第12話:仕組まれた暴走と、匂いの防衛線
翌日の夕暮れ。アウレリアの西に広がる湿地帯から、地鳴りのような重低音が響き始めた。
「……始まったな」
湿地を見下ろす小高い丘の上で、私は風の匂いを嗅いだ。
水草と泥の匂いに混じって、ツンとした化学的な刺激臭が鼻を突く。ヴェランド商会が雇った暗躍者たちが、風上から大量の『狂乱香』を撒いたのだ。
泥の中で大人しくしていた泥トカゲたちが、刺激臭にパニックを起こし、何十匹という群れとなって街の方向へと暴走を始めている。
分厚い泥の鎧を纏った、全長数メートルの巨体の群れ。それが一丸となって押し寄せる様は、まさに泥の津波だった。
「ひぃぃっ! きたぞ! 泥トカゲのスタンピードだ!」
「城壁の門を閉じろ! 弩弓隊、構えっ!」
街の自警団がパニックに陥り、城壁の上で慌ただしく武器を構える。
このまま矢の雨を降らせれば、泥トカゲたちは全滅するか、あるいは狂乱状態のままさらに暴れ回り、農村側の水脈を完全に破壊してしまうだろう。それが商会の狙いだ。
「ルミナさん! 準備、できてますぜ!」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
そこにいたのは、あの峡谷で馬車の護衛をしていた三人の若き冒険者たちだった。リーダー格の青年は、昨日私が手渡した『ただの大剣』を、もう迷いのない顔で背負っている。
「ご苦労。……本当に良かったのか? こんなタダ働きの泥仕事に巻き込んでしまって」
「水臭いこと言わないでくだせえ。俺たち、アンタから『護るための剣の振り方』を教わったんです。この街の美味い飯と、罪のない魔物を護るってんなら、俺たちの剣はアンタの盾になりますよ」
若者たちがニカッと笑い、手にした巨大なスコップを肩に担ぎ直した。
彼らの足元には、数時間がかりで掘り上げた巨大な『誘導用の溝(V字壕)』が、湿地の入り口から街を逸れるようにして農村の反対側まで続いている。
「おおーい! 姉ちゃん! 頼まれたモン、持ってきたで!」
さらに城壁の裏門から、裏路地の屋台の親父が、汗だくになりながら手押し車を押して駆けつけてきた。
荷車の上には、山のような『泥臭草』と、親父が普段串焼きに使っている『特製激辛スパイス』が樽いっぱいに積まれている。
「ありがとう、親父さん。これで役者は揃った」
私は黒い片手鍋を背中で揺らし、大きく息を吸い込んだ。
「いいか、お前たち! 狙うのは『討伐』じゃない、『誘導』だ! 狂乱香の匂いを、親父さんの激辛スパイスを燃やした煙で上書きし、掘った溝のルートへ押し込む!」
「「「応っ!!」」」
若き冒険者たちが一斉に散り、溝の各所に配置されたスパイス入りの薪に火を放つ。
途端に、目から涙が出るほど強烈な香辛料の煙が、風に乗って泥トカゲの群れへと吹き付けた。
「ギャァァァスッ!?」
刺激臭でパニックになっていた泥トカゲたちが、今度は鼻粘膜を直接焼くような『暴力的な激辛の匂い』に直面し、悲鳴を上げて急ブレーキをかけた。
彼らの単純な脳髄は、「街の方角=ヤバい匂い」と即座に学習する。
「よし! 今だ、右翼側から音を鳴らせ! 左の泥土へ追い込め!」
私が指示を飛ばすと、若者たちが手持ちの鍋や盾をガンガンと打ち鳴らし、煙の壁と音で群れの進路を強引に捻じ曲げていく。
剣を一度も振るうことなく、圧倒的な質量を持つ泥の津波が、私たちが事前に掘っておいた溝へと綺麗に吸い込まれ、ゆっくりとUターンを始めた。
――知恵と地形、そして匂い。
アルトが教えてくれた『戦わないための戦術』が、若者たちと屋台の親父の力を借りて、見事に盤面を支配していた。
* * *
一方その頃。
アウレリアの商業ギルドの薄暗い一角で、ジンは山積みの書類に埋もれながら、木製の算盤を鬼気迫るスピードで弾いていた。
パチパチパチパチッ! と、乾いた音がギルドの壁に反響する。
「……よし。ヴェランドのタヌキ親父が空売り仕掛けとったハルム村の先物、ワイのダミーギルド名義で全部買い戻したで」
ジンは血走った目で、一枚の借用書に羽根ペンでサインを殴り書きした。
「泥トカゲが暴走したっちゅう報告は、もう商会の連中の耳に入っとるはずや。奴らは今頃、ハルムの小麦が全滅したと信じ込んで、高値で売り抜ける準備を祝杯でも挙げながらしとるやろな」
ジンはクックックッと、ひどく悪い商人の顔で笑った。
「せやけど、残念やったな。アンタらの思惑通りには、ルミナの姉ちゃんが絶対に行かせへん。湿地は護られ、水脈は死なず、来月にはハルムの村から大量の極上小麦が、この街にドカッと流れ込んでくる」
算盤の珠を、パチィン! と力強く弾き飛ばす。
「そうなれば、小麦の相場は大暴落や。高値で先物を買い占めとったヴェランド商会は、在庫を抱えたまま天文学的な負債を被ることになる。……ワイの算盤の『一の目』は、もうタヌキ親父の喉仏を完全に捉えとるで!」
黄金の街の裏側で、物理と経済、二つの刃が同時に商会の心臓へと突き立てられようとしていた。




