第十話 曖昧な名前
救急外来の白い天井が、ぼんやりと滲んでいた。
消毒液の匂い。
誰かの足音。
カーテン越しに聞こえる、低い声。
田所は、ゆっくりと目を開けた。
頭が痛い。
左足も痛む。
体を少し動かそうとして、息を呑んだ。
どこかにぶつけたのだと、遅れて理解する。
「田所さん、聞こえますか」
近くで誰かが言った。
看護師の声だった。
「田所亜樹さん」
その名前を聞いた瞬間、彼女の目がわずかに揺れた。返事をしようとして、喉がうまく動かなかった。
看護師は何かを確認しようとしている。
名前。
住所。
連絡先。
身分証。
白い天井の下で、何度か同じ名前が呼ばれた。
田所亜樹。
彼女は目を閉じかけた。
けれど、すぐに開いた。
「身分証はお持ちですか」
そう聞かれて、彼女の指先がわずかに動いた。
ベッド脇に、鞄が置かれている。
そこへ手を伸ばしかけて、止まる。
頭の奥が、鈍く痛んだ。
警察。
病院。
名前。
住所。
連絡先。
そのどれもが、白い天井の下で、ひどく重く響いているようだった。
「少し、気分が……」
掠れた声でそう言うと、看護師が一度カーテンの外へ出た。
医師を呼ぶためか。
警察官に伝えるためか。
その短い隙に、彼女はゆっくりと体を起こした。
頭が揺れる。
吐き気がした。
それでも、ベッド脇に置かれていた鞄へ手を伸ばす。
足を床に下ろした瞬間、左足に痛みが走った。
「……っ」
声を殺す。
それでも、止まらなかった。
止まれなかった。
彼女はカーテンの隙間から廊下を見た。
人の気配はある。
けれど、こちらを見ている者はいない。
白い壁。
白い光。
遠くで鳴る機械音。
彼女は壁に手をつきながら、ゆっくり歩き出した。
左足だけが、少し遅れる。
それでも、歩いた。
名前を確かめられる前に。
住所を書かれる前に。
身分証を出す前に。
彼女は、救急外来の廊下から姿を消した。
翌朝。
田所亜樹は、電話の音で目を覚ました。
頭が重い。
昨夜は、少し飲みすぎた。
雨の前の日のような鈍い痛みが、こめかみの奥に残っている。
スマートフォンの画面には、見慣れない番号が表示されていた。
亜樹は少し迷ってから、通話を押した。
「はい、田所です」
「田所亜樹さんでお間違いありませんか」
男の声だった。
硬い声。
役所か、警察か。
そんな印象を受ける声だった。
「はい。そうですが」
「こちら、中央署交通課の者です。昨日の事故の件でご連絡しました」
亜樹は、瞬きをした。
「事故、ですか」
「はい。昨日、駅前近くで転倒され、救急搬送されていますよね」
言葉の意味を、頭がうまく掴めなかった。
事故。
救急搬送。
駅前。
自分が。
「……すみません」
亜樹はゆっくりと言った。
「少し、よく分からなくて」
電話の向こうで、わずかに沈黙が落ちた。
「田所亜樹さん、ご本人ですよね」
「はい」
「昨日の午後七時過ぎ、駅前にはいらっしゃいませんでしたか」
「駅前……」
亜樹は眉を寄せた。
昨日。
仕事を終えて帰った。
まっすぐ帰った、はずだった。
途中でコンビニに寄ったかもしれない。
それから家で少し飲んだ。
ビールを一本。
いや、二本だったかもしれない。
雨は降っていなかったと思う。
でも、頭が重くて、早めに横になった。
ソファで少し眠ってしまった気がする。
「昨日は少し飲んでいて……時間までは、はっきり覚えていません」
「お酒を飲まれていたんですね」
「はい。家で少し」
自分で答えながら、亜樹は妙な不安を覚えた。
なぜ、警察にそんなことを説明しているのだろう。
事故のことは覚えていない。
そう言えば済むはずだった。
なのに、相手は確認を続ける。
「頭を打った覚えはありませんか」
「頭、ですか」
亜樹は無意識にこめかみへ手を当てた。
「覚えは……ありません。ただ、今日は少し頭が痛くて」
また、電話の向こうが静かになった。
その沈黙が、妙に重い。
「昨日、救急搬送先から確認前に離れられている可能性があります」
「……私が、ですか?」
「現場の通報者の方から、田所亜樹さんだと伺っています。連絡先も、こちらの番号を」
亜樹は、そこで完全に黙った。
通報者。
自分の名前。
自分の連絡先。
知らない事故。
頭痛。
昨日の曖昧な記憶。
ばらばらのものが、勝手に並べられていく。
「……本当に、よく分からないんです」
亜樹はそう言った。
否定したかった。
けれど、昨日の夜の記憶が完全にはっきりしているわけではなかった。
自分の言葉を、自分で支えきれない。
「わかりました」
警察官は、そう言った。
だが、その声には納得しきっていない響きがあった。
「念のため、体調が落ち着いた頃に一度お話を伺えればと思います。調書の作成も必要になりますので」
「調書……」
「詳しい日時は、あらためてご連絡します」
「……はい」
通話が切れる。
亜樹はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
事故。
救急搬送。
田所亜樹。
自分の名前が、自分の知らない場所で使われている。
しかも、通報者が自分の名前と連絡先を伝えたという。
誰が。
なぜ。
亜樹は、昨日の記憶をもう一度辿ろうとした。
だが、頭の奥が重い。
飲んだせいか。
寝起きのせいか。
それとも、ただ不安になっているだけなのか。
わからなかった。
午前中。
神谷正は、会社でパソコンの画面を見つめていた。
仕事は進んでいない。
昨夜のことが、ずっと頭から離れなかった。
倒れた田所。
救急車。
警察官。
自分が渡した名刺。
自分が伝えた名前。
田所亜樹。
漢字まで、電話番号まで。
正は、はっきり伝えた。
田所は、正の名前を呼んだ。
神谷さん、と。
だから、あの時の正は迷わなかった。
迷わないようにした。
それなのに、今になって、その名前だけが胸の奥で重くなっている。
昼前、正のスマートフォンが震えた。
見慣れない番号だった。
正は息を止める。
警察かもしれない。
そう思った瞬間、指先が冷えた。
「はい、神谷です」
「中央署交通課の者です。昨日の件で、少し確認させてください」
やはり警察だった。
正は椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。
「はい」
「昨日搬送された女性についてですが、神谷さんは田所亜樹さんだとおっしゃいましたね」
「……はい」
「お仕事先の方、ということで」
「はい」
喉が乾く。
「今朝、ご本人と連絡が取れました」
正は、息を止めた。
「……ご本人、ですか」
「田所亜樹さんです」
正は何も言えなかった。
ご本人と連絡が取れた。
その言葉が、頭の中で奇妙に響く。
昨日、田所亜樹は救急車で運ばれたはずだ。
倒れて、頭を打って、意識を失っていた。
少なくとも、正はそう見た。
「ただ、ご本人は事故のことがよく分からないとおっしゃっています」
「……よく、分からない」
「はい。その時間帯の記憶が少し曖昧なようでして。飲酒もされていたとのことです。頭痛もあると」
正の胸の奥が、すっと冷えた。
事故のことが分からない。
記憶が曖昧。
頭痛がある。
警察は、それをどう受け取っているのか。
正には、わかってしまった。
警察は、田所亜樹が混乱していると思っている。
昨日、頭を打ったせいで。
酒を飲んでいたせいで。
事故そのものを、本人が認識できていないのだと。
「神谷さん」
「……はい」
「昨日の女性が田所亜樹さんであると判断された理由を、あらためて確認させてください」
正は、すぐに答えられなかった。
顔。
声。
名前を呼ばれたこと。
田所です、と答えたこと。
そのどれもが、田所亜樹だと判断する理由だった。
けれど、警察に説明しようとすると、言葉は急に頼りなくなる。
「……以前から仕事でお会いしていて」
正は、ようやく言った。
「顔も、声も、田所さんだと思いました」
「ご本人だと確信された?」
その問いに、正は唇を噛んだ。
確信。
していた。
そのはずだった。
少なくとも、あの時は。
「……田所さんだと思いました」
それだけ答えた。
警察官は短く相槌を打った。
「わかりました。後日、あらためてお話を伺うことになると思います」
「はい」
通話が終わる。
正はスマートフォンを机に置いた。
手が震えていた。
昨日の女は田所亜樹だった。
そう思っていた。
警察にもそう伝えた。
だが、警察は今朝、田所亜樹本人と話している。
本人は、事故のことがよく分からないと言った。
記憶は曖昧で、頭痛がある。
そのせいで、警察はまだ田所亜樹本人だと思っている。
何かが、ずれている。
大きく。
静かに。
正の知らないところで。
机の上には、田所企画の資料が置かれている。
その隅に、担当者名が印字されていた。
田所亜樹。
昨日、道路に倒れたはずの名前。
今朝、電話に出た名前。
事故のことが分からないと言った名前。
正は、その文字を見つめた。
七年前の雨の中で、自分は何を見間違えたのか。
そして今。
自分は、何を重ねてしまったのか。
窓の外は、曇っていた。
雨はまだ降っていない。
それなのに、正の耳には、救急車のサイレンと雨音が重なって聞こえていた。




