第十一話 同じ人
警察から再び連絡があったのは、その翌日の午後だった。
昨日の件で、確認したいことがある。
できれば、田所亜樹と神谷正の二人に来てほしい。
電話口の警察官は、そう言った。
正は受話器を持ったまま、しばらく返事ができなかった。
田所亜樹と。
神谷正。
その二人を並べて確認する。
その意味を考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
「……わかりました」
ようやく答える。
電話を切ったあとも、正は席を立てなかった。
机の上には、田所企画の資料が置かれている。
担当者名には、田所亜樹の名前。
昨日、警察官のメモに自分が書かせた名前。
昨日、倒れた女の上に、自分が重ねてしまった名前。
田所亜樹。
その四文字が、今になって重く沈んでいる。
その日の夕方。
正は警察署の入口に立っていた。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
それなのに、建物の前に立つだけで、七年前の雨音が耳の奥に戻ってくる。
自動ドアが開く。
正は中へ入った。
受付で名前を告げると、小さな相談室のような部屋へ案内された。
白い壁。
机が一つ。
椅子が数脚。
窓はあるが、外の音はほとんど聞こえない。
壁の時計の針だけが、やけにはっきり動いていた。
数分後。
扉が開いた。
田所亜樹が入ってきた。
正は思わず息を止める。
いつもの落ち着いた服装。
肩より少し長い髪。
静かな目。
けれど、その表情はいつもより硬かった。
亜樹も、正を見た。
一瞬だけ目が合う。
そこには、仕事先で会う時の穏やかさとは違うものがあった。
困惑。
警戒。
そして、わずかな不安。
「……お疲れさまです」
先に口を開いたのは、亜樹だった。
「お疲れさまです」
正も返す。
仕事の挨拶。
こんな場所で交わすには、あまりにも場違いだった。
二人が椅子に座ると、警察官が資料を持って入ってきた。
四十代くらいの男だった。
疲れた顔をしているが、口調は穏やかだった。
「お忙しいところ、すみません」
警察官はそう言って、二人の前に座る。
「昨日の転倒事故について、いくつか確認させてください」
転倒事故。
その言葉に、正はわずかに眉を動かした。
事故。
自分の中では、もっと大きなものになっている。
救急車。
倒れた女。
頭を打った音。
田所亜樹という名前。
けれど警察は、今のところ、あれをただの転倒事故として扱っているらしい。
それが少しだけ不気味だった。
「私は、事故には遭っていません」
亜樹が静かに言った。
警察官はうなずく。
「はい。田所さんからは、そう伺っています。ただ、現場で通報された神谷さんからは、倒れた女性が田所亜樹さんだと聞いています」
亜樹の視線が、正へ向く。
責めるような目ではない。
ただ、わからないという目だった。
その方が、正には苦しかった。
「神谷さん」
警察官が正を見る。
「昨日、倒れた女性を田所亜樹さんだと思った理由を、もう一度教えてください」
正は膝の上で手を握った。
「顔が、似ていたので」
「以前からお知り合いだった?」
「仕事で、何度かお会いしています」
「では、仕事上の知人として、田所さんだと判断した」
判断した。
その言葉が、正にはひどく重く聞こえた。
あの時、自分は本当に判断したのか。
それとも、そうであってほしいと思っただけなのか。
「……そう思いました」
正はそれだけ答えた。
警察官はメモを取る。
紙を擦るペン先の音が、小さく響いた。
その音を聞くだけで、正の胸はざわつく。
また、自分の言葉が記録になる。
また、自分の曖昧さが、誰かの名前を決めていく。
「倒れた方には、何と声をかけましたか」
「田所亜樹さんですよね、と」
「相手は?」
「田所ですけど、と」
警察官のペンが一度止まった。
「下の名前は名乗りましたか」
「……いえ」
「田所亜樹さんだと、はっきり認めたわけではない」
正は答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
警察官は少しだけ資料を見た。
「ただ、現場の状況としては、神谷さんが田所亜樹さんと認識して通報されている。連絡先も、田所亜樹さんのものを伝えている」
亜樹の顔が、少しだけ曇る。
正は唇を噛んだ。
そうだ。
自分が伝えた。
名前も。
漢字も。
電話番号も。
「田所さん」
警察官は亜樹へ向き直る。
「昨日の午後七時過ぎですが、どちらにいらっしゃいましたか」
「自宅にいたと思います」
「思います?」
亜樹は少し目を伏せた。
「その日は、少し飲んでいました。仕事を終えて帰宅して、家で飲んで……そのあと、眠ってしまったと思います」
「外出は?」
「覚えていません。たぶん、していません」
「頭を打った記憶は」
「ありません。ただ、昨日から少し頭痛があって」
警察官は、一度資料へ目を落とした。
その沈黙の意味が、正にはわかる気がした。
事故には遭っていない。
だが記憶は曖昧。
飲酒していた。
頭痛もある。
救急搬送された女性は、病院で詳しい身元確認をされる前にいなくなっている。
通報者は、田所亜樹だと証言している。
警察官の中で、ばらばらの事実が、ひとつの形に整えられようとしていた。
「昨日の件については、車両との接触は今のところ確認されていません」
警察官は言った。
「現場の状況からは、歩道上での転倒と見ています。頭を打っている可能性があったため救急搬送されましたが、その後、身元確認の前に病院を離れたようです」
「私が、ですか」
亜樹の声は小さかった。
「現時点では、その可能性が高いと見ています」
正は息を呑んだ。
違う。
そう言いたかった。
昨日の女は、亜樹を知らない目で正を見た。
田所ですけど、と言った。
下の名前は言わなかった。
歩き方も違った。
左足だけが、少し遅れていた。
だが、それを言えば、自分がなぜそんなことを覚えているのかを説明しなければならない。
なぜ、駅前でその女を探していたのか。
なぜ、後をつけたのか。
なぜ、亜樹だと思い込んだのか。
言えなかった。
正は沈黙した。
沈黙したことで、亜樹がさらに事故へ近づけられていくのを感じた。
「映像も確認しています」
警察官は続けた。
「近くの防犯カメラと、停車していた車のドライブレコーダーです。ただ、距離がありまして、顔までははっきり映っていません」
警察官は資料の一枚をめくる。
「背格好、髪型、服装については、神谷さんの証言と大きく矛盾しません」
大きく矛盾しない。
その言葉が、正には嫌だった。
違うとまでは言えない。
けれど、同じとも言えない。
そういうものが、一番危うい。
「それと、現場にいた方にも確認していただいています」
警察官がそう言うと、扉が開いた。
別の警察官に案内されて、四十代くらいの女性が入ってきた。
少し緊張した様子だった。
事故現場近くのコンビニにいた客だという。
「すみません、少しだけ確認をお願いします」
警察官が言う。
女性は小さくうなずいた。
そして、亜樹を見た。
数秒。
部屋の空気が止まったように感じた。
女性は目を細めるようにして、亜樹の顔を見る。
「……この方だと思います」
亜樹の肩が、わずかに揺れた。
正の背筋が冷える。
「倒れていた女性ですか」
警察官が確認する。
女性は迷うように唇を押さえた。
「顔をはっきり見たわけではないんです。倒れたあとでしたし、人も集まっていましたから。でも、髪の感じとか、雰囲気は……この方だったと思います」
「服装は覚えていますか」
「薄い色の服でした。白っぽいというか、明るい色で」
亜樹は何も言わなかった。
ただ、自分が知らない誰かの姿を、自分のものとして語られているような顔をしていた。
女性は亜樹へ申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。でも、似ていると思います」
似ている。
その言葉が、正の胸に沈んだ。
同じではない。
似ている。
だが、警察の前では、その違いがひどく小さなものにされていく。
女性が退室すると、今度は若い男が入ってきた。
配達員のような服装だった。
現場近くを通りかかり、倒れる直前から騒ぎを見ていたという。
男は亜樹を見ると、少し困ったような顔をした。
「……この人、だと思います」
「断言できますか」
警察官が尋ねる。
「いや、そこまでは。ただ、倒れた人もこんな感じの人でした。髪の長さも、体格も。遠かったんで、顔までは」
「歩き方などは見ましたか」
「少しふらついたようには見えました。足を悪くしてるとかは……すみません、そこまでは」
正は思わず男を見た。
足。
その言葉に、自分だけが反応している気がした。
男は亜樹をもう一度見てから、言いにくそうに続けた。
「でも、言われたらこの人かなって。似てます」
また、似ている。
正は目を伏せた。
誰も嘘はついていない。
たぶん、誰も。
けれど、嘘ではない言葉が積み重なって、間違った形を作ろうとしている。
男が退室したあと、警察官は資料をそろえた。
「以上の証言と映像、神谷さんの証言を合わせると、現時点では、昨日倒れた女性は田所亜樹さんご本人である可能性が高いと見ています」
亜樹は、すぐには答えなかった。
違います。
そう言いたいはずだった。
けれど、昨日の記憶は曖昧。
飲酒していた。
頭痛もある。
目撃者が二人、自分だと言った。
警察もそう見ている。
神谷正も、そう証言した。
自分の記憶より、他人の目の方が正しいのではないか。
そんな考えが、亜樹の中を掠めたのかもしれない。
亜樹は小さく息を吐いた。
「……わかりました」
その声は、納得というより、抵抗する力を少し失ったように聞こえた。
「ただ、本当に覚えていないんです」
「はい。ですので、今日は確認だけです。正式な調書については、体調が落ち着いてからでも構いません」
警察官は穏やかに言った。
「もし何か思い出したことがあれば、ご連絡ください。頭痛が続くようなら、念のため病院も受診してください」
「はい」
亜樹はうなずいた。
正は、その横顔を見ることができなかった。
相談室を出ると、廊下は静かだった。
警察署の白い壁。
蛍光灯の光。
足音だけが、小さく響く。
外へ出るまで、二人はほとんど話さなかった。
建物の外に出ると、冷たい風が吹いていた。
亜樹はそこで足を止めた。
「神谷さん」
正も立ち止まる。
「はい」
亜樹は正を見た。
その目は、静かだった。
けれど、いつもの柔らかさは少し薄れている。
「昨日、警察に私の名前と連絡先を伝えたんですね」
正は逃げられなかった。
「……はい」
「どうしてですか」
当然の問いだった。
正はすぐに答えられない。
七年前の雨。
駅前で見た横顔。
左足だけが遅れる歩き方。
探していたこと。
後をつけたこと。
声をかけたこと。
どれも、口にできなかった。
「田所さんに、似ていたので」
それだけ言った。
亜樹はしばらく正を見ていた。
「似ていたから」
「はい」
「それで、私の名前と電話番号を」
正は唇を噛む。
言い訳のしようがなかった。
「すみません」
頭を下げる。
「混乱していました。勝手に田所さんだと思い込んで、警察に話してしまいました」
亜樹は何も言わなかった。
正は頭を下げたまま、続ける。
「ご迷惑をおかけしました」
しばらく、風の音だけが聞こえた。
やがて、亜樹が小さく息を吐いた。
「……正直、驚きました」
「はい」
「でも、警察の方の説明を聞くと、私も完全には否定できなくて」
亜樹は困ったように笑った。
それは、いつもの穏やかな笑みとは少し違っていた。
「自分の記憶が曖昧なのって、嫌ですね」
正は顔を上げられなかった。
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
記憶が曖昧。
それは正が、七年間ずっと逃げ道にしてきたものだった。
信号は黄色だった気がする。
赤だったかもしれない。
顔は見えなかった。
もう一つの人影があったような気がする。
曖昧なままにしてきたものが、今、亜樹にまで広がっている。
「今日は帰ります」
亜樹は言った。
「また、仕事の件はメールします」
「……はい」
「神谷さんも、お疲れさまでした」
それだけ言って、亜樹は歩き出した。
正は、その背中を見送った。
足取りは普通だった。
左足が遅れることもない。
ただ、少しだけ疲れているように見えた。
亜樹の姿が角を曲がって見えなくなる。
警察は、昨日倒れた女性と田所亜樹を同じ人だと見ている。
目撃者も、そう言った。
亜樹自身も、完全には否定しきれないでいる。
そして正だけが、知っている。
昨日の女は、亜樹を知らない目で正を見た。
亜樹とは違う歩き方をしていた。
けれど。
田所、と答えた。
正は警察署の前で立ち尽くした。
自分が謝ったことで、何かが終わったわけではない。
むしろ、始まってしまった気がした。
田所亜樹という名前が、昨日倒れた女の上に重ねられていく。
警察の書類にも。
目撃者の記憶にも。
そして、亜樹本人の中にまで。
正は空を見上げた。
曇った空からは、まだ雨は落ちてこない。
それなのに、耳の奥では雨音がしていた。
七年前よりも、ずっと近い場所で。




