第15話:北の雪見町と、凍りついた算盤
――あの日、アルトは猛吹雪の中で焚き火の番をしながら、真顔でこう言った。
『いいかルミナ。寒さってのはな、魔王よりタチが悪い。剣で斬れないし、防具をすり抜けて直接胃袋を冷やしにきやがる。だから北国を旅する時は、プライドを捨ててでも一番分厚い毛皮を着て、一番熱いスープを腹に入れろ』
その教えを忠実に守り、私は雪熊の毛皮をぐるぐると巻きつけたダルマのような格好で、猛吹雪の雪道をラッセルしていた。
「……着いた」
視界を白く染める吹雪の向こうに、巨大な丸太と石組みで囲まれた防壁が見えた。
北の玄関口、『雪見町』だ。
関所の門番に冒険者証を見せ、重い木の扉をくぐる。
街の中は、外の猛吹雪を防壁が遮ってくれているおかげで幾分マシだったが、それでも吐く息は真っ白に凍りつきそうだった。
私の頭の中は、アウレリアの街で聞いた「名物の『白狼の骨太スープ』」のことでいっぱいだ。冷え切った胃袋が、熱い脂と肉の旨味を今か今かと待ちわびている。
私は目抜き通りにある一番大きくて暖かそうな酒場を見つけると、雪を払って勢いよく木の扉を押し開けた。
「いらっしゃい! ……おや、見ない顔の旅人さんだね。こんな吹雪の中をよく来た!」
「熱いエールと、この街名物の『白狼の骨太スープ』を頼む。鍋ごと持ってきてくれ」
カウンターに陣取り、冷え切った手を暖炉の火にかざす。
ああ、生きてて良かった。あとはあの最高に美味いスープが来れば……。
「オヤジ! ワイにもそのスープくれ! あと、熱っついエール! 凍え死ぬわホンマ!!」
突然、私の隣の席に、雪だるまのように真っ白になった男が転がり込んできた。
ガチガチと歯の根を鳴らし、鼻水を垂らしながら暖炉にすがりついているその男の手には、どう見ても雪山には不釣り合いな『木製の算盤』が握りしめられている。
「…………は?」
私は我が目を疑った。
「ジン……? お前、なんでここにいるんだ」
「おっ、姉ちゃん! 奇遇やな!」
ジンは鼻水を袖で乱暴に拭うと、ニカッと笑って私の肩をバシバシと叩いた。
「奇遇じゃない。お前、アウレリアで商会を潰して、たんまり儲けたところだろう。なんでわざわざこんなクソ寒い北国まで来ている」
「いやぁ、アウレリアの相場はもう安定してもてな。ワイの算盤が『次は北や』って弾きよったんや。……それにな」
ジンはニヤリと、ひどく胡散臭い商人の顔になった。
「『勇者』が歩く場所には、必ず新しい流通ルートが開く。姉ちゃんがその片手鍋で魔物の群れを押し退けた後には、必ず美味い商売の匂いが残るんや。ワイは姉ちゃんという『優良銘柄』に投資することにしたんやで!」
「……ただのストーカーじゃないか」
私が呆れてため息をついた時だった。
酒場の親父が、申し訳なさそうな顔で熱いエールだけを運んできた。
「旅人さんたち、悪いね。エールは出せるんだが……肝心の『白狼の骨太スープ』は出せないんだ」
「「なんだと?」」
私とジンの声が、見事にハモった。
親父は困ったように頭を掻いた。
「今年の冬は異常でね。白狼の棲む『銀月峠』が、原因不明の雪崩で完全に塞がっちまったんだ。猟師たちも峠に入れず、スープの出汁をとる白狼の骨が一本も手に入らねえ」
「雪崩……ただの自然現象か?」
「それが、猟師の一人が言うには、雪崩の後に『巨大な氷の塊』みたいな魔物が峠を塞いで、氷の城壁を作っちまったらしくてな。街の冒険者も手が出せねえんだ」
私は静かにエールのジョッキを置き、隣を見た。
ジンもまた、真顔で算盤の珠をパチリと弾いていた。
「……オヤジ。白狼の骨の今の相場は?」
「そりゃあもう、通常の十倍でも買いたい商人が山ほどいるさ」
ジンは私の方を向き、ニヤァッと笑った。
「聞いたか姉ちゃん。物理的な障害(氷の城壁)と、莫大な経済的利益(骨の相場高騰)や。……どうやら、ワイらの『第二回・合同商談』の幕開けみたいやな」
「商談じゃない。私はただ、冷えた胃袋に美味いスープを入れたいだけだ」
私は立ち上がり、背中の黒い片手鍋をトンと叩いた。
どうやらこの北国でも、あの男の教えと私の『意地』を貫くための泥臭い仕事が待っているらしい。




