第2話:巡る旅路の火
パチ、と爆ぜた焚き火の粉が、夜の闇に吸い込まれて消えた。
使い込まれた黒い片手鍋の中で、干し肉と野草のスープがコトコトと音を立てて煮えている。湯気と共に漂う素朴な香りが、凍てついていた森の空気を少しだけ柔らかくしていた。
「ほら、煮えたぞ。冷めないうちに食え。……少しは落ち着いたか?」
私が木彫りの椀を差し出すと、焚き火の向かいで毛布に包まっていた少年が、ビクッと肩を揺らした。
「あ、ありがとうございます……」
泥だらけの顔を強張らせ、震える両手で椀を受け取る少年。その傍らには、身の丈に合わない真新しい長剣が、まるで縋り付くべき命綱のように置かれている。
先ほど、森の浅い場所でロック・ボアに襲われ、腰を抜かしていた新米冒険者だ。
その怯えきった横顔と、不釣り合いに立派な剣の輝きを見た瞬間。
私の脳裏に、すっかり埃を被っていたはずの古い記憶が、鮮烈な色彩を持って蘇ってきた。
「ふふふ」
思わず、鍋の縁を混ぜるお玉の手を止め、私はこぼれる笑みを隠すように口元を覆った。
「えっ……あの、僕、なにかおかしいこと……」
「いや、違うんだ。すまない。君を笑ったわけじゃない」
慌てる少年を宥めながら、私は夜空に浮かぶ欠けた月を見上げた。
なんとも奇妙なこともあるものだ。私が『勇者』としての使命を背負い、意気揚々と故郷を飛び出したあの日のことが、こんなにも鮮明に思い出されるなんて。
絶対の自信を持って携えていたはずの聖剣を、ただの「上等なおもちゃ」だと痛感させられた、泥まみれの記憶。
「まさか、あの時のあの人と同じ事を、私が繰り返すとはな」
ポツリとこぼした独り言は、パチパチという薪の鳴る音にかき消された。
――あの日も、今日と同じように土と腐葉土の匂いがした。
身の丈に合わない使命に押し潰されそうになりながら、それでも必死に虚勢を張っていた一六歳の私。
圧倒的な質量と暴力で迫り来るロック・ボアの前に立たされ、絶望に目を閉じた瞬間。
『そこ、右に三歩下がって伏せろ!!』
頭上から降ってきたあの呑気な声が、私の「本当の旅」の始まりだったのだ。
炎の揺らめき越しに見える少年の姿が、かつての情けない自分の姿と重なり、そしてゆっくりと熱の中に溶けていく。
代わりに脳裏に浮かび上がったのは、無精髭を生やし、酷く面倒くさそうに片手鍋を火から下ろす、あの男の横顔だった。
――ロック・ボアを押し潰した巨大な倒木を風除け代わりにして、ささやかな焚き火が揺れていた、あの夜。
『ほら、煮えたぞ。冷めないうちに食え。……少しは落ち着いたか?』
先ほど私が少年にかけたのと同じ、ぶっきらぼうだがどこか温かい声。
差し出されたのは、縁が少し欠けた木彫りの椀だった。中には、干し肉と幾つかの野草、それに得体の知れないキノコが浮いた熱いスープが入っていた。
『毒なんか入ってないから安心しろ。ただの野営飯だ。まあ、見た目はよくないがな』
アルトと名乗ったその男は、真っ黒に煤けた片手鍋を器用に扱いながら、悪びれもせずに笑っていた。
伝説の武器でもなんでもない、どこにでも売っているただの鉄鍋。しかし、彼がそれで作り出したスープからは、空腹と寒さで縮こまっていた私の胃袋を暴力的に鷲掴みにするような、たまらなく魅力的な香りが漂っていた。
恐る恐る口をつけた時の、あのじんわりとした熱。
干し肉の強い旨味と、野草の爽やかな香りが舌の上に広がり、凍えていた指先に血が巡っていく感覚。
張り詰めていた緊張が解けると同時に、私はたまらない情けなさに襲われたのだ。
(私、勇者なのに……。魔王を倒すために選ばれたのに……)
傍らに置かれた私の『聖剣』は、焚き火の光を反射してチカチカと瞬いていた。
それがひどく分不相応なものに思えて、私は思わず剣を背中に隠すように身を捩った。
『……お嬢ちゃん、王都を目指してるって言ってたな。こんな街道から外れた森を、そんな目立つ「おもちゃ」提げて一人で歩いてるなんて、どういう了見だ?』
スープを飲み干したアルトの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
『おもちゃ、じゃないです……っ! これは、教会から授かった「聖剣」です! 私は、魔王を討伐するために選ばれた、勇者なんです!』
恐怖と情けなさで縮こまっていた心が熱を持ち、思わず口をついて出た悲痛な叫び。不用意に身分を明かしてしまったと後悔する私を、彼はただ呆れたように、そしてひどく哀れむような目で見つめた。
『……勇者ねえ。なるほど、道理で剣の構えだけは立派だったわけだ』
彼は手近な木の枝を拾い、焚き火の灰をいじりながらため息をついた。
『だがな、勇者様。教本には「ロック・ボアは突進の前に必ず三回鼻を鳴らす」とか、「倒木を利用して自重で自滅させる方法」なんて書いてなかっただろ? 剣が立派でも、腹が減れば死ぬ。地形を知らなければ死ぬ。魔物の生態を知らなければ、今日みたいに呆気なく死ぬんだよ』
冷徹なまでの『事実』。それが私の胸に深く突き刺さった。
『世界を救う前に、自分の命の救い方を覚えな。……まあ、俺には関係のないことだがな』
そう言い捨てて、早々に毛布に包まってしまった彼の無防備な背中を、私はただ見つめることしかできなかった。
悔しかったが、彼が言ったことは何一つ間違っていなかった。自分は圧倒的に無知で、無力だ。
だからこそ、私は空になった椀をぎゅっと握りしめ、震える声で呼びかけたのだ。
『あ、あの……っ! アルト、さん! 私を雇ってください! いや、私があなたを雇います! 私の「旅の師匠」として、王都まで同行してもらえませんか!?』
それが、ただ義務で世界を救おうとしていた私が、この素晴らしい世界を知るための「本当の旅」に踏み出した、決定的な瞬間だったのだ。




