 物理攻撃で刺激すれば、自爆するように冷気を放つ。だからこそ農民たちは手出しができず、稲が少しずつ凍りついて枯れていくのを、ただ見ていることしかできないのだ。

「ああ……もし、今代の『東の勇者様』がここを通ってくださればなぁ……」

 別の農民が、泥だらけの顔を上げて空を仰いだ。

「東の勇者?」

「ああ。極東へ向かう街道沿いで、最近よく噂を聞くんです。身の丈ほどの巨大な大剣と、山をも吹き飛ばすほどの凄まじい『炎の魔法』を操るっていう、強くて頼もしい勇者様だと」

 農民は、すがるような目で私を見た。

「その勇者様なら、きっとあんな虫ども、強力な炎の魔法で一瞬で焼き払ってくれるのに……! そうすりゃあ、俺たちの畑も……っ!」

 その言葉を聞いて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 力による解決。圧倒的な魔法による一掃。

 確かに、強力な炎の魔法で広範囲を焼き払えば、冷気ごと霜枯らしを消し炭にすることはできるだろう。

 だが。

「……おじさん。あんた、本気で言っているのか?」

 私の声は、無意識のうちに低く、硬くなっていた。

「炎の魔法で虫ごと焼き払えば、当然、そこに実っている『稲』も一緒に灰になるぞ。生態系どころか、あんたたちが一年かけて育てた土壌すら、高熱で死に絶えるかもしれないんだ」

「そ、それは……分かってます。でも!」

 農民が悲痛な声を張り上げた。

「このままジワジワと全部枯らされるのを待つくらいなら、一部を犠牲にしてでも、あの憎き虫どもを消し去ってほしいんですよ! 力で、全部吹き飛ばしてほしいんだ!」

 私は、黙って彼の震える拳を見つめた。

 彼らが悪いわけではない。絶望が、彼らから「護るべきもの」の優先順位を狂わせ、ただ「目の前の脅威を破壊すること」だけを望ませているのだ。

 かつて、魔王という絶望を前にして、ひたすらに剣を振り回すことしかできなかった一六歳の私と同じように。

 ――アルト。あんたなら、こんな時どうする。

 極東の刀を背負っていた、あの不器用な男。

 彼と対極に位置するような、破壊を撒き散らす「東の勇者」の噂。

「……おじさんたち。よく聞いてくれ」

 私は背中の布巻きの聖剣には一切触れず、腰から『新生・黒片手鍋』を引き抜いて、ドスッとあぜ道に置いた。

「虫を焼き払って、明日の飯を灰にするなんて馬鹿げてる。私が、一粒の稲も傷つけずに、あいつらを全部追い払ってやる」

「えっ……? な、なにを言ってるんだ旅人さん。剣も魔法も使わずに、どうやって……」

 私は、バルガスが打った鍋の漆黒の底を叩き、静かに笑った。

「使うのは、こいつと『ただの水』だ。……さあ、田んぼの泥を掘るぞ。手伝ってくれ。自分の明日の飯を、他人の破壊の魔法なんぞに委ねるな」

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