第27話:息絶える海と、赤い澱み
南の港町『ポルト』に到着した私を出迎えたのは、楽しみにしていた漁師風ブイヤベースの美味そうな匂い……ではなかった。
「……なんだ、この生臭さは」
港に足を踏み入れた途端、鼻をついたのは、ひどく淀んだ泥水と死んだ魚の腐敗臭だった。
活気にあふれているはずの市場は閑散とし、漁師たちは網を手入れすることもせず、ただ絶望的な顔で海を見つめている。
彼らの視線の先、船が停泊する湾内の海面は、本来の青さを完全に失い、不気味な『赤褐色』に染まり上がっていた。
「オヤジさん。この海、一体どうしたんだ?」
私は、波止場にへたり込んでいる年老いた漁師に声をかけた。
「……旅人さんか。見りゃ分かるだろ、海が『息の根を止められちまった』んだよ」
老漁師は力なく首を振った。
「数日前から、北の森から流れ込む川の水が変な色になってな。それからあっという間に、海がこんな赤い澱みに覆われちまった。この赤い水の中じゃ、魚も貝も息ができなくて、みんな浮かんで死んじまうんだ」
私は無言で波止場の階段を降り、背中の黒い片手鍋に海水を少しだけすくい取った。
赤褐色の海水を顔の近くまで寄せ、じっと観察する。
――ただの毒じゃない。
水の中には、目に見えないほど極小の『赤い虫(微生物)』が、あり得ないほどの密度でひしめき合っていた。
「……森の腐敗物か」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
カイルの奴だ。あの森でシダを枯らし、生態系を腐らせたのは、ただ森を壊すためだけじゃなかったのだ。
森で大量に発生した腐敗物と、彼が撒いた錬金薬液が混ざり合い、異常な『養分』となって川から海へと流れ込んだ。その結果、この赤い虫たちが爆発的に増殖し、海中の空気を吸い尽くして『酸欠状態』を引き起こしているのだ。
「ふはっ、見事な観察眼だ。さすがはアルトが自慢していた一番弟子だな」
不意に、防波堤の先端から嘲るような声が響いた。
振り返ると、海風に灰色のマントをはためかせたカイルが、積み上げられた木箱の上に座っていた。
「カイル……!」
「どうだ? 剣を振り回すだけの勇者様には、この現象は理解できないかと思ったが。さすがにあの男の教えを受けているだけのことはある」
カイルは薬品瓶を弄りながら、赤い海を満足げに見下ろした。
「森の生態系を少し弄って、大量の餌(養分)を海に流してやっただけさ。たったそれだけで、海の小さな命どもは勝手に増えすぎ、自分たちで自分たちの首を絞めて酸欠で死んでいく。……笑えるだろう? これが『自然の摂理』を利用した、最高に効率的な破壊だ」
「何が自然の摂理だ」
私は片手鍋の中の赤い海水を、ザバァッと海に捨てた。
「お前がやっていることは、生態系の均衡を悪意で捻じ曲げているだけだ。そんな薄っぺらい嫌がらせで、私から何を奪ったつもりだ?」
「奪ったさ。あんたのちやほやされる『勇者としての栄光』をな」
カイルの目が、ギラリと暗く光った。
「さあ、やってみろよルミナ。あんたのその腰の『聖剣』で、海を斬って浄化してみせろ! できないだろう? 魔法の才能と神の武器があっても、この広大な海の理の前じゃ、あんたもただの無力な人間だ!」
勝ち誇る弟弟子。
漁師たちも、私が『聖剣のルミナ』だと気づいたのか、縋るような、そして半ば諦めきったような目で私を見つめていた。
私は大きく息を吐き出し、背中の布巻き――聖剣の柄を、ポンと軽く叩いた。
「……お前、本当にアルトの話をまともに聞いていなかったんだな」
「なに?」
「海を斬る? 馬鹿か。そんなこと、この聖剣じゃ無理に決まっているだろう」
私が迷いなく言い切ると、カイルは一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
私はそのまま、波止場の老漁師に向き直った。
「オヤジさん。この湾は、波が穏やかすぎて海流が滞りやすい地形だな?」
「え? あ、ああ……。天然の防波堤みたいになってるから、外の荒波が入ってこねえんだ。だから普段は漁がしやすいんだが……」
「なるほど。だから赤い澱みが湾の奥に溜まって、空気が混ざらないんだな」
私は背中の黒い片手鍋を手に取り、ガンッ!と防波堤の岩に打ち付けた。
「カイル。お前は私に『聖剣で海をどうにかしろ』と言ったが、私がそんな見栄張りな勇者様に見えるか?」
私は、自分の手にある鉄の塊――泥と脂で黒く変色した愛用の鍋を、真っ直ぐにカイルへ突きつけた。
「鍋のスープが澱んで灰汁が溜まったら、どうするか教えてやる。剣で斬るんじゃない。底からかき混ぜて、空気を入れりゃいいんだ」
私は漁師たちを振り返り、かつてアルトに叩き込まれた、そして私が雪見町やグレンツェで実践してきた『泥臭い知恵』の号令をかけた。
「オヤジさん! 街で動かせる船を全部出せ! 湾の入り口に船を並べて、一斉に網と艪で海をかき混ぜるんだ! 海の底に空気を送り込んで、この赤い澱みを外海へ押し出すぞ!」




