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第28話:海を混ぜる大鍋と、敗北の弟弟子


「海を、かき混ぜる……? あんた、正気か!?」

 波止場の老漁師が目をひん剥いて叫んだ。無理もない。広大な湾の水を全てかき混ぜるなど、人間の力でできることではないと思っているのだ。

「正気だ。よく見ろ、この赤い虫(澱み)が湧いているのは、波が立たない湾の奥、水面近くの層だけだ。なら、底の方にある綺麗で冷たい水と、外海の荒波を強制的に引っ張り込んでやればいい」

 私は背負っていた片手鍋をドンと足元に置き、停泊していた一番大きな漁船に飛び乗った。

 そして、船の甲板に転がっていた『折れた巨大な帆柱マスト』を拾い上げ、両手でしっかりと構えた。

「私が一番デカい『木べら』で先陣を切る。オヤジさんたちは船を横一列に並べて、一斉に海を叩け! 空気(息吹)を水の中に叩き込みながら、この澱みを外海へ押し出すんだ!」

 私は身体強化の魔力を全身の筋肉に巡らせた。

 聖剣を振るうためではない。ただひたすらに、重く巨大な木の柱で、海水を力任せに掻き回すためだ。

「ふんっ!!」

 気合いと共に、帆柱を赤い海面に叩き込み、大きく円を描くように振り抜く。

 ドゴォォォォンッ!!

 まるで巨獣が海に飛び込んだかのような水柱が上がり、停滞していた海面が大きく波打った。私の人間離れした腕力が生み出した巨大な渦が、湾の底から澄んだ海水を巻き上げ、同時に大量の空気を水の中へと引きずり込む。

「なっ……なんだあの馬鹿力は……! まるで水竜じゃねえか!」

「すげえ……! 本当に、海が混ざっていくぞ!」

 私のその常軌を逸した力技(物理)に、絶望していた漁師たちの目に火が点いた。

「勇者様が泥水被って海を混ぜてんだ! 海の男が陸で震えててどうする!」

「船を出せ! 網を降ろしてを漕げ! 湾の底から引っ掻き回せ!!」

 老漁師の号令で、港中の男たちが次々と船に乗り込んだ。

 数十隻の漁船が横一列に並び、一斉に網を引き、巨大な艪で水面を叩き始める。

 バシャアァァッ! ザバァァァッ! と、無数の水飛沫が湾内に弾けた。

 それは、魔法のような一瞬の奇跡ではない。

 汗と塩水にまみれた、ただの泥臭い重労働の連鎖だ。

 だが、その『無数の木べら』が生み出した巨大な人工の海流は、確実に赤い澱みを切り裂き、海の中に新鮮な空気を溶かし込んでいった。

 数時間後。

 湾の奥に滞留していた赤褐色の澱みは、漁師たちの執念の攪拌によって完全に押し流され、外海の荒波へと拡散されて消え去った。

 空気を吸い尽くして海を殺していた赤い虫たちは、外海の広い水と混ざり合ったことでその異常な密度を保てなくなり、自然の理の中へと霧散していったのだ。

「……はぁ、はぁっ」

 私は折れた帆柱を放り出し、甲板に大の字に寝転がった。全身の筋肉が悲鳴を上げ、服は海水の塩で真っ白になっている。だが、鼻を突いていた生臭い腐敗臭は消え、代わりに懐かしい潮の香りが戻ってきていた。

「やった……! やったぞ! 海の色が戻った!」

「底の魚たちも動いてる! 海が、息を吹き返したんだ!!」

 漁師たちが、船の上で抱き合いながら歓喜の声を上げている。

 私はゆっくりと身を起こし、防波堤の上を見上げた。

 そこには、灰色のマントを羽織ったカイルが、まるで幽霊でも見たかのような顔で立ち尽くしていた。

「馬鹿な……。俺が完璧に計算して構築した連鎖的崩壊のトラップを……ただの『力仕事』で、かき消したっていうのか……?」

 カイルの手から、薬品瓶がポロリとこぼれ落ちて砕けた。

 彼は理解できないのだ。物理や環境を操作する知識は同じでも、私と彼とでは、決定的に『使い方』が違うということを。

「言ったはずだ、カイル。私はお前が思っているような勇者様じゃない」

 私は甲板から、呆然とする弟弟子に向かって真っ直ぐに指を突きつけた。

「アルトの教えは、世界を壊すための知識じゃない! 誰かと共に汗を流し、泥にまみれて、明日も美味い飯を食うための『生活の知恵』だ! お前の薄っぺらい嫌がらせなんぞ、束になった人間の生活力ちからでいくらでも洗い流してやる!」

 その言葉に、カイルはギリッと血が出るほど唇を噛み締めた。

 憎悪と、そして自らの完璧な理屈が『人間の泥臭さ』に敗北した屈辱。

「……ふざけるな。こんなもの、まぐれだ。俺は認めない。あいつの……アルトの教えが、そんな泥水みたいなものだなんて、絶対に認めるものか……っ!」

 カイルは身を翻し、再び姿を消した。

 だが、その背中は、最初に出会った時のように余裕のあるものではなく、完全に追い詰められた子供の逃走だった。

「ルミナ様! ありがとうございました! これでまた、漁に出られます!」

 老漁師が、私の船に飛び乗ってきて深々と頭を下げた。

「ああ。……オヤジさん。海が戻ったなら、今夜は期待してもいいんだな?」

 私が疲労で震える腕で自分のお腹をさすると、オヤジさんは皺くちゃの顔を綻ばせて、ニカッと笑った。

「もちろんでさぁ! 港で一番の魚とエビをぶち込んだ、極上の『漁師風ブイヤベース』を、腹がはち切れるまでご馳走しますよ!」

 その言葉を聞いて、私は甲板にもう一度仰向けに倒れ込んだ。

 全身は痛むが、どうやら今夜も、最高の飯にありつけそうだ。

 逃げた弟弟子のことは気がかりだが……彼を完全に「おたま」で叩き直すのは、この美味いブイヤベースを平らげた後でも遅くはないだろう。

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