第20話:白狼の骨太スープと、雪見の温泉
魔王の残滓を溶かし、銀月峠の生態系が息を吹き返してから三日後。
雪見町の酒場に、これ以上ないほど濃厚で、食欲をそそる獣の脂の匂いが立ち込めていた。
「お待ちどお! 峠が開通して猟師たちが仕留めてきた一番新鮮な白狼の骨を、三日三晩、薪を絶やさずに煮込み続けた特製『白狼の骨太スープ』だ!」
親父がテーブルにドンッと置いた大きな鉄鍋の中で、白濁したスープがグツグツと煮立っている。時間をかけてじっくりと骨の髄から引き出されたコラーゲンと旨味が、ぶつ切りの根菜と合わさって、暴力的なまでの湯気を上げていた。
「三日間、この匂いを嗅がされながら待ったんだ。……さあ、食うぞ」
「「いただきますっ!!」」
私の号令と共に、向かいに座るジンとロルフが、猛然とそれぞれの木椀にスープをよそってかぶりついた。
私も一口、熱いスープを啜る。
――美味い。
三日間という時間だけが作れる濃厚な旨味と、極寒の地を生き抜く魔物特有の上質な脂が、五臓六腑にじわぁっと染み渡っていく。添えられた粗挽きの黒胡椒が、味の輪郭をピリッと引き締めていた。
「くぅ〜っ! 沁みるでぇ! 氷漬けになりかけた甲斐があったわ!」
「美味しい……! 教会の修道院で食べてた薄味のスープとは、全然違う……!」
魔王の残滓との死闘で消費した体力と、この三日間の「お預け」の反動をぶつけるように、私たちは無言で鍋の底が見えるまでスープを平らげた。
食後。すっかり私の弟分――というより、よく懐いた犬のようになったロルフが、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「ルミナさん、ジンさん! 明日は僕が街を案内します! 東の通りに美味い串ウサギの店があるんです。それから、雪国といえば絶対に外せない名所が……『温泉』です!」
「おおっ、温泉ええな! アウレリアみたいな都会の泥水やのうて、本物の天然掛け流しやろ!」
ジンが算盤を置き、前のめりに食いつく。
温泉、か。
私は空になった椀を見つめながら、自然と口元を緩ませていた。
あの不器用な男なら、絶対に飛びつく提案だろうな、と。
* * *
翌日。私は雪見町の外れにある、雪山の斜面を切り開いて作られた岩風呂の女湯に一人で浸かっていた。
男湯の方からは、ジンとロルフが何やら騒いでいる声が微かに聞こえてくる。
頭上には舞い散る粉雪。だが、肩まで浸かったお湯はちょうどいい熱さで、強張っていた筋肉を芯から解きほぐしていく。微かに香る硫黄の匂いが、心地よかった。
――ふと、昔の自分の『堅物っぷり』を思い出す。
あれは、アルトとの旅が始まってまだ間もない頃。山中で湧き出る野湯を見つけた時のことだ。
『おいルミナ、いい湯加減だぞ! ほら、お前もさっさと鎧を脱いで入れ!』
嬉々として湯に飛び込んだアルトに対し、当時の私は、眉間にシワを寄せて激怒していた。
『ふざけないでください! 勇者がのんびりと湯浴みなど! 魔王が世界を脅かしているこの時に、少しでも先へ進むべきです!』
休むことは悪だと、本気で信じていた。
そんな私に、アルトはお湯で顔を洗いながら、呆れたようにため息をついたのだ。
『お前なぁ……気合いだけで蓄積した疲労が抜けるとでも思ってんのか? 温泉の熱で血の巡りを良くして、酷使した体の修復を早めるんだよ。使える回復手段を使わずに野営を続けるのは、ただの自殺志願者だ』
アルトは湯船の縁に腕を乗せ、真剣な目で私を見た。
『いいか。休むことも、メシを食うのと同じ立派な「仕事」だ。明日、万全の状態で剣を振るために、今日はここで全身の力を抜け』
結局、彼のその理詰めの説得(物理的メリットの提示)に反論できず、私は渋々お湯に浸かる羽目になったのだ。
そして悔しいことに、翌日の体の軽さは、それまでの強行軍とは比べ物にならないほど劇的なものだった。
「……本当に、あの男の言う通りだ」
私はお湯をすくい、自分の顔にパシャリとかけた。
あの頃の自分が見たら、雪見酒でも頼みかねない今の私の姿に、きっと卒倒するだろう。
だが、私を形作っているのは、教会で教わった崇高な祈りではない。あの男から教わった、この『血の通った生活の知恵』なのだ。
「ぷはぁーっ! 姉ちゃーん! そっちの湯加減はどうやー!」
男湯の岩壁の向こうから、ジンの脳天気な声が響いてきた。
「ルミナさん! のぼせないように気をつけてくださいね!」
ロルフの生真面目な声も続く。
「心配するな。極上の湯だ!」
私は大きな声で返し、湯船の縁に寄りかかって、真っ白な雪景色を見上げた。
胃袋には美味いスープが収まり、体は芯まで温まっている。明日の生存率は、間違いなく百パーセントだ。
さて、雪見町での仕事は終わった。
新米勇者はもう自立できるだろう。ジンはここでしばらく、白狼の骨の交易ルートの開拓(ぼろ儲け)に精を出すらしい。
次は、どの街へ行こうか。
私の鼻が、まだ見ぬ美味い飯の匂いを求めてピクピクと動く。
世界は広くて、過酷で、そして――とびきり美味しい。
黒い片手鍋を背負った私の旅は、まだまだ終わらない。
(『旅の勇者と勇者の旅』 北国編・完)




