第33話:ひしゃげた相棒と鉄床(かなとこ)の谷
極上のブイヤベースを堪能し、最高の気分で眠りについた翌日。私は一転して、深い絶望の底に突き落とされていた。
原因は魔王の残党による襲撃でもなければ、未知の天変地異でもない。もっと身近で、もっと致命的な、私の旅の根幹を揺るがす大問題だった。
朝の野営で、手持ちの干し肉と根菜を煮込もうとした時のことだ。石組みの竈の上に置いた愛用の「黒い片手鍋」が、どう調整してもガタガタと不安定に揺れ、まともに静止しなかったのだ。
「……嘘だろ」
火から下ろし、冷ましてから恐る恐る鍋の底を覗き込む。
そこには、無視できない歪みが刻まれていた。
前日の激闘――クラーケンの眉間に向かって、私の全筋力を乗せたスマッシュヒットを決めた代償だった。あの海魔の圧倒的な質量と私の投擲力に挟まれた結果、極厚であるはずの鍋底の鉄が、大きく内側に向かって湾曲してしまっていたのだ。
割れていないのは奇跡と言うほかなかったが、金属がこれだけ変形すると実用には耐えない。
試しにそのまま火にかけてみると、湾曲したせいで熱伝導が完全に狂ってしまっていた。炎が直接当たる局所的な部分だけが異常なオーバーヒートを起こして焦げ付き、外周に散った野菜には全く火が通らない。
「……焦げ臭い。しかも、肉が木の皮みたいに硬い」
出来上がったスープを口にし、私は顔をしかめた。
不味い。圧倒的に不味い。食材の旨味が引き出される前に、ただ熱の暴力で焼き焦げただけの代物だ。
剣の刃こぼれであれば、手持ちの砥石で時間をかければ修正できる。しかし、この分厚い特殊な鋳鉄鍋の板金修理となれば、完全に私の専門外だ。しかも、並の打撃ではびくともしない異常な強度を誇る代物である。素人が生半可に火に炙って叩けば、最悪の場合、金属疲労で割れてしまう。
「……これは、急務だな。飯の美味さは旅の命だ」
私は焦げ付いたスープを無理やり胃袋に流し込むと、即座に荷物をまとめた。当初予定していた東の緩やかな平野部へのルートを破棄し、進路を北へと転じる。目指すは、切り立った岩肌が連なる險しい山岳地帯――そこに、金属を統べる者たちの里がある。
* * *
ドワーフの隠れ里『鉄床の谷』。
赤茶けた巨大な岩山を力任せにくり抜いて作られたその集落は、入り口に一歩足を踏み入れただけで、圧倒的な熱量に肌が焼かれるようだった。
むせ返るような石炭の燃える匂い。何十、何百という工房から吐き出される、大気を揺らすベローズ(鞴)の重低音。そして、空間を鋭く切り裂く金属の打撃音が、絶え間なく反響している。
「おいおい、人間のお嬢ちゃん。ここは観光客が冷やかしに来る場所じゃねえぞ」
立ち並ぶ工房の中でも、ひときわ大きく頑丈な構えの建物の前に立つと、奥から筋骨隆々の若いドワーフが顔を出した。分厚い牛革のエプロンで額の汗を拭いながら、こちらを面倒くさそうに睨みつけてくる。
「冷やかしじゃない。真っ当な客だ。道具の修理を頼みたい」
「修理ィ? はっ、どれどれ。どんな大層な業物を持ってきやがった。高名な騎士様の魔剣か?」
ふんぞり返る若者に対し、私は背中のリュックから、件の『黒い片手鍋』を静かに差し出した。
それを見た瞬間、若いドワーフは呆れ返ったように大きな鼻を鳴らした。
「はあ? なんだこの煤だらけの鉄クズは。底が完全にベコベコに凹んで、ひしゃげてんじゃねえか。おいおい、ネーチャン。俺たちドワーフの鍛冶師ってのはな、ミスリルやオリハルコンを叩いて、歴史に残る武器や防具を作るのが仕事なんだよ。こんな安物の鋳鉄鍋、叩き直す手間のほうが金がかかる。そこの鉄屑入れにでも捨てて、表の道具屋で新品の銅鍋でも買って帰りな!」
ピキリ、と私のこめかみに青筋が浮かぶ。私の「相棒」を鉄クズ呼ばわりされた怒りが、胸の奥で燻った。
「鉄クズだと? 口を慎め、若造。これはただの鍋じゃない。魔獣の猛烈な脂に耐え、極寒の猛吹雪の中でも中の熱を一切逃さず、クラーケンの額を粉砕した歴戦の相棒だ。新品の薄っぺらい銅鍋なんぞで、この絶妙な厚みと、長年育ててきた『味の染み込み』が出せるものか」
「クラーケンの眉間ぁ? 頭湧いてんのか。だいたい、日用品の板金修理なんざ見習いの仕事だ。俺たちの神聖な炉を、飯炊き道具で汚してたまるかってんだよ!」
「……そうか。なら、その見習いとやらを呼んでこい。こんな場所で油を売っている『ただの鉄叩き』には、私の相棒は任せられないからな」
「なんだと、この小娘が……!」
私が鍋の柄をグッと握り直し、若いドワーフが顔を真っ赤にして鍛冶ハンマーを振り上げた、その時だった。
「やかましいぞ、ガラクタども! 炉の温度が下がるだろうが!」
工房の奥深くから、地鳴りのような怒声が轟いた。その音圧だけで、周囲の工具がカタカタと震える。
ずん、ずん、と重い足音と共に姿を現したのは、顔の半分以上を覆うほどの真っ白な髭を蓄えた、老ドワーフだった。筋骨隆々という表現では生ぬるい。まるで岩塊がそのまま意志を持って歩いているかのような、圧倒的な威圧感。
彼の右目には分厚い革の眼帯が当てられ、無数の火傷の痕が刻まれた太い腕には、黒光りする巨大な金槌が握られていた。
「お、親方……!」
若いドワーフがみるみる青ざめ、直立不動になる。
「す、すみません! この人間の女が、こんな鉄クズの鍋を直せと無茶な難癖をつけてきまして……」
「鍋だと?」
老ドワーフ――この工房の親方であり、かつて私の背中にある『聖剣』を打ち直した伝説の鍛冶師、バルガスは、煩わしそうに私の方へ顔を向けた。
だが、彼の残された左目は、私が背負っている白銀の布に包まれた『聖剣』には、目もくれなかった。
彼の視線は、私が右手にぶら下げている、煤だらけで底のひしゃげた『黒い片手鍋』に、完全に釘付けになっていた。
「……ちょっと、それを見せろ」
バルガスは若者の言葉を完全に遮ると、私の手からひったくるような勢いで鍋を奪い取った。
彼は分厚い、タコだらけの指で鍋の表面の煤をこすり落とし、柄の接合部を食い入るように見つめ、大きく内側に湾曲した底のラインを、まるで至高の宝剣でも鑑定するかのように何度も撫で回した。その目は、完全に職人のそれだった。
「親方? そんなガラクタ、構うだけ時間の無駄で……」
「黙ってろ、馬鹿者が。……おい、小娘」
バルガスは、低く地響きのような声で私を睨みつけた。その鋭い左目が、かすかに震えている。
「この鍋の柄……ただの木じゃねえ。『火竜の顎骨』を極限まで薄く削り出して、耐熱と滑り止めとしてカシめてやがる。さらにこの鍋底の鋳鉄……微量だが、熱伝導と硬度を限界突破させるための『星隕石』が練り込まれてやがるな。……おい、なんだこの、常軌を逸した素材の無駄遣いは」
「星隕石……?」
それは、私も初耳だった。ただのやたらと頑丈な鉄鍋だと思っていたが、そんな神話級の希少素材が使われていたというのか。
バルガスは鍋を両手でしっかりと握りしめたまま、どこか懐かしむような、そして同時にひどく忌々しいものを思い出したような、複雑な笑みを浮かべた。
「十年ぶりだ。この、手首にズシリとくる『ふざけた重さ』と、馬鹿げた職人泣かせの注文の痕跡。……間違いない。こいつは、昔この俺が打った鍋だ」
「親方が!? 嘘だろ、伝説の鍛冶師が、なんでただの飯炊き鍋なんか……!」
若いドワーフが絶叫のような悲鳴を上げるのを完全に無視して、バルガスは残された一本の目で、真っ直ぐに私を射抜いた。
「……小娘。お前、あの『無精髭のふざけた男』の、一体何なんだ?」




