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雨の夜に置いてきたもの  作者: トンイ
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9/14

第九話 田所ですけど

 それから数日、正は何度もあの駅を通った。


 仕事の合間。

 外回りの帰り。

 帰宅前の、ほんの少しの時間。


 探しているつもりはない。

 そう思おうとした。


 だが、駅前を歩くたび、視線は自然と人の流れへ向いた。


 横顔。

 髪の長さ。

 服の色。

 そして、足元。

 左足だけが、ほんの少し遅れる歩き方。


 あの女性は、どこにもいなかった。


 当然だ、たまたますれ違っただけの相手に、そう何度も会えるはずがない。そうわかっているのに、見つからないことが、正の中で少しずつ重くなっていく。


 田所亜樹には姉妹はいない。

 本人がそう言った。

 なら、あれは誰だったのか。

 亜樹に似た、亜樹ではない誰か。


 それとも、やはり田所亜樹本人だったのか。

 考えれば考えるほど、答えは遠ざかった。

 その日も、正は外回りの帰りに同じ駅で降りた。


 夕方にはまだ少し早い時間だった。

 空は曇っていたが、雨は降っていない。

 歩道も乾いている。


 それなのに、駅前の光景はどこか湿って見えた。


 人の流れ。

 信号。

 バス停。


 ビルのガラスに映る、薄い空。

 正は改札を出て、ゆっくり歩き始めた。

 何をしているんだ。

 何度もそう思った。

 だが、足は止まらなかった。


 駅前の通りを一度抜け、横断歩道の手前で立ち止まる。


 信号は赤だった。

 人が溜まっていく。


 正はその中で、何気ないふりをして周囲を見た。


 そのときだった。


 人の流れの向こうに、見覚えのある横顔があった。心臓が、ひどく大きく鳴った。


 田所亜樹。

 そう思った。


 肩より少し長い髪。

 落ち着いた色の服。

 静かな横顔。

 以前、駅前で見た女と同じだった。


 いや、田所亜樹と同じ顔だった。

 女性は、信号の向こう側を歩いていた。

 正に気づいていない。


 少し人混みから外れるように、駅から離れる方向へ進んでいく。


 正は、動けなかった。

 見つけた。

 そう思った。

 同時に、見つけてしまった、とも思った。


 信号が青に変わる。

 人が動き出す。

 正も、その流れに押されるように歩き出した。


 女性との距離は、十数メートルほどあった。


 声をかけるには遠い。

 見失うには、近すぎる。

 正は、少しだけ歩調を速めた。


 ただ、確認するだけだ。

 田所亜樹本人なのか。

 それとも別人なのか。

 それだけを確かめたい。

 そう言い聞かせる。


 だが、そんな理由で人の後をつけている自分が、まともではないこともわかっていた。


 女性は大通りから一本外れた道へ入った。

 駅前の喧騒が少し遠くなる。

 正も、その角を曲がった。


 彼女の歩き方には、やはり違和感があった。 左足だけが、わずかに遅れる。


 大きく崩れるわけではない。

 足を引きずるというほどでもない。

 ただ、歩幅がほんの少しだけ揃わない。

 それを見た瞬間、正の胸の奥が冷えた。


 七年前の雨。

 倒れた人影。

 濡れた道路に投げ出された足。

 正は息を止めた。


 違う。まだ何もわからない。そう思うのに、視線は足元から離れなかった。


 そのとき、女性がふと足を止めた。

 正も反射的に止まる。

 女性は、ゆっくり振り返った。


「田所さん」

 呼んでから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。


 田所は、一瞬だけ表情を止めた。

 ほんの一瞬。

 だがすぐに、小さく会釈した。


「……神谷さん」

 名前を呼ばれた。


 それだけで、正の中にあった迷いがひとつ消えた。


 やはり、田所亜樹だった。

 知らない顔をしていたわけではない。


 ただ、あの日は人混みで、気づかなかっただけかもしれない。あるいは、正の方が勝手にそう見えただけなのかもしれない。


「すみません」

 正は言った。

「急に声をかけて」

「いえ」

 田所は落ち着いた声で答えた。


 ただ、その指先が鞄の持ち手を少し強く握っているように見えた。


「このあたりでお会いするとは思わなかったので」


「……そうですね」

 正も、同じことを思っていた。


 田所企画の会社は、この駅からは少し離れている。


 仕事の移動で来たのか。

 誰かと会う予定でもあったのか。

 聞くべきではない気がした。

 けれど、沈黙にも耐えられなかった。


「あの」

 正は口を開く。

「先日、この近くで田所さんを見かけた気がして」

 田所の目が、ほんの少しだけ揺れた。


「先日、ですか」

「はい。駅前で」

「ああ……」

 田所は、曖昧にうなずいた。


「気づかなくて、すみません」

「いえ。こちらこそ、急に」

 会話は続いている。

 普通に。


 田所は正を知っている。

 名前も呼んだ、それなのに、正の中には奇妙な緊張が残っていた。


 聞きたいことがある。

 けれど、聞けない。

 足のこと。

 雨の日のこと。

 七年前のこと。

 何も言えるはずがない。


「お仕事の帰りですか」

 田所が聞いた。


「はい。外回りの帰りで」

「そうですか」

「田所さんは」

 言いかけて、正は止まる。

 田所は少しだけ困ったように笑った。


「少し、用があって」

 それ以上は言わなかった。

 正も、聞かなかった。

 聞かない方がいいことがある。

 最近、そう思うことが増えている。


「それでは」

 田所は軽く会釈した。


「私、行きますね」

「あ、はい」

 そのまま別れるはずだった。

 正も、そうすべきだった。


 だが、田所が背を向けた瞬間、足が勝手に動いた。


「待ってください」

 声が出た。

 田所の肩が、わずかに揺れた。


 振り返ろうとしたのか、立ち止まろうとしたのか。その動作の途中で、左足が歩道の端に引っかかった。


「あっ」

 田所の体が傾く。

 正は反射的に手を伸ばした。

 だが、間に合わなかった。


 鈍い音がした。

 田所が歩道に倒れる。

 頭が、低い縁石の角にぶつかった。

 時間が止まったように感じた。


 七年前の音と、重なった。

 雨の夜。

 車体が何かに触れた感触。

 倒れた人影。

 動かなかった自分。

 逃げた自分。


「……田所さん」

 正は、ようやく声を出した。

 田所は動かない。

 横向きに倒れたまま、目を閉じている。


 白い頬。

 乱れた髪。

 歩道に落ちた鞄。

 正の指先が震えた。

 まただ、そう思った。

 また、自分のせいで田所が倒れた。


「大丈夫ですか!」

 近くを歩いていた女性が声を上げた。

 周囲の人間が集まり始める。

 正はそこで、ようやく動いた。


 鞄を落としそうになりながら、スマートフォンを取り出す。


 指がうまく動かない。

 一度、番号を押し間違えた。

 息を吸う。

 震える指で、もう一度押す。


「救急ですか、火事ですか」

 電話の向こうの声が、ひどく遠い。


「救急です。女性が倒れて、頭を打っています」


 場所を聞かれる。正は周囲を見回し、通りの名前と近くの店を告げた。


 声が震えている。

 それでも、切らなかった。

 逃げなかった。

 電話を握ったまま、倒れている田所のそばに膝をつく。


「田所さん」

 呼びかける。

 返事はない。


 胸が上下しているか、確認しようとして、手が止まる。


 触れていいのか。

 動かしていいのか。

 わからない。

 救急の指示に従いながら、正はただ声をかけ続けた。


「田所さん。聞こえますか。田所さん」

 自分の声が、七年前の雨の中に落ちていくようだった。


 救急車のサイレンが近づいてくる。

 それに少し遅れて、警察官も到着した。

 誰かが通報したのかもしれない。

 人だかりをかき分けるようにして、制服姿の警察官が近づいてくる。


「通報された方ですか」

 正は顔を上げた。


「はい」

「お名前を」

 一瞬、言葉が止まった。

 七年前なら、ここで逃げていた。

 そう思った瞬間、胃の奥が冷えた。


 正は鞄から名刺入れを取り出した。指先が震えて、一枚目をうまく抜けない。ようやく取り出した名刺を、警察官へ差し出す。


「神谷正です」

 警察官が名刺を受け取る。


「倒れた方とは、お知り合いですか」

 正は、倒れている田所を見た。

 今度は迷わなかった。

 迷わないようにした。


「田所亜樹さんです」

 警察官がメモを取る。


「ご関係は」

「仕事先の方です」

「漢字はわかりますか」

「はい」

 正はうなずいた。


「田んぼの田に、場所の所。亜樹は、亜細亜の亜に、樹木の樹です」

 警察官が書き記していく。

 その文字が、正の目に焼きついた。

 田所亜樹。

 紙の上に、その名前が残る。


「連絡先は」

 正はスマートフォンを開いた。

 仕事用の連絡先。

 田所企画。

 田所亜樹。


 そこに登録されている番号を、警察官へ伝える。警察官は、何度か確認しながら書き取った。


 救急隊員が田所を担架に乗せる。

 正は立ち上がることができなかった。

 警察官が何かを聞いている。

 どうして声をかけたのか。


 倒れた経緯は。

 接触はあったのか。

 正は、途切れ途切れに答えた。


「声をかけました」

「立ち止まろうとして」

「足を、引っかけたように見えて」

「触れてはいません」


 自分の言葉が、自分のものではないようだった。


 担架が動く。

 田所が救急車へ運ばれていく。

 正は、その姿を見ていた。

 七年前は、見なかった。

 見ないまま逃げた。

 今は見ている。


 救急車の扉が閉まるまで、正は目を逸らさなかった。サイレンが鳴る。白い車体が走り出す。


 遠ざかっていく音を聞きながら、正はその場に立ち尽くした。


 雨は降っていない。

 それなのに、耳の奥では雨音がしていた。

 警察官が、手元のメモを見ながら言う。


「では、神谷さん。後日あらためてお話を伺うことになると思います」

「……はい」


 正はうなずいた。

 逃げなかった。

 救急車を呼んだ。

 警察にも名刺を渡した。


 それなのに、胸の奥は少しも軽くならない。

 警察官のメモには、正が伝えた名前が残っている。


 田所亜樹。

 正はその名前を見ていた。


 自分が何を生んでしまったのか、その時はまだわからなかった。


 ただ、ひとつだけはっきりしていた。

 また田所が、正の前で倒れた。


 そして今度は、正の言葉によって、その人の名前まで決められようとしていた。

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