第七話 確認したかったこと
昨日の女性は、本当に田所亜樹だったのか。
朝になっても、その疑問は消えなかった。
人混みの向こうに見えた横顔。
肩より少し長い髪。
落ち着いた服装。
静かな目元。
遠目には、田所亜樹に見えた。
いや、そう見えただけかもしれない。
夕方だった。
人通りも多かった。
街灯が濡れた歩道に反射して、輪郭も少しぼやけていた。
七年前の雨の夜と同じように。
見えていたはずのものが、あとからどんどん曖昧になっていく。
ただ、ひとつだけ、妙にはっきり残っているものがあった。
歩き方。
左足だけ、ほんの少し遅れるような足取り。
足を引きずる、というほどではない。
けれど、完全に自然とも言えない。
あの歩き方だけが、正の頭から離れなかった。
田所亜樹だったのか。
それとも、田所亜樹に似た誰かだったのか。
その答えを、どうしても確認したかった。
机の上には、田所企画の資料がある。
案件は、一段落していた。
急ぎの修正もない。
直接出向く必要もない。
確認なら、メールで済む。
電話でも済む。
それなのに、正は資料を何度も見返していた。
何かないか。
確認すべき点はないか。
先方へ行く理由を、探していた。
自分でも、わかっている。
これは仕事ではない。
田所亜樹に会う理由を、作ろうとしているだけだ。
正は資料を閉じた。
その瞬間、自分の胸の奥にある感情が少しだけ見えてしまった。
怖い。
それは変わらない。
田所亜樹と話せば、七年前の雨が近づいてくる。
倒れた人影。
濡れた道路。
白っぽい服。
赤い傘。
忘れたはずのものが、勝手に浮かび上がる。
だから、会いたくない。
関わりたくない。
それなのに。
昨日の女性が誰だったのか。
亜樹と関係があるのか。
亜樹自身は、あの場所にいたのか。
知りたいと思ってしまっている。
正は、そんな自分に息苦しさを覚えた。
「神谷さん」
声をかけられ、顔を上げる。
森田が書類を持って立っていた。
「田所企画の件ですか?」
「ああ」
「何かありました?」
「少し、確認したいことがある」
「確認ですか」
森田が首をかしげる。
「この前の打ち合わせで、だいたいまとまってませんでしたっけ」
「細かいところだ」
「メールじゃだめなんですか?」
正は一瞬、言葉に詰まった。
森田の言っていることは、正しい。
普通なら、そうする。
それが一番自然で、一番効率がいい。
けれど、正は普通ではいられなかった。
「直接確認した方が早い」
ようやく、そう答える。
森田はまだ納得していないようだった。
「でも、神谷さん。最近、田所企画の件になると、少し……」
「何だ」
声が硬くなった。
森田が口を閉じる。
その反応を見て、正はすぐに後悔した。
まただ、また、森田に余計な気を遣わせている。正は小さく息を吐いた。
「……悪い」
「いえ」
「気になるところがあるだけだ。すぐ戻る」
「わかりました」
森田はそれ以上、何も言わなかった。
正は資料を鞄に入れる。
用事はできた。
いや。
作った。
自分で作った用事だった。
午後。
田所企画の会議室に通された正は、資料を机の上に並べた。
窓の外は曇っている。
雨は降っていない。
それでも空気は少し湿っていた。
やがてドアが開く。
「お待たせしました」
田所亜樹が入ってきた。
今日は淡い色のブラウスに、紺のカーディガンを羽織っている。
白ではない。
それだけで、ほんの少し息がしやすくなった気がした。
「急にすみません」
「いえ。こちらこそ、お時間を取らせてしまって」
亜樹は穏やかに言う。
椅子に座るとき、ほんの一瞬だけ机に手を添えた。
正は、その動きを見逃せなかった。
昨日の女性の足取り。
亜樹のこの仕草。
七年前の記憶。
全部が違う場所にあるはずなのに、少しずつ近づいている気がする。
「確認というのは、どちらの件でしょうか」
「ああ、こちらです」
正は資料を差し出した。
内容は、本当に些細だった。
文言の確認。
納期表記の統一。
社内共有用の形式。
亜樹は資料に目を通し、ひとつずつ丁寧に答えてくれた。
怒らない。
急かさない。
なぜこれを直接確認しに来たのか、とも聞かない。
その静かさが、正には少し苦しかった。
確認は、すぐに終わった。
仕事としては、もう用事がない。
亜樹が資料を閉じる。
「こちらで問題ありません」
「ありがとうございます」
「いえ」
短い沈黙。
ここで帰るべきだった。
それが正しい。
正は鞄に資料をしまおうとした。
けれど、指が止まる。
昨日の女性の横顔が浮かぶ。
反応のない目。
左足だけが、少し遅れる歩き方。
聞くなら、今しかなかった。
「田所さん」
「はい」
「少し、変なことを聞いてもいいですか」
亜樹は瞬きをした。
「私に答えられることでしたら」
その言い方は、やはり静かだった。
受け入れているようでいて、どこか線がある。
その距離感が、正にはありがたかった。
踏み込みすぎれば戻れない。
でも、聞かなければ進めない。
「昨日、駅の近くにいましたか」
言ってから、唐突すぎたと思った。
亜樹は少し不思議そうに首をかしげる。
「駅、ですか?」
「はい。夕方頃です」
「昨日は、その時間には会社にいました。少し残業していたので」
「……そうですか」
答えは簡単だった。
昨日の女性は、田所亜樹ではない。
少なくとも、亜樹本人はそう言っている。
なら、人違いだった。
そう思えばいい。
そう思うべきだった。
けれど、正の中の疑問は消えなかった。
むしろ、別の形で残った。
「どうかしましたか?」
亜樹が静かに聞く。
正は一度、視線を落とした。
「昨日、その駅の近くで……田所さんに似た人を見かけた気がして」
「私に、ですか」
「はい」
「そうですか」
亜樹は少しだけ考えるような顔をした。
でも、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「似ている人って、案外いますから」
「……そうですね」
それで終わらせることもできた。
だが、正はもう一歩だけ踏み込んだ。
「田所さんには、姉妹がいたりしますか」
できるだけ自然に聞いたつもりだった。
けれど、自分の声が少し硬くなったのはわかった。
亜樹は少し驚いたように目を瞬かせる。
「姉妹、ですか?」
「ええ」
「いませんよ」
あっさりとした返事だった。
迷いもない。
隠しているようにも見えない。
嘘をついているようにも見えなかった。
「……そうですか」
「はい」
それだけだった。
田所亜樹には、姉妹はいない。
昨日、その駅にもいなかった。
なら、あれはただの他人だったのか。
正が、亜樹のことを考えすぎていただけなのか。
七年前の記憶と今の違和感を、無理に繋げようとしているだけなのか。
答えは出なかった。
「かなり似ていたんですか?」
亜樹が静かに聞いた。
「遠目だったので、はっきりとは」
「そうですか」
「でも、一瞬……田所さんだと思いました」
口にしてから、踏み込みすぎたと思った。
亜樹は少しだけ困ったように笑う。
「それなら、少し気になりますね」
「え?」
「自分に似ている人って、見てみたいような、少し怖いような気がします」
何気ない言葉だった。
それなのに、正の胸に残る。
見てみたいような。
少し怖いような。
それは、いまの自分そのものだった。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
正は、うまく返せなかった。
「すみません。変なことを聞いて」
「いえ」
亜樹は首を横に振った。
「気になることがあると、引っかかりますよね」
その言葉に、正の手が止まる。
亜樹は何気なく言っただけなのだろう。
でも、正には妙に刺さった。
「……田所さんも、そういうことがありますか」
「ありますよ」
亜樹は少しだけ窓の外を見た。
「思い出せないことほど、気になったりします」
胸の奥が、冷える。
思い出せないこと。
その言葉だけで、七年前の雨がまた近づいてくる。
「思い出せないこと、ですか」
「はい」
亜樹は小さく笑う。
「たいしたことじゃないんですけどね」
そう言って、話を終わらせた。
正も、それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
亜樹がエレベーター前まで見送ってくれる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、急にすみませんでした」
「いえ。また何かありましたら」
扉が開く。
正は中に入る。
閉まりかける扉の向こうで、亜樹が軽く頭を下げた。
その表情は、いつも通り穏やかだった。
何も知らないように。
何も隠していないように。
エレベーターが下りていく。
正は壁にもたれかかりたい衝動をこらえた。
答えは得られなかった。
昨日の女性が誰なのか。
亜樹と関係があるのか。
七年前の雨と関係があるのか。
何ひとつ、はっきりしなかった。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
田所亜樹には、姉妹はいない。
昨日、あの駅にもいなかった。
では、あの女性は何だったのか。
ビルを出る。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
だが、遠くの空は少し暗い。
正は歩き出す。
鞄の中には、用事のために持ってきた資料がある。
結局、それはただの建前だった。
本当に確認したかったことは、何ひとつ確認できていない。
それなのに。
もう一度、亜樹の声を聞いてしまった。
あの静かな目を見てしまった。
思い出せないことほど、気になる。
その言葉が、胸の奥に残っている。
知りたくない。
でも、知りたい。
怖い。
でも、目を逸らせない。
正は足を止めずに歩いた。
その感情が何なのか、まだ名前はつけられなかった。
ただ、田所亜樹という人を、もう少し知りたいと思ってしまったことだけは。
もう、否定できなくなっていた。




