第34話:伝説の金槌と明日を護る鍋
「……弟子のようなものだ。少なくとも、あの男の作る『美味い飯』の恩恵を、世界で一番受けていた自負はある」
私の答えを聞いて、大鍛冶師バルガスは「ふっ」と短く、腹の底から漏れるような笑い声を上げた。そして、それまで肩に担いでいた巨大な金槌を、ドスンと床に置き直した。
「そうか。あの野郎、まだあのクソ忙しい旅の中で、この鍋を使ってメシを食ってやがったか」
バルガスは燃え盛る炉の炎を見つめながら、ぽつりと記憶の糸を解くように語り始めた。
「あれは、まだ俺の目が両方とも健在だった頃の話だ。王家からの直々の依頼で、絶対に折れない最強の『聖剣』の試作を打っていた俺の工房に、一人の男がふらりと現れてな」
バルガスは忌々しそうに、だがその口元にはどこか楽しげな色を滲ませて目を細める。
「当時、そいつは巷じゃ『東の勇者』なんて大層な二つ名で呼ばれていやがった。背中には、俺たちドワーフの武骨な両刃直剣とは全く違う、美しい反りの入った、恐ろしく細身の『聖剣』を背負っていてな。一目で分かったよ。あれは極東の凄腕の刀鍛冶が、自らの命を削って打ち上げた、途轍もない業物だってな」
反りの入った、極東の聖剣。
私の知るアルトの得物は、いつだって泥のついたスコップか、あるいはスープをかき混ぜる大きな木べらくらいのものだった。そんな伝説の戦士に相応しい武器を帯びていた時期が、彼にも本当にあったのだ。
「俺はてっきり、その極東の名刀のメンテナンスや、さらなる強化を頼みに来たんだと思ったんだ。ドワーフ一の鍛冶師として、あの繊細な刃線にどうやって俺の最高級の鉄を乗せてやろうかって、職人魂がパチパチと燃え上がってな。だが、あの野郎は……」
バルガスは、手元にある黒い鍋の縁を、太い指先で軽く弾いた。
キィン――と、分厚い鉄鍋からはおよそ想像もつかない、どこまでも澄んだ、美しい鈴のような音が工房の熱気の中に響き渡った。
「あいつは俺の顔を見るなり、『これは極東の親父が打った大切な刀だからな。アンタの分厚いハンマーじゃ、この繊細な刃が台無しになっちまう』とのたまいやがった。俺のプライドを完璧にへし折るような暴言を吐いたかと思えば、背中のリュックから大量の星隕石の原石と、火竜の骨をカウンターにドサドサとぶち撒けて、真顔でこう言いやがったんだ。『これで、最高に頑丈な片手鍋を作ってくれ』ってな」
伝説の鍛冶師の口から語られる、かつての師匠の常軌を逸した暴挙。
私は思わず天を仰ぎ、深いため息をついた。
「……それは、親方でなくともキレる」
「ああっ、キレたとも! ドワーフの誇りにかけて、あんなに腹の底から怒鳴り散らしたのは、俺の長い人生の中でも後にも先にもあの時だけだ!」
バルガスは巨大な金槌をドンッと床に突き立て、当時の怒りを生々しく思い出したように白い髭を震わせた。
「俺はあいつの胸ぐらを掴み上げて言った。『ふざけるな若造! 俺は星をも砕く神具を打つドワーフだぞ! 飯炊き用の鍋だぁ? そんなものは麓の村の金物屋にでも頼みやがれ!』ってな。だが、あの野郎は俺に胸ぐらを掴まれたまま、ひどく真剣な目をして、こう返しやがったんだ」
バルガスはふう、と深く息を吐き、左目で炉の赤き炎をじっと見つめた。その脳裏には、十年前の光景が鮮明に浮かんでいるのだろう。
『麓の金物屋の鍋じゃダメなんだよ。俺はこれから、氷点下何十度の永久凍土や、業火の噴き出す火山地帯を越えなきゃならない。普通の鉄鍋じゃ、激しい熱の高低差で底が抜けたり、寒さでヒビが入っちまう。……いいかオヤジ、俺の背中にあるこの極東の刀は、確かに最高の剣だ。だがな、こいつじゃあ「スープ」は煮込めないんだよ』
『当たり前だ! 剣は敵を斬るもんだろうが!』
『ああ。だから困ってるんだ。剣がどれだけ鋭くても、腹が減れば人は死ぬ。俺はこの前、飛竜の肉をこの刀に刺して直火で焼いたら、脂で刀身がギトギトになってな。極東の親父に夢枕で殺されかけた上に、肉は外側しか焼けなくて酷く不味かった』
『お前、名刀でなんてことを……!』
『だからこそ、俺には「絶対に壊れない最強の鍋」が必要なんだ。どんな過酷な環境でも、確実にお湯を沸かし、獣の硬い肉を柔らかく煮込める鍋が。……オヤジ。アンタの打つ神具ってのは、敵を殺すためだけのものか? それとも、持ち主の「明日」を護るためのものか?』
バルガスの語るアルトの言葉を聞きながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
剣がどれだけ立派でも、腹が減れば死ぬ。
アルトが旅の中で私に幾度となく教えてくれた、あの泥臭く、しかし絶対的な真理。それは十年前、この偏屈で頑固なドワーフの最高長老の胸元にも、全く同じように叩きつけられていたのだ。
「……『持ち主の明日を護るためのものか』、だと。小癪な理屈をこねおって」
バルガスは忌々しそうに鼻を鳴らしたが、その顔には確かな職人としての「誇り」が満ち満ちていた。
「だが、あいつの目は本気だった。あの極東の刀を背負うほどの強者が、見栄も外聞もかなぐり捨てて『明日を生き抜くための鍋』を求めている。……ドワーフの鍛冶師として、これほど面白い挑戦はねえ。俺は胸ぐらから手を離し、あいつが持ち込んだ素材を受け取った」
「そして、それを打ったのですね」
「ああ。丸三日、一歩も炉の前から動かずに不眠不休で叩いた。星隕石を鋳鉄に均等に練り込むための精密な温度管理、火竜の骨を柄として完全に接合するための特殊なリベット打ち。俺の持つ全ての技術と情熱を、この『たかが片手鍋』に注ぎ込んでやったのさ。完成した鍋を見たあいつは、子供みたいに大喜びで笑ってな。その場で干し肉のスープを作って、俺に一杯奢りやがった」
バルガスは手元にある黒い片手鍋を、我が子を労うように愛おしそうに撫でた。
彼にとってこれは、ただの調理器具ではない。若き日の彼が、一人の奇妙な勇者と共に作り上げた、間違いなく「世界に一つだけの神具」なのだ。
「……だが、そんな最強の鍋も、どうやら十年で限界が来たらしいな。底がここまでひしゃげるとは、一体どんな無茶な使い方をした?」
「クラーケンの眉間に、全力でぶん投げた」
私が正直に白状すると、バルガスは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、次いで、工房の屋根を吹き飛ばさんばかりの、腹の底からの大笑いを炸裂させた。
「がははははっ! クラーケンの眉間だと!? あの鍋を投擲武器にしやがったのか! さすがはあの無精髭の野郎の弟子だ、使い方の荒さと頭の悪さまでそっくりそのまま引き継いでやがる!」
「笑い事じゃない。おかげで今日の朝飯が焦げ付いて、酷く不味かったんだ」
私が恨めしそうに唇を尖らせると、バルガスは目元に浮かんだ笑い涙を分厚い手で拭いながら、巨大な金槌をドンッと構え直した。その一挙手一投足に、伝説の鍛冶師としての凄まじい覇気が戻る。
「分かった、分かった。あの野郎の忘れ形見が、不味い飯を食って泣いてるんだ。このバルガス様が、責任を持って直してやるよ」
「……勝手に殺さないでくれ。あの男は死んでいない。今頃どこかの空の下で、また馬鹿げた横着をして、新しい鍋でも吹き飛ばしているはずだ」
私が呆れ半分に言うと、バルガスは意外そうに眉を上げた。
「生きてるのか! だが、ならなんでお前がその鍋を持ってるんだ? あいつが命の次に大事な相棒を手放すとは思えねえが」
親方の言葉に、私は少しだけ視線を落とした。
脳裏に蘇るのは、魔王城がそびえ立つ、あの死の火山地帯へ私が一人で足を踏み入れる直前の光景だ。
『……これを持っていけ、ルミナ』
アルトが私の両手に無理やり押し付けてきたのは、彼が何よりも大切にし、どんな時も肌身離さず磨き上げていた、あの黒い片手鍋だった。
『魔王の領地は、これまでの旅とは比べ物にならないほど過酷だ。お前のそのピカピカの聖剣じゃ、業火の中で焦げずに飯を炊くことはできない。いいか、どんな絶望的な環境でも、へこたれない「最強の鍋」で熱いスープを作って腹に入れろ。メシさえしっかり食えていれば、お前は絶対に負けない』
そう言って、彼は自分の「最高の相棒」を、今代の勇者である私に託してくれたのだ。
魔王打倒という、気の遠くなるような過酷な旅を完遂するための、一番心強いお守りとして。
「あいつが私に託してくれたんだ。だからこそ、こんなところでただの鉄クズに戻すわけにはいかない」
私が鍋の柄を強く握り直して告げると、バルガスは静かに、だが深く頷いた。
「……そうか。あのひねくれ者が、人に明日を託しやがったか」
バルガスの左目が、鍛冶師特有の鋭い、獲物を捉えるようなギラつきを帯びた。
「十年分の油と、お前たちが戦ってきた無数の魔物の脂が染み込んだこの鉄は、俺が打った当時よりもさらに鍛えられ、『成長』してやがる。ただ底を叩き直すだけじゃ芸がねえ。裏側からもう一層だけ特殊な鉄を焼き付け、保温性と剛性を極限まで高めてやる。……明日からのメシは、今までよりずっと美味くなるぞ」
「……っ! 頼む、親方! 報酬はいくらでも払う!」
「金なんざ要らねえよ。その代わり……」
バルガスはニヤリと不敵に笑い、炉の横に置かれた大きな水樽を顎でしゃくった。
「修理が終わったら、その鍋で極上のスープを作れ。当然、俺の分もな。あの野郎が昔、俺に奢りやがったスープより不味かったら、叩き割って本当に鉄屑にしてやるからな」
「上等だ。私の作る骨太スープは、そんじょそこらの勇者様には出せない、極上の味だぞ。覚悟して待っていろ」
私とバルガスは、お互いに不敵な笑みを交わした。
若いドワーフが完全に呆気にとられているのをよそに、伝説の鍛冶師は愛用のハンマーを高く振りかぶり、私の大切な相棒である黒い片手鍋を、赤々と、白熱するほどに燃え盛る炉の中へと力強くくべた。
カンッ、カンッ、カンッ――!
谷中に響き渡る、小気味良くも重厚な打撃音。
それは、私の「明日」を再び護るための、世界で一番頼もしい産声だった。




