第32話:英雄という名の呪いと、極上のブイヤベース
一瞬の静寂の後。
港を揺るがすような、爆発的な歓声が沸き起こった。
「うおおおおおっ!! すげえええっ!!」
「たった一人であの化け物を倒しやがった! あの兄ちゃん、すげえ錬金術師だぞ!」
「あんた、俺たちの命の恩人だ!!」
漁師たちが一斉にカイルの乗る船に飛び乗り、彼を胴上げせんばかりの勢いで取り囲んだ。
「え、あ、いや……俺は別に助けようとしたわけじゃ……っ、ちょ、触るなむさ苦しい!」
もみくちゃにされるカイル。
彼は混乱していた。自分はこの海を腐らせようとした悪党だ。なのに、気づけば街の住人たちから、英雄として熱狂的な称賛を浴びているのだから。
私はゆっくりと立ち上がり、彼らの船へ飛び移った。
「さすがだな、若き天才学者殿」
私がわざとらしく拍手をしながら近づくと、漁師たちが道を開けた。
「ル、ルミナ……お前、一体何のつもりだ。俺は……」
カイルが引きつった顔で私を睨む。私は彼の耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえない声で囁いた。
「お前が欲しかったのは『持てる者としての承認』だろう? 良かったな、彼らはお前を『街を救った英雄』だと信じて疑わないぞ」
「ふ、ふざけるな……俺はそんなお遊びのために……!」
「いいや、お前はもう逃げられない」
私はカイルの肩を、ガシリと強く掴んだ。
「英雄の肩書きってのはな、ひどく重くて泥臭い『鎖』だ。お前はもう、彼らの期待を裏切って海を汚すことはできない。次また魔物が出たら、お前は英雄として、誰よりも先に矢面に立ってこの街を護らなきゃならないんだ」
カイルは息を呑んだ。
私がかつてアルトに背負わされ、そして一人で抱え込んで苦悩した『英雄の呪い』。
それを今度は、承認欲求の塊であるこの弟弟子に、そっくりそのまま丸投げしてやったのだ。
「……っ、この、悪魔め……」
「なんとでも言え。アルトの知恵を悪用するような暇があるなら、その頭脳でこの街の生態系と漁師の生活を護ってみせろ。……頼んだぞ、弟弟子」
私が肩を叩いて離れると、カイルは顔を真っ赤にして俯いた。
だが、その表情は怒りだけではない。自分の知識が完璧に証明され、人々から称賛される状況に、彼のコンプレックスは間違いなく『極上の満足感』を得ていた。
「さあ! 海の化け物も倒したし、今夜は盛大な宴だ! 若き英雄様と、ルミナ様に、世界一美味い飯を食わせてやるぞ!」
オヤジさんが大声で叫び、港中が歓喜の渦に包まれた。
* * *
その夜。
港の酒場は、むせ返るような海鮮の香りと熱気に包まれていた。
「お待ちどお! ポルト名物『漁師風ブイヤベース』だ!」
私の目の前にドンッと置かれた大鍋。
トマトと黄金色の香辛料で煮込まれたスープの中には、これでもかというほど大量の白身魚、エビ、そして丸ごとのカニがぶち込まれていた。
「いただきますっ!」
私は脇目も振らずに木製のスプーンを突き立て、熱いスープを口に運んだ。
――美味い。
幾重にも重なった魚介の濃厚な出汁。エビやカニの殻から溶け出した香ばしい風味と、トマトの心地よい酸味が、疲労しきった筋肉に染み渡っていく。大ぶりに切られた白身魚は、口に入れた瞬間にホロリと崩れるほど柔らかい。
「はぁぁ〜っ……生きてて良かった」
私が満面の笑みで二杯目のスープをよそっていると、不意にテーブルの前に人影が立った。
「……美味そうに食いやがって、筋肉だるま」
見上げると、漁師たちの輪からなんとか抜け出してきたらしいカイルが、酒で少し顔を赤くしながら立っていた。
「どうした、若き英雄殿。もう信者の相手はいいのか?」
「ふん、ただの阿呆どもの相手などしていられるか」
カイルは鼻で笑い、そして少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……勘違いするなよ。俺はあの鍋のアシストの借りを返していないのが気持ち悪いだけだ。今回はたまたまお前に譲ってやったが、これで勝ったと思うなよ。次会った時は必ず……俺の『理』がお前たちを超えていることを証明してやる。せいぜい首を洗って待っていることだな!」
カイルはマントをバサリと翻し、酒場からクールに立ち去ろうと背を向けた。
完璧な、ライバルとしてのカッコいい捨て台詞。
――しかし。
「あーっ! 英雄様がこんなところに!」
「先生! 抜け駆けはずるいぞ! さあさあ、次は俺の注いだエールを飲んでくだせえ!」
彼が三歩も歩く前に、酔っ払った屈強な海の男たちがわらわらと群がり、あっという間にカイルをわやくちゃに囲んでしまった。
「なっ、ちょ、お前ら! 離せ! 俺はクールに去る……痛っ、誰だ俺の頭撫でた奴! 悪の錬金術師だぞ俺は! やめ……っ、んぐんぐ……ぷはぁっ!」
文句を言いながらも、結局注がれた酒をきっちり飲み干しているカイルを見て、私はたまらず吹き出した。
ひねくれ者の彼には、あの『泥臭い宴の輪』の中が一番の特効薬だ。
「……最高の肴だな」
私はクシャクシャに揉まれる弟弟子に向かって、冷たいエールの入った木製ジョッキを掲げた。
グビッと喉を鳴らして冷たいエールを流し込み、間髪入れずに熱く濃厚なブイヤベースを口へ運ぶ。海鮮の深い旨味と麦酒の爽やかな苦味が口の中で絶妙に混ざり合い、最高の多幸感が脳を突き抜けた。
鍋のスープを一滴残らず平らげると、私は背中に自分の『黒い片手鍋』を背負い直した。
この街の明日は、新しい英雄が上手く護っていってくれるだろう。
夜風に吹かれながら酒場をこっそりと抜け出し、私は次の街へと向かう道を見上げた。
星空の下、私の鼻が、まだ見ぬ美味い飯の匂いを求めてピクピクと動く。
世界は広くて、泥臭くて、そして――とびきり美味しい。
黒い片手鍋を背負った私の旅は、まだまだ終わらない。




