第26話:紫の毒煙と、姉弟子の片手鍋
シューゥゥゥッ、と不気味な音を立てて、枯れたシダ植物の群生から紫色のガスが噴き出し続ける。
「ゲホッ……!」
私は咄嗟に革袋の水を布に含ませ、口と鼻を覆った。
鼻を突く甘ったるい匂い。そして、ガスが風に乗って上へ登るのではなく、足元にねっとりと這うように広がっていく動き。
――空気より重い、可燃性の有毒ガス。
おそらく、枯死したシダが発する腐敗ガスに、カイルが何らかの『錬金術の薬液』か『特殊な粉』を撒き、強制的に性質を変質させているのだ。
このまま放置してガスの濃度が上がれば、わずかな静電気や摩擦の火花一つで、森の一部を吹き飛ばす大爆発(粉塵の連鎖発火)を引き起こす。
「……聖剣を振って足掻け、と言ったな。カイル」
私は背中の布巻きの聖剣を、きつく縛り直した。
こんな高濃度の可燃性ガスの中で、金属の剣を振り回して岩や木に当てでもしたら、それこそ火花が散って一巻の終わりだ。あいつは、私が「力任せに剣を振るうことしか知らない馬鹿な勇者」だと思い込んでいるからこそ、この罠を仕掛けたのだ。
「悪いが私は、お前が思っているような『勇者様』じゃない!」
私は腰から背中の『黒い片手鍋』を引き抜き、全速力で森を駆け抜けた。
目指したのは、数十メートル先にある小さな沢だ。私は鍋にたっぷりと泥水をすくい上げると、ガスが噴き出しているシダの群生地帯へ戻り、その中心に向かって泥水を力任せにぶちまけた。
ベチャァッ!!
泥が薬液ごとシダを分厚く覆い隠し、空気を完全に遮断する。
厄介な錬金反応であれ、ただの燃焼であれ、『元になる物質』か『空気』のどちらかを物理的に絶てば、現象は必ず止まる。泥と水による完全な窒息消火だ。
「よし、発生源は潰した。あとは滞留しているガスだ!」
私は鍋を放り投げ、身につけていた分厚い外套を脱ぎ捨てて両手で端を掴んだ。
そして、身体強化の魔力を足腰に集中させ、巨大なマントを扇のようにして、全力で下から上へと振り上げた。
バサァァァァッ!!
私の身体能力が生み出した強烈な人工の突風(上昇気流)が、足元に滞留していた紫色のガスを上空へと一気に巻き上げる。
どんな可燃性のガスも、風で散らされて薄まってしまえば、ただの臭い空気に過ぎない。私は何度も何度もマントを振り回し、ガスを安全な濃度にまで拡散しきった。
「……ふぅっ」
完全に紫色の煙が消え去ったのを確認し、私はその場にドサリと座り込んだ。
危機は脱した。だが、私の心には、ガスよりも重く不快な沈殿物が残っていた。
『あいつは嘘吐きだった。知恵があれば生き抜けると言いながら、結局世界を救ってもてはやされたのは、特別な才能を持ったあんたじゃないか』
カイルの憎悪に満ちた声が、耳にこびりついて離れない。
彼はアルトの教えを完璧に理解していた。だが、その知識を「明日を生き抜くため」ではなく、「持たざる者が、持てる者を引きずり下ろすための武器」として使っている。
「……馬鹿な奴だ」
私は地面に転がった黒い片手鍋を拾い上げ、泥を拭った。
アルトは、私に才能があったから自慢していたわけじゃない。見栄張りで頑固だった私が、泥にまみれて不格好に生きる強さを身につけたことを、ただ笑ってくれていただけだ。
だが、カイルにはそれが伝わらなかった。
彼は『聖剣の勇者』という私の虚像に囚われ、アルトの教えの本当の温かさを知らぬまま、冷たい物理の刃を研ぎ澄ましてしまったのだ。
「……放ってはおけないな」
私は立ち上がり、カイルが消えた南の森の奥を睨みつけた。
彼がこのまま森の生態系を壊し続ければ、森の川は死に、やがて南の港町『ポルト』の海も汚染される。そうなれば、楽しみにしていた『漁師風ブイヤベース』はおろか、ただの魚の塩焼きすら食えなくなるだろう。
「アルト。あんたの忘れ物は、姉弟子であるこの私が、きっちり腹の底から叩き直してやる」
私は片手鍋を背負い、まだ微かに腐敗臭の残る森の道を歩き出した。
英雄としての使命感ではない。美味い飯を護り、そして迷える弟弟子を泥水から引きずり上げるための、新たな旅の始まりだった。




