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第35話:生まれ変わった黒鍋と鉄床の宴


 ジュウウゥゥッ!!

 水槽の冷水に突っ込まれた鉄が、凄まじい水蒸気と甲高い鳴き声を上げる。

 丸一昼夜。バルガスの巨大な金槌が止まることなく谷に響き渡り、ついに私の相棒が炉の中から引き上げられた。

「ほらよ。火傷するなよ」

 分厚い革手袋越しに、バルガスが私に向かって『それ』を放り投げた。

 私は布を巻いた手で柄をしっかりと受け止め、その重みと質感に息を呑んだ。

 ひしゃげていた底は完璧な平曲面を取り戻し、叩き込まれた特殊な鉄の層によって、表面は夜の湖面のように深く、滑らかに黒光りしている。

 以前よりも明らかに底の厚みは増しているはずなのに、手に伝わる重心のバランスが絶妙に調整されており、振ってみても全く重さを感じさせない。

「……すげえ。柄の『火竜の顎骨』の接合部まで、ミリ単位で締め直してある」

「当たり前だ。俺をその辺の板金屋と一緒にすんな。前のベースに馴染ませた新しい合金層が、熱を底から縁まで均一に引っ張り上げる。……さあ、講釈はいい。俺の仕事の対価を払ってもらおうか」

 バルガスが顎でしゃくると、工房の奥で作業の手を止めた若いドワーフたちが、ごくりと生唾を飲み込んでこちらを見ていた。丸一日飯も食わずに親方の作業を見守っていた彼らも、限界まで腹を空かせているようだ。

「上等だ。あんたの打った最高の鍋の『初おろし』だ、極上の具材を使わせてもらう」

 私はリュックから、これまでの旅で溜め込んでいた秘蔵の食材を次々とカウンターに並べた。

 雪見町で仕込んだ『スノーウルフの干し肉』。

 アウレリアの市場で買い占めた『特製香辛料』と根菜。

 ポルトの港でオヤジさんから餞別に貰った『小魚とエビの干物』。

 そして、このドワーフの里に入る道中で採集してきた、強烈な旨味を持つ『火吹き茸』だ。

「……肉と魚の乾物を一緒に煮込むだと? ゲテモノじゃねえか」

「素人は黙って見ていろ。これが『出汁ダシの相乗効果』だ」

 私はかまどの火を強め、新生・黒片手鍋を火にかけた。

 ドワーフの里の特産である純度の高い獣脂を鍋底に落とす。

 ――その瞬間だった。

「な……っ」

 私が驚く暇もなく、落とした固形の脂が一瞬で液状に溶け、チリチリと小気味良い音を立て始めたのだ。

 熱伝導率が、以前の鍋とは比べ物にならない。火の熱が鍋底から壁面へと瞬時に、そして均一に伝わり、鍋全体が完璧な「熱のドーム」と化している。

「いくぞ」

 私は細かく刻んだ根菜と火吹き茸、そして香辛料を一気に鍋へ放り込んだ。

 ジャァァァァッ!!

 暴力的なまでの爆ぜる音と共に、香辛料の香りとキノコの旨味が熱によって一気に引き出され、工房内に強烈な香りが充満する。

 普通の鍋なら、具材を入れた瞬間に鍋の温度が下がり、水っぽくなってしまう。だが、バルガスの打ったこの鍋は違った。分厚い底に蓄えられた圧倒的な『蓄熱量』が、具材の冷たさに全く負けず、常に最高火力を保ち続けているのだ。

「すげえ……一瞬で野菜の表面がコーティングされたぞ」

 若いドワーフが身を乗り出して驚きの声を上げる。

 私はそこに、干し肉と干し魚、そしてたっぷりの水を注ぎ込んだ。

 通常、乾物を柔らかく煮込み、出汁を取るには数時間の煮込みが必要だ。しかし、この鍋の異常な保温力と、均一な熱対流が、水の中で激しい『渦』を作り出し、具材の旨味を信じられないスピードで抽出していく。

 わずか三十分後。

 鍋の中では、山の獣肉の脂と、海の魚介の出汁が完璧に乳化し、黄金色に輝く濃厚なスープがグツグツと煮えたぎっていた。

「完成だ。『山と海の極上越冬スープ・ルミナ風』だ」

 私はお玉でスープをすくい、一番大きな木椀になみなみと注いで、バルガスの前にドンッと置いた。

 工房中が静まり返り、全てのドワーフの視線が親方に注がれる。

 バルガスは無言で木椀を持ち上げ、残された左目で黄金色のスープをじっと見つめた。そして、分厚い唇に椀を当て、火傷しそうなほど熱いスープを一気に流し込んだ。

「…………」

 バルガスは目を閉じ、ゆっくりと咀嚼するようにスープを味わう。

 沈黙が痛いほど工房を支配する。私が柄を握る手にわずかに汗をかいた、その時だった。

「……ふっ、ははははっ!」

 バルガスが突然、腹の底から響くような大笑いを上げた。

「がはははっ! なんだこりゃあ! 魚の出汁と獣の脂が、俺の打った鉄の中で完璧に混ざり合ってやがる! しかもこの熱さ、胃袋の底からマグマが湧いてくるようだ!」

「親方! 俺たちにも! 俺たちにも一口!」

「うるせえ! お前らは自分でよそえ!」

 親方の笑い声を合図に、工房の若いドワーフたちが一斉に鍋に群がり、我先にとスープを椀に注ぎ始めた。

 一口飲んだ若者たちが「美味ええっ!」「なんだこの味!」と次々に悲鳴のような歓声を上げる。

 私はその光景を見ながら、背中の壁に寄りかかって小さく息を吐いた。

「どうだ、親方。私の作るスープは、あの男より美味かったか?」

 私が意地悪く問いかけると、バルガスは空になった椀を置き、満足げに髭を撫でた。

「ああ、負けを認めるぜ。あの野郎の作ったスープは、もっと無骨で塩辛かった。お前のスープには、色んな土地の泥を歩いて、色んな連中の飯を食ってきた『旅の深み』がある」

「……最高の褒め言葉として受け取っておく」

「だがな、小娘」

 バルガスは真剣な顔になり、私の目をまっすぐに見据えた。

「あの無精髭の野郎は、お前にただ『料理の腕』を教えたわけじゃねえだろう。どんな環境でも、どんな絶望の中でも、この鍋で熱い飯を食い、明日を諦めない『意地』。それこそが、あいつがお前に託した最大の武器だ」

「ああ、分かっている」

 私は、まだ熱気を放つ黒い片手鍋の柄を優しく撫でた。

「剣では護れないものがある。魔法では届かない熱がある。それを教えてくれたのはあの男だし、それを証明してくれたのは……あんたの打った、この鍋だ」

 バルガスはふっと笑い、自分の巨大な金槌を肩に担ぎ直した。

「大事に使えよ、小娘。次に底をひしゃげさせたら、今度は修理代としてその聖剣を溶かして、巨大な鉄板焼きの鉄板に打ち直してやるからな」

「それは勘弁してくれ。教会の神父がショックで気絶する」

 私たちは顔を見合わせ、再び大声で笑い合った。

 その夜、鉄床の谷では、かつての『東の勇者』と、今代の『鍋の勇者』の噂を肴に、夜明けまで盛大な宴が続いた。

   * * *

 翌朝。

 赤茶けた岩山から登る朝日を背に受けて、私はドワーフの隠れ里の入り口に立っていた。

 背中には、バルガスの手によって新たな命を吹き込まれた『新生・黒い片手鍋』が、心地よい重みと共に揺れている。

「さて、次は東の平野部だったな」

 私は大きく背伸びをし、澄んだ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 世界には、まだまだ私の知らない美味い飯があり、護るべきささやかな日常がある。

 どこかの空の下で、あの男が今日も焦げた鍋を振るっているように。私は私の足で、この新しい相棒と共に、世界に響き渡る『泥臭い勇気』を届けるために歩き続ける。

 さあ、行こう。明日の美味いスープのために。

 終わらない旅の、次のページをめくるために。

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