第九話 田所ですけど
それから数日、正は何度もあの駅を通った。
仕事の合間。
外回りの帰り。
帰宅前の、ほんの少しの時間。
探しているつもりはない。
そう思おうとした。
だが、駅前を歩くたび、視線は自然と人の流れへ向いた。
横顔。
髪の長さ。
服の色。
そして、足元。
左足だけが、ほんの少し遅れる歩き方。
あの女性は、どこにもいなかった。
当然だ、たまたますれ違っただけの相手に、そう何度も会えるはずがない。そうわかっているのに、見つからないことが、正の中で少しずつ重くなっていく。
田所亜樹には姉妹はいない。
本人がそう言った。
なら、あれは誰だったのか。
亜樹に似た、亜樹ではない誰か。
それとも、やはり田所亜樹本人だったのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかった。
その日も、正は外回りの帰りに同じ駅で降りた。
夕方にはまだ少し早い時間だった。
空は曇っていたが、雨は降っていない。
歩道も乾いている。
それなのに、駅前の光景はどこか湿って見えた。
人の流れ。
信号。
バス停。
ビルのガラスに映る、薄い空。
正は改札を出て、ゆっくり歩き始めた。
何をしているんだ。
何度もそう思った。
だが、足は止まらなかった。
駅前の通りを一度抜け、横断歩道の手前で立ち止まる。
信号は赤だった。
人が溜まっていく。
正はその中で、何気ないふりをして周囲を見た。
そのときだった。
人の流れの向こうに、見覚えのある横顔があった。心臓が、ひどく大きく鳴った。
田所亜樹。
そう思った。
肩より少し長い髪。
落ち着いた色の服。
静かな横顔。
以前、駅前で見た女と同じだった。
いや、田所亜樹と同じ顔だった。
女性は、信号の向こう側を歩いていた。
正に気づいていない。
少し人混みから外れるように、駅から離れる方向へ進んでいく。
正は、動けなかった。
見つけた。
そう思った。
同時に、見つけてしまった、とも思った。
信号が青に変わる。
人が動き出す。
正も、その流れに押されるように歩き出した。
女性との距離は、十数メートルほどあった。
声をかけるには遠い。
見失うには、近すぎる。
正は、少しだけ歩調を速めた。
ただ、確認するだけだ。
田所亜樹本人なのか。
それとも別人なのか。
それだけを確かめたい。
そう言い聞かせる。
だが、そんな理由で人の後をつけている自分が、まともではないこともわかっていた。
女性は大通りから一本外れた道へ入った。
駅前の喧騒が少し遠くなる。
正も、その角を曲がった。
彼女の歩き方には、やはり違和感があった。 左足だけが、わずかに遅れる。
大きく崩れるわけではない。
足を引きずるというほどでもない。
ただ、歩幅がほんの少しだけ揃わない。
それを見た瞬間、正の胸の奥が冷えた。
七年前の雨。
倒れた人影。
濡れた道路に投げ出された足。
正は息を止めた。
違う。まだ何もわからない。そう思うのに、視線は足元から離れなかった。
そのとき、女性がふと足を止めた。
正も反射的に止まる。
女性は、ゆっくり振り返った。
「田所さん」
呼んでから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
田所は、一瞬だけ表情を止めた。
ほんの一瞬。
だがすぐに、小さく会釈した。
「……神谷さん」
名前を呼ばれた。
それだけで、正の中にあった迷いがひとつ消えた。
やはり、田所亜樹だった。
知らない顔をしていたわけではない。
ただ、あの日は人混みで、気づかなかっただけかもしれない。あるいは、正の方が勝手にそう見えただけなのかもしれない。
「すみません」
正は言った。
「急に声をかけて」
「いえ」
田所は落ち着いた声で答えた。
ただ、その指先が鞄の持ち手を少し強く握っているように見えた。
「このあたりでお会いするとは思わなかったので」
「……そうですね」
正も、同じことを思っていた。
田所企画の会社は、この駅からは少し離れている。
仕事の移動で来たのか。
誰かと会う予定でもあったのか。
聞くべきではない気がした。
けれど、沈黙にも耐えられなかった。
「あの」
正は口を開く。
「先日、この近くで田所さんを見かけた気がして」
田所の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「先日、ですか」
「はい。駅前で」
「ああ……」
田所は、曖昧にうなずいた。
「気づかなくて、すみません」
「いえ。こちらこそ、急に」
会話は続いている。
普通に。
田所は正を知っている。
名前も呼んだ、それなのに、正の中には奇妙な緊張が残っていた。
聞きたいことがある。
けれど、聞けない。
足のこと。
雨の日のこと。
七年前のこと。
何も言えるはずがない。
「お仕事の帰りですか」
田所が聞いた。
「はい。外回りの帰りで」
「そうですか」
「田所さんは」
言いかけて、正は止まる。
田所は少しだけ困ったように笑った。
「少し、用があって」
それ以上は言わなかった。
正も、聞かなかった。
聞かない方がいいことがある。
最近、そう思うことが増えている。
「それでは」
田所は軽く会釈した。
「私、行きますね」
「あ、はい」
そのまま別れるはずだった。
正も、そうすべきだった。
だが、田所が背を向けた瞬間、足が勝手に動いた。
「待ってください」
声が出た。
田所の肩が、わずかに揺れた。
振り返ろうとしたのか、立ち止まろうとしたのか。その動作の途中で、左足が歩道の端に引っかかった。
「あっ」
田所の体が傾く。
正は反射的に手を伸ばした。
だが、間に合わなかった。
鈍い音がした。
田所が歩道に倒れる。
頭が、低い縁石の角にぶつかった。
時間が止まったように感じた。
七年前の音と、重なった。
雨の夜。
車体が何かに触れた感触。
倒れた人影。
動かなかった自分。
逃げた自分。
「……田所さん」
正は、ようやく声を出した。
田所は動かない。
横向きに倒れたまま、目を閉じている。
白い頬。
乱れた髪。
歩道に落ちた鞄。
正の指先が震えた。
まただ、そう思った。
また、自分のせいで田所が倒れた。
「大丈夫ですか!」
近くを歩いていた女性が声を上げた。
周囲の人間が集まり始める。
正はそこで、ようやく動いた。
鞄を落としそうになりながら、スマートフォンを取り出す。
指がうまく動かない。
一度、番号を押し間違えた。
息を吸う。
震える指で、もう一度押す。
「救急ですか、火事ですか」
電話の向こうの声が、ひどく遠い。
「救急です。女性が倒れて、頭を打っています」
場所を聞かれる。正は周囲を見回し、通りの名前と近くの店を告げた。
声が震えている。
それでも、切らなかった。
逃げなかった。
電話を握ったまま、倒れている田所のそばに膝をつく。
「田所さん」
呼びかける。
返事はない。
胸が上下しているか、確認しようとして、手が止まる。
触れていいのか。
動かしていいのか。
わからない。
救急の指示に従いながら、正はただ声をかけ続けた。
「田所さん。聞こえますか。田所さん」
自分の声が、七年前の雨の中に落ちていくようだった。
救急車のサイレンが近づいてくる。
それに少し遅れて、警察官も到着した。
誰かが通報したのかもしれない。
人だかりをかき分けるようにして、制服姿の警察官が近づいてくる。
「通報された方ですか」
正は顔を上げた。
「はい」
「お名前を」
一瞬、言葉が止まった。
七年前なら、ここで逃げていた。
そう思った瞬間、胃の奥が冷えた。
正は鞄から名刺入れを取り出した。指先が震えて、一枚目をうまく抜けない。ようやく取り出した名刺を、警察官へ差し出す。
「神谷正です」
警察官が名刺を受け取る。
「倒れた方とは、お知り合いですか」
正は、倒れている田所を見た。
今度は迷わなかった。
迷わないようにした。
「田所亜樹さんです」
警察官がメモを取る。
「ご関係は」
「仕事先の方です」
「漢字はわかりますか」
「はい」
正はうなずいた。
「田んぼの田に、場所の所。亜樹は、亜細亜の亜に、樹木の樹です」
警察官が書き記していく。
その文字が、正の目に焼きついた。
田所亜樹。
紙の上に、その名前が残る。
「連絡先は」
正はスマートフォンを開いた。
仕事用の連絡先。
田所企画。
田所亜樹。
そこに登録されている番号を、警察官へ伝える。警察官は、何度か確認しながら書き取った。
救急隊員が田所を担架に乗せる。
正は立ち上がることができなかった。
警察官が何かを聞いている。
どうして声をかけたのか。
倒れた経緯は。
接触はあったのか。
正は、途切れ途切れに答えた。
「声をかけました」
「立ち止まろうとして」
「足を、引っかけたように見えて」
「触れてはいません」
自分の言葉が、自分のものではないようだった。
担架が動く。
田所が救急車へ運ばれていく。
正は、その姿を見ていた。
七年前は、見なかった。
見ないまま逃げた。
今は見ている。
救急車の扉が閉まるまで、正は目を逸らさなかった。サイレンが鳴る。白い車体が走り出す。
遠ざかっていく音を聞きながら、正はその場に立ち尽くした。
雨は降っていない。
それなのに、耳の奥では雨音がしていた。
警察官が、手元のメモを見ながら言う。
「では、神谷さん。後日あらためてお話を伺うことになると思います」
「……はい」
正はうなずいた。
逃げなかった。
救急車を呼んだ。
警察にも名刺を渡した。
それなのに、胸の奥は少しも軽くならない。
警察官のメモには、正が伝えた名前が残っている。
田所亜樹。
正はその名前を見ていた。
自分が何を生んでしまったのか、その時はまだわからなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
また田所が、正の前で倒れた。
そして今度は、正の言葉によって、その人の名前まで決められようとしていた。




