第1幕:交差するふたつの道
肺が、内側から焼かれているように熱かった。
吸い込む空気には湿った土と腐葉土の匂い、そして微かな血の臭いが混じっている。
ルミナは、泥に塗れた銀のブーツを必死に踏み出していた。だが、もつれた足は木の根に容易く弾かれ、彼女は無様な音を立てて斜面に転がり落ちた。
「っ……、あ……!」
擦りむいた頬の痛みよりも、背後から迫る重低音が彼女の心を凍らせる。
ズシン、ズシンという大地を揺らす足音。木々を薙ぎ倒し、枯れ枝を踏み砕きながら、それは確実な殺意を持ってルミナを追跡していた。
相対しているのは、四つ足の巨大な魔獣『ロック・ボア』。
牛ほどの巨体を持つその獣は、全身を岩のように硬質な甲殻で覆われている。森の木漏れ日を鈍く反射するその装甲には、先ほどルミナが渾身の力で振り下ろした聖剣の傷跡すら、まともに残っていなかった。
(だめだ、刃が通らない……!)
ルミナは立ち上がり、震える手で『聖剣』の柄を握り直す。
刀身は曇りのない白銀。勇者の証とされるその美しさは、今のルミナにはただ重く、冷たい鉄の塊でしかなかった。
故郷の村を旅立って、まだ三日。
村人たちの期待と祈りを一身に背負い、『勇者』として意気揚々と王都へ向かう街道を進んでいたはずだった。近道のために森を抜けようとしたのが間違いだったのだ。実戦経験の乏しい一六歳の少女は、道筋を外れ、縄張りを荒らされた魔獣の猛追を受け、早くも死の淵に立たされていた。
(私が、ここで死ぬ……? 魔王の影すら、見ていないのに?)
教本通りに重心を下げ、防御の型をとる。
だが、恐怖でガクガクと震える膝では、大地の踏ん張りが利かない。
十メートル先。立ち塞がる大樹の陰から、ロック・ボアがその巨体を現した。二本の巨大な牙が、ルミナの柔らかい腹を容易く抉り出そうと狙いを定めている。
ブルルルルッ、と魔獣が低く鼻を鳴らした。
太い後脚が、土を深くえぐり取る。
突進が来る。
防御など意味をなさない。圧倒的な質量の暴力。ルミナが死を覚悟し、目を固く閉じた、その瞬間だった。
「そこ、右に三歩下がって伏せろ!!」
頭上から降ってきたのは、緊迫感など微塵も感じさせない、ひどく呑気でよく通る男の声だった。
だが、ルミナの身体は声の持つ奇妙な説得力に、反射的に動いていた。
一、二、三歩。右へ跳び退き、水溜まりも気にせず地面に身を投げる。泥水が顔に撥ねた。
直後、ルミナの頭上を、ロック・ボアの巨体が凄まじい風圧と獣臭を伴って通り過ぎた。
ドンッ!!
という、地鳴りのような衝突音。
次いで、バキバキバキィッ!! という甲高い木の折れる音が森全体に響き渡った。
恐る恐る顔を上げたルミナの視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
ルミナのすぐ左後方にそびえ立っていた、幹が半ば腐りかけた巨大な老木。
突進の狙いを外したロック・ボアは、その老木にフルスピードで激突していたのだ。己の質量と速度が仇となり、老木は根本から無惨にへし折れ、数トンの重みを持つ巨大な幹が、魔獣の背中にそのまま圧しかかっていた。
「ギ、ギィイイイイッ!!」
甲殻ごと押し潰された魔獣が、倒木の下敷きになって無様に藻掻いている。
ルミナは口を開けたまま、その光景をただ見つめることしかできなかった。
「いやあ、助かった。あいつの突進の勢いを利用してぶつけないと、あの枯れ木、なかなか折れなくてさ。ちょうどルートの邪魔だったんだよな」
崖上の斜面から、ざざーっと土埃を立てながら、一人の男が滑り降りてきた。
年齢は二十代の後半か、あるいは三十代か。
使い込まれ、あちこち補修された革の鎧。背中には、彼自身の背丈ほどもありそうな、やたらと膨らんだ巨大なリュックサックを背負っている。
手には剣も杖も持っていない。代わりに握られているのは、なぜか黒く煤けた『片手鍋』だった。
「……え?」
呆然と座り込むルミナをよそに、男は倒木の下敷きになったロック・ボアにずかずかと近づいていった。
魔獣は怒り狂い、牙を剥き出しにして唸り声を上げるが、重い幹の下敷きでは身動きが取れない。
男は腰のポーチから、なにやら枯れた草の束を取り出すと、それを手の中でくしゃくしゃに揉みほぐした。ツンとした、鼻を突く強烈な刺激臭が漂い始める。
「ほらよ。お前ら、この匂い大嫌いだったろ」
男は、その草の束をロック・ボアの巨大な鼻先に容赦なく擦り付けた。
途端に、魔獣は雷に打たれたようにビクンと跳ね、ひどく嫌悪するように身をよじった。
フゴッ、フゴゴゴッ!! と、先ほどの威厳など欠片もない悲鳴を上げながら、倒木の下から強引に身体を引き抜き、甲殻が割れるのも構わずに一目散に森の奥へと逃げ去っていった。
後には、折れた老木と、静寂だけが残された。
「……な、なにを……? 今、魔法を……?」
「ん? 魔法? 違う違う。アレは『泥臭草』。あの手の甲殻獣が一番嫌う匂いなんだよ。昔、この辺りを旅した時に嫌ってほど絡まれてな。生態は把握済みさ。力任せに剣で斬り合うより、よっぽど早くて安全だろ?」
男は鍋をリュックの側面に器用に括り付けると、腰に提げた革袋の水筒を煽った。喉を鳴らして水を飲む姿には、戦闘後の緊張感など微塵もない。
「それに、ロック・ボアは肉が筋張ってて死ぬほど硬くて不味いんだ。何時間煮込んでも靴底みたいでさ。命がけで討伐しても、晩飯のおかずにならないんじゃ労力の無駄なんだよ」
ルミナは、彼が何を言っているのか理解するのに数秒を要した。
伝説の魔法でも、華麗な剣技でもない。
ただの『森の地形(物理)』と『旅の知識』。そして『晩飯になるかならないか』という究極に世俗的な判断基準だけで、男はあっさりと、新米勇者を追い詰めた絶望的な危機を退けてしまったのだ。
「あ、あんたは一体……」
泥だらけのルミナが、ようやく声を絞り出す。
男は口の端を拭うと、ルミナの胸元に輝く銀のペンダント――聖教会の勇者の証――をチラリと見て、人の良さそうな、どこか諦観の混じった笑みを浮かべた。
「俺? 俺はアルト。見ての通り、ただの通りすがりの、しがない旅人さ。……お嬢ちゃん、随分と上等な『おもちゃ』を持ってるな。使い方も知らないくせに、そんなもん提げて一人で森に入るなんて、死に急ぐにも程があるぜ」
痛いところを突かれ、ルミナは顔を赤らめて聖剣を背中に隠した。
言い返そうと口を開きかけた時、彼女の腹の虫が、ぐううぅぅ、と間の抜けた音を盛大に鳴らした。
限界まで走った疲労と空腹が、危機が去ったことで一気に押し寄せてきたのだ。
「……」
「……」
森の静寂の中、気まずい沈黙が流れる。
ルミナが恥ずかしさのあまり地面の穴に消えたいと思っていると、アルトは大きなため息を一つ吐いた。
「はぁ……。まあいい。ちょうど陽も落ちるし、今日はここをキャンプ地にするつもりだったんだ。この倒木、風除けにも焚き火の反射板にも丁度いいしな」
アルトはリュックを下ろすと、慣れた手つきで野営の準備を始めながら、肩越しにルミナを見た。
「どうする? 勇者様。一人で夜の森を彷徨って野垂れ死にするか、それとも、通りすがりの旅人の火に当たるか」
焚き火の準備のために枯れ枝を集める彼の背中を見つめながら、ルミナは思わず生唾を飲んだ。
これが、『これから世界を救う勇者』と、『かつて世界を救った勇者』の、最初の出会いであった。




