第31話:黒鍋の穿孔と、氷結の錬金術
ザバァァァッ!! と海が割れ、クラーケンの無傷の最大触手が、天を衝くように高く持ち上がった。
直径にして数メートル。無数の吸盤がびっしりと並んだ赤黒い肉の柱が、網にもつれて身動きの取れないカイルの頭上に覆い被さる。
「ちぃっ……!」
カイルの顔が絶望に歪む。
錬金術や生態学の知識がどれほどあろうと、この絶対的な『質量(物理)』の暴力を前にしては無意味だ。振り下ろされれば、船ごとミンチになる。死を悟った彼が目を閉じた、その瞬間。
――そこまでだ、弟弟子。これ以上は、姉の責任の範疇だ。
私は全身の悲鳴を上げる筋肉を強制的に叩き起こし、残された全魔力を右腕の筋肉繊維一本一本にまで練り込んだ。
足元に転がっていた『黒い片手鍋』の柄を逆手に握り込む。
狙うは一つ。クラーケンの巨大な八つの目が密集する、眉間の急所のみ。
「ふぅぅぅっ……シィッ!!」
鋭い呼気と共に、踏み込んだ甲板がドゴォッ!と爆ぜてひび割れる。
下半身から生み出された莫大な運動エネルギーを、腰の回転、肩、腕へと伝え、鞭のようにしならせた右腕から、黒鍋を大空へ向けてぶん投げた。
ズドォォォォォォンッ!!!
空気を切り裂くというより、空間そのものを撃ち抜いたような轟音が港に轟いた。
大砲の弾と化した分厚い鉄鍋は、恐るべき速度で宙を駆け上がり――クラーケンの眉間のど真ん中へ、寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
「ビギィィィィィャァァァァァッ!?」
数百トンの巨体を誇る海魔が、悲鳴を上げて大きくのけぞった。
ぶ厚い皮膚を陥没させ、脳髄を直接揺さぶる強烈な物理打撃。クラーケンの八つの目が一斉に焦点を失って白濁し、カイルを粉砕しようとしていた最大の触手が、鼻先数センチのところで空を切って海面へダラリと崩れ落ちた。
「な、なんだ……!?」
へたり込んだカイルが、目を開けて呆然と私を見る。
「何をしている、弟弟子! 下準備はしてやったぞ!」
私は鍋を投げ終えて痺れる右腕をぶら下げたまま、甲板から怒鳴りつけた。
「さっさとメインディッシュ(とどめ)を出しやがれ! それともお前には、あのデカブツを料理する『知識』がないのか!」
「……っ!!」
私のその煽り文句が、死の恐怖で凍りついていたカイルの心臓に強烈な火を点けた。
彼は自分が私に命を救われたことよりも、「知識がないのか」と姉弟子にコケにされたことに、何倍も激しくキレたのだ。
「誰に向かって口を利いている、筋肉だるまが!!」
カイルは網を強引に引きちぎり、調合帯から最も大きな『黄色い薬液瓶』と『緑の薬液瓶』の二本を同時に引き抜いた。
そして、脳震盪を起こして動きを止めているクラーケンの巨体に向かって、船の帆柱を蹴り上げて高く跳躍した。
「俺は、才能になんて負けない! これが俺の『理』だァァァッ!!」
空中でカイルは、両手の薬液瓶を思い切り激突させ、意図的に粉砕した。
二つの液体が空中で混ざり合い、発光しながらクラーケンの脳天へと降り注ぐ。
その瞬間。
シュゴォォォォォォォォッ!!! という、耳をつんざくような異常な吸気音が響き渡った。
「なっ……海が、凍っていく!?」
漁師の誰かが叫んだ。
それは、究極の『吸熱と膨張』の錬金反応だった。
薬液はクラーケンの体表の水分と粘液に触れた瞬間、周囲の熱を一瞬にして奪い去り、絶対零度に近い冷気を放ちながら巨大な『氷の結晶』へと爆発的に膨張し始めた。
クラーケンの巨大な頭部が、メキメキと音を立てて内側から白い氷に侵食されていく。
「ギ、ギヂヂヂ……ッ!」
細胞内の水分ごと急速凍結させられたクラーケンは、逃れることもできずにもがく。だが、薬液の反応は止まらない。氷は肉を裂き、血管を凍らせ、脳髄の中まで鋭い棘を伸ばして肥大化していく。
生物の肉体という『閉鎖空間』の中で、氷が際限なく膨張を続ければどうなるか。
答えは、内圧による完全な破裂だ。
パァァァァァァンッ!!!!!
爆弾が弾けたような轟音と共に、クラーケンの巨大な頭部が、内側から突き破った無数の氷の刃によって完全に粉砕された。
赤い血と白い氷の破片が、まるで美しい吹雪のように海面へと降り注ぐ。
脳を完全に破壊された海の魔物は、残された触手をビクンと一度痙攣させると、そのままズブズブと暗い湾の底へと沈んでいき、完全に沈黙した。
「……ふん。他愛もない」
甲板にふわりと着地したカイルは、震える両膝をごまかすように、灰色のマントをバサリと翻して見得を切った。
港に、信じられないものを見たというような静寂が舞い降りたのだった。




