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第29話:怒れる海魔と、姉弟子の舌戦


「やったぞ! 海が戻った……って、えええええっ!?」

 漁師たちの歓喜の声が、一瞬にして絶望の悲鳴へと変わった。

 赤潮が消え、澄んだ水が戻った湾の中央。そこから突然、ドバァァァァッ! と巨大な水柱が上がり、家屋ほどの大きさの赤黒い魔物が姿を現したのだ。

「中型のクラーケン……っ!?」

 無数の太い触手をうねらせ、八つの不気味な目で港を睨みつける海の魔物。

 どうやら、私が湾の底まで力任せに引っ掻き回したせいで、深海で心地よく眠っていたところを叩き起こされ、激怒して浮上してきてしまったらしい。

「ひぃぃっ! 船が沈められるぞ! 逃げろぉぉっ!」

「ルミナ様! お、お願いしやす! あの化け物を聖剣で……!」

 波止場へ逃げ帰ってきたオヤジさんが、拝むように私にすがりついてくる。

 ……が、私は甲板の上に大の字に寝転がったまま、指一本動かす気が起きなかった。

 先ほどの常軌を逸した「海かき回し大作業」で、私の体力も魔力も完全にすっからかんなのだ。今あのヌメヌメした巨体に突っ込んでいけば、極上ブイヤベースを食う前に、私がクラーケンの極上ダシにされてしまう。

「あー……これは困ったな。ひどく面倒だ」

 私がぼやきながら防波堤の方へ視線を向けた、その時。

 物陰から、私たちがクラーケンに蹂躙されるのを「ざまあみろ」と言わんばかりにニヤニヤと見物している、灰色のマント――カイルの姿を発見した。

 その瞬間。私の頭の中で、ある『悪魔的な名案』が閃いた。

 ――あいつ、自分が特別な才能を持たないことにコンプレックスを抱き、私のような『英雄』をひどく妬んでいたな。

 なら、彼に『英雄の席』を譲ってやればいいのだ。

「おーい! そこに隠れているカイル!」

 私は甲板から身を乗り出し、わざと漁師たちにも聞こえるような大声で叫んだ。

「お前の自慢の『生態系を崩す知識』じゃあ、ああいう規格外の単体の魔物はどうにもならないよな! ほら、早く逃げろ! 巻き込まれて死ぬぞ!」

 ピキッ、と。

 防波堤の陰にいるカイルの肩が、不自然に跳ねたのが見えた。

「なんだと……?」

 彼が低く唸るが、私は構わず煽り続けた。

「仕方ないさ! お前には私みたいな『魔法の才能』も『聖剣』もないんだから! ああいう分かりやすい化け物を倒すのは、才能を持った特別な勇者の仕事だ。持たざる泥臭い人間には、ちと荷が重すぎる!」

 わざと、彼が最も忌み嫌っている言葉――「才能」と「持たざる者」というフレーズを強調して投げつける。

「だ、黙れ……! 俺の構築した罠を力任せに壊しただけの筋肉だるまが……!」

「筋肉で悪いか! 今その筋肉が品切れ中だから困ってるんだ! あーあ、ここに『物理とことわりで世界をねじ伏せる頭脳』を持った都合のいい天才でもいれば、あんなイカの化け物くらい一瞬で片付けてくれるのになぁ!」

 カイルの表情が、屈辱と怒りで真っ赤に染まる。

 彼はギリッと歯軋りをした後、調合帯から数本の薬液の小瓶を引き抜き、防波堤の上へその姿を現した。

「……言ったな、姉弟子」

 カイルの目は、クラーケンへの恐怖ではなく、私に対する強烈な対抗心でギラギラと燃え上がっていた。

才能チートなんかなくても、知識ルウルで世界をねじ伏せられることを、特等席で見せてやるよ。俺の力から、目を逸らすなよ!」

 カイルは身軽な動きで防波堤を蹴り、クラーケンに最も近い船の舳先へと飛び乗った。

 よし、見事に釣れた。

 私は心の中でガッツポーズを決めながら、仰向けに寝転がって弟弟子の雄姿をのんびりと見物することにした。

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