第13話:仕舞いの陣形と、盤上の崩壊
「ルミナさん! 群れの先頭がV字壕の底に到達しました! Uターン、始まります!」
煙に咽せながら、大剣を背負った護衛の若者が声を張り上げる。
私の目の前では、何十匹という泥トカゲの群れが、激辛スパイスの煙と金属音に追き立てられ、私たちが数時間がかりで掘り上げた巨大な溝に沿って、見事な弧を描きながら湿地の奥深くへと進路を変えていた。
「よし、いいぞ! 煙を絶やすな! 最後の一匹まで完全に湿地の深泥へ押し込め!」
私は片手鍋をガンガンと打ち鳴らしながら、自らも泥水に膝まで浸かって群れの殿を追う。
跳ね上がる泥飛沫で、私の顔も、使い込まれた革鎧も、背負った聖剣の布巻きも、すっかり黒く汚れきっていた。だが、不思議と不快感はない。
誰かを犠牲にする黄金の晩餐会に座っているより、こうして泥まみれになって明日を護っている方が、ずっと私らしく、ずっと『あの男』の背中に近いからだ。
「ギャウ……ルルル……」
やがて、狂乱香の成分が抜け始めたのか、先頭を走っていた巨大な泥トカゲが動きを止め、ズブズブと深い泥の中へと体を沈め始めた。
それを合図にしたように、群れ全体が次々と湿地の泥を掘り返し、本来の大人しい姿へと戻っていく。彼らが泥をかき混ぜるたびに、水脈に新鮮な空気が送り込まれ、ハルム農村へと続く地下水脈が豊かに脈打つ音がした。
「……終わったな」
私は片手鍋を下ろし、泥まみれの顔を腕で拭った。
若き冒険者たちも、屋台の親父も、全員が泥だらけになりながら、その場にへたり込んで歓声を上げている。
「すげえ……! 剣を一度も抜かずに、あの大群を鎮めちまった!」
「お姉ちゃん、あんたほんまにスゲェ勇者サマやで!」
「勇者なんかじゃないさ。ただの、美味い串焼きのファンだ」
私は笑いながら、西の空を仰いだ。
湿地の水脈は護られた。これで、物理的な防衛線は完璧に機能した。
あとは――盤上の戦いを請け負った、あの胡散臭い男の番だ。
* * *
同じ頃、アウレリアの街の中心部に聳え立つヴェランド商会の豪邸。
その最上階の執務室では、商会会頭が最高級のワイングラスを片手に、脂ぎった顔を紅潮させて高笑いしていた。
「はっはっは! 見ろ、湿地の空に煙が上がっておる! 計画通り、泥トカゲどもが暴走しおったわ!」
「おめでとうございます、会頭! これでハルム村の小麦畑は水脈を絶たれて全滅。我が商会が買い占めた先物小麦が、街の市場を独占することになりますな!」
部下の商人たちも、グラスを掲げてヨイショの声を上げる。
会頭は窓の外の煙を眺めながら、いやらしく口元を歪めた。
「あの小生意気な勇者め。いくら剣の腕が立とうが、所詮は世間知らずの小娘よ。盤上の戦いでは、我ら商人の足元にも及ばんわ」
「――ほーん。そらまた、随分と底の浅い盤やこと」
突如、執務室の重厚な扉が蹴り開けられ、飄々とした声が響き渡った。
「な、なんだ貴様は!? 警備兵、何をしている!」
会頭が慌てて怒鳴るが、警備兵たちは扉の外で何者か(ジンの雇った荒くれ者たち)に押さえ込まれている。
悠然と部屋に入ってきたのは、片手に分厚い帳簿、もう片方に木製の算盤を持ったジンだった。
「お初にお目にかかるな、タヌキ親父。ワイはジン。しがない行商人や」
ジンは無遠慮に会頭の執務机の前に立つと、ドサリと帳簿を放り投げた。
「祝杯の途中で悪いんやけどな、アンタらの計画、全部『不渡り』になったで」
「……何を戯言を! 貴様のような下賤の者が、このヴェランド商会をコケにする気か!」
「戯言かどうかは、窓の外の煙の『色』をよう見てみぃや」
ジンが顎で窓をしゃくると、会頭は訝しげに目を凝らした。
湿地から立ち上る煙は、よく見れば不自然なほど赤茶色く、激辛スパイスの刺激臭が微かに風に乗って街まで届いていた。
「な、なんだあの煙は……?」
「ルミナの姉ちゃんが、アンタらの撒いた狂乱香を香辛料で上書きして、泥トカゲの群れを湿地の奥へ『誘導』した煙や」
ジンは算盤をチャキッと鳴らした。
「つまり、湿地はノーダメージ。水脈は健在。来月のハルム村の小麦は、過去最高の豊作間違いなしや」
「な……ば、馬鹿な!? あの大群を、剣も魔法も使わずに押し返したというのか!?」
「せや。そして、ここからがワイの仕事や」
ジンの目が、猛禽類のように鋭く細められた。
「アンタら、ハルムの小麦が全滅すると見越して、他所の先物小麦を今の相場の『五倍』の高値で大量に信用買いしとるな? そしてそれを、街の連中に『十倍』で売りつける気やった」
「……っ!! なぜ、お前がそれを……!」
「ところがどっこい。ハルムから極上の小麦が大量に流通すれば、市場の相場は大暴落する。アンタらが五倍の高値で買った小麦は、ただのゴミクズ同然の価値まで下がるんや」
ジンは算盤の珠を一気に払い、パチン、と最後の珠を一つだけ残して弾いた。
「ワイはな、アンタらが抱えとるその『高値の小麦』を、暴落する前に市場で全部『空売り』させてもろた。アンタらの負債は天文学的数字や。ヴェランド商会は、今日この瞬間をもって完全に破産やで」
会頭の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
手から滑り落ちたワイングラスが、床で甲高い音を立てて砕け散る。
「き、貴様ぁぁぁっ! 許さん! 許さんぞ! この街の経済を回しているのは我々だ! 我々が潰れれば、この街も終わりだぞ!!」
「あははっ! 冗談きついわ!」
ジンは腹を抱えて笑い、それから冷ややかな瞳で見下ろした。
「街を回しとるのは、アンタらの金貨やない。裏路地で汗水流して串焼き焼いとる親父や、泥だらけになって畑耕しとる農民や。……アンタらみたいな寄生虫が一匹死んだところで、明日の街はいつも通り、美味いパンの匂いで目が覚めるんやで」




