第16話:魔王の残滓と、消えた生態系
「魔王の……残滓、だと?」
私が怪訝な顔で聞き返すと、酒場の親父は重々しく頷いた。
「ああ。三年前に勇者様が魔王を討伐して、世界から魔の瘴気は薄れた。だが、巨大な魔力が抜け落ちた反動で、かつて魔王軍の拠点があった場所や、魔力が溜まりやすい極地には『残滓』と呼ばれる異常な魔力溜まりが発生することがあるんだ」
親父は暖炉の火に薪をくべながら、カウンターの奥の窓から吹雪く銀月峠の方角を指差した。
「あの峠に居座った『巨大な氷の塊』……あれはただの魔物じゃない。周囲の熱を無限に奪い、異常気象を引き起こす、魔王の冷気の残りカスさ。あいつが峠を塞いでから、気温が例年の倍は下がっちまった」
「なるほど、合点がいった」
私はジョッキの底に残ったエールを飲み干し、ドンとカウンターに置いた。
「白狼が消えたのは、峠が塞がれたからじゃない。……餌がなくなったんだ」
「えさ?」
親父が目を丸くする横で、ジンが算盤を弾きながらニヤリと笑った。
「せやな。極北みたいに獲物が少ない過酷な環境は、生態系のバランスが針の先みたいに尖っとる。気温が異常に下がれば、生態系の底辺におる雪ウサギや雷鳥みたいな小動物は、凍死するか、暖を求めて峠から逃げ出すしな」
「その通りだ」
私はジンの言葉を引き継いだ。
「生態系の底辺が崩れれば、それを捕食する白狼も生きていけない。餌を求めてさらに奥の雪山へ移動してしまったんだろう。……つまり、あの『氷の塊』をただ剣で砕いただけでは、すぐにはスープの出汁(骨)は手に入らないということだ」
「な、なんだって!?」
親父が絶望的な声を上げる。
「じゃあ、仮にあの化け物を討伐できたとしても、今年の冬はもう白狼は戻ってこないのか……? この街は冬の間、白狼の毛皮と骨の交易で食い繋いでいるっていうのに……!」
「まぁまぁ、オヤジさん。絶望すんのは早いで」
ジンは分厚い帳簿を開き、羽根ペンをクルクルと回した。
「生態系が崩れたんなら、無理やり回して『呼び水』を作ったればええ。小動物が峠に戻ってくるだけの『餌』を、外からドカンと撒いてやるんや。……例えば、秋の終わりに南の農村で大量に余った『クズ野菜』とか『規格外の干し肉』とかな」
ジンは私に向かって、悪戯っぽくウィンクをした。
「ルミナの姉ちゃん。アンタがあの『氷の塊』をどうにかして峠の気温を元に戻す間に、ワイが近隣の街から小動物用の『撒き餌』を底値でかき集めて、峠にバラ撒いたる。そしたら小動物が戻ってきて、それを追って白狼も戻ってくる。完璧なエコシステムやろ?」
「……相変わらず、悪辣で頼もしい算盤だ」
私は呆れながらも、口元に笑みを浮かべていた。
魔王の残滓。かつての私なら、その名前を聞いただけで「勇者の使命」と気負い込み、何も考えずに聖剣を抜いて突撃していただろう。
だが、今の私は違う。あれはただの『ちょっと厄介な冷気の塊』だ。熱力学と物理で溶かし、生態系を修復するだけの、ただの泥臭い仕事の一つに過ぎない。
「よし、親父さん。私がその『残滓』とやらを料理してくる。ジンは餌の手配と、白狼が戻ってきた時の交易ルートの確保だ。……報酬は、極上の『白狼の骨太スープ』のタダ食い券、一生分でどうだ?」
「い、一生分!? ……いや、街の死活問題が解決するなら安いもんだ! 頼んだぞ、旅人さんたち!」
親父の力強い声に背を押され、私たちは酒場を後にした。
外は相変わらずの猛吹雪だったが、冷え切った胃袋には、これから食べる熱いスープの想像という、何よりの燃料が燃えていた。
私は背中に負った『黒い片手鍋』の位置を直し、極寒の銀月峠へと続く雪道に、深く重い足跡を刻み始めた。




