第八話 探しているもの
田所亜樹という人物を知りたい。
そう思ってしまったことを、正はすぐには認めたくなかった。
ただの取引先の担当者。
仕事で何度か顔を合わせ、電話で話しただけの相手。
そう言い聞かせれば済むはずだった。
けれど、済まなかった。
駅前で見かけた女。
田所亜樹に似た横顔。
こちらを知らない目。
そして、左足だけがほんの少し遅れる歩き方。
そのすべてが、正の中に残っている。
田所亜樹には姉妹はいない。
本人がそう言った。
あまりにも自然な答えだった。
嘘をついているようには見えなかった。
なら、あれは誰だったのか。
その問いだけが、消えない。
翌日。
正は外回りの予定表を見ていた。
午前中に一件。
午後に二件。
最後の訪問先から会社へ戻るなら、本来は別の駅を使った方が早い。
だが、正は画面上の経路を見つめたまま、少しだけ指を止めた。
あの駅を通る道もある。
遠回りというほどではない。
乗り換えが一つ増えるだけだ。
帰社が少し遅くなるかもしれない。
それだけ。
正は自分にそう言い聞かせた。
仕事の都合だ。
ついでに確認したいことがあるだけだ。
そう思った。
思おうとした。
午後の訪問を終えたあと、正は結局、その駅で降りた。
改札を出ると、夕方にはまだ少し早い時間だった。
駅前の人通りは多い。
買い物袋を下げた女性。
制服姿の学生。
ベビーカーを押す母親。
営業鞄を持った男。
どこにでもある光景だった。
雨は降っていない。
歩道も乾いている。
それなのに正は、あの日の濡れた地面を思い出した。
小さな水たまり。
街灯の光。
人混みの向こうに見えた、亜樹に似た横顔。
正はゆっくり歩き出した。
誰かを探しているようには見えない速度で。
けれど、見ていた。
人の顔を。
髪の長さを。
服の色を。
そして、足元を。
左足だけが遅れる人間を。
白っぽい服の女性が通るたび、視線が向く。
肩より少し長い髪を見るたび、胸が小さく跳ねる。
だが、違う。
顔が違う。
歩き方が違う。
何より、正を知らない目ではなかった。
いや、あの女も、正を知らない目をしていた。
そこまで考えて、正は足を止めた。
何を探しているのか。
自分でもわからなくなる。
田所亜樹に似た女を探している。
それはわかる。
では、見つけたらどうする。
声をかけるのか。
「田所さんですか」と。
違うと言われたら。
あなたは誰ですかと聞くのか。
なぜ自分がそんなことを聞くのか、説明できるのか。
できるはずがなかった。
七年前の事故と似ているから。
田所亜樹に似ているから。
左足の歩き方が気になるから。
そんな理由で見知らぬ女を追いかけている。
正は、鞄の持ち手を握り直した。
気持ちが悪い。
そう思った。
自分のことだった。
それでも、足は駅前から離れなかった。
信号の前で立ち止まる。
人の流れが、赤信号の手前に溜まっていく。
正はその中で、また足元を見ていた。
パンプス。
革靴。
スニーカー。
それぞれの歩幅。
左右の揺れ。
ほんのわずかな遅れ。
いつから自分は、人の顔より先に足を見るようになったのだろう。
そう気づいた瞬間、胃の奥が重くなった。
信号が青に変わる。
人が動き出す。
正だけが、一歩遅れた。
あの女はいなかった。
駅前を一度通り過ぎる。
コンビニの前。
バス停。
ビルの入口。
もう一度、改札の方へ戻る。
いない。
当然だ。
昨日すれ違っただけの人間に、同じ場所でまた会えるはずがない。
そんなことは、最初からわかっていた。
それなのに、見つからないことに、正は少しだけ落胆していた。
そのことが、一番怖かった。
「……何をしてるんだ」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声だった。
聞こえなくてよかった。
聞かれても、答えられない。
会社に戻ると、森田が顔を上げた。
「神谷さん、お疲れさまです」
「ああ」
正は短く返す。
「今日、少し戻り遅かったですね」
何気ない言葉だった。
責める響きはない。
それなのに、正は一瞬だけ返事に詰まった。
「確認に時間がかかった」
「そうなんですか」
森田はうなずいた。
それから、予定表を見ながら言う。
「最近、あの駅の方に行くこと多いですね」
胸の奥が、冷えた。
「……そうか?」
「はい。たまたまかもしれませんけど」
森田はそれ以上、深い意味があるようには言わなかった。
ただ気づいたことを口にしただけ。
それだけだった。
それでも正には十分だった。
見られている。
そう思った。
いや、違う。
森田が見ているのではない。
自分が、自分の行動を見てしまっただけだ。
「仕事の都合だ」
「そうですよね」
森田は素直にうなずき、自分の席へ戻っていった。
正は自席に座り、パソコンを立ち上げる。
画面の光が、やけに白く見えた。
メールを開く。
資料を確認する。
文字を読む。
だが、頭には入ってこなかった。
駅前の人混み。
左足だけが遅れる歩き方。
亜樹ではない目。
亜樹と同じ顔。
考えてはいけない。
そう思うほど、考えてしまう。
夕方。
仕事を終えたあと、正はまっすぐ帰ることができなかった。
また、あの駅で降りた。
改札を出る。
帰宅する人の流れが、駅前に広がっている。
今度は、あの日と似た時間だった。
空は薄く暗い。
雨は降っていない。
歩道も濡れていない。
それでも、正の耳には雨音が混ざっていた。
正はゆっくり歩いた。
探しているように見えないように。
しかし実際には、探していた。
横顔を。
髪を。
足元を。
左足を。
数分歩いて、立ち止まる。
誰もいない。
いや、人はいる。
いくらでもいる。
けれど、あの女はいない。
亜樹に似た女は、どこにもいなかった。
スマートフォンが震えた。
仕事用のメールだった。
差出人を見る。
田所亜樹。
正は、その名前をしばらく見つめた。
本文は短い。
次回の確認事項について。
資料の修正点。
丁寧で、過不足のない文章。
いつもの田所亜樹だった。
そこには、駅前で正を知らない顔で通り過ぎた女の気配など、どこにもない。
正はメールを閉じられなかった。
探していた女は、見つからなかった。
けれど、逃げようとしていた名前だけは、今日も簡単に戻ってくる。
田所亜樹。
その名前を見ていると、七年前の雨音がまた近づいてくる。
正はスマートフォンを握ったまま、駅前に立っていた。
人の流れは変わらず続いている。
誰も正を見ていない。
誰も、正が何を探しているのか知らない。
正自身でさえ、本当にはわかっていなかった。
あの女を探しているのか。
田所亜樹を知りたいのか。
七年前に置いてきたものを、今さら拾いに来ているのか。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけわかった。
正はもう、探し始めてしまっている。
見つけた先に何があるのかも知らないまま。
雨の降っていない駅前で。
正の耳には、また雨音が聞こえていた。




