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雨の夜に置いてきたもの  作者: トンイ
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12/14

第十二話 たぶん、私です

 警察署を出てからも、田所亜樹の頭には同じ言葉が残っていた。


 この方だと思います。

 目撃者の女性は、そう言った。


 もう一人の男も、はっきりとは言わなかったものの、似たようなことを言った。

 この人だったと思います。


 髪の長さ。

 背格好。

 服の雰囲気。

 倒れていた人も、こんな感じだった。


 断言ではなかった。

 けれど、否定でもなかった。


 亜樹は、自分の手元を見た。

 傷はない。

 腕にも、手のひらにも、擦りむいた跡はない。

 頭を打った覚えもない。


 昨日、救急車で運ばれた記憶もない。

 それなのに、昨日の夜のことをはっきり説明できるかと聞かれれば、できなかった。

 仕事を終えて帰った。


 家で少し飲んだ。

 少しのつもりだった。


 でも、一本だったのか、二本だったのか、そこからもう曖昧だった。

 ソファに座った。

 テレビをつけた気がする。

 画面に何が映っていたのかは、覚えていない。


 そのあと、眠ってしまった。

 たぶん。


 亜樹は、その言葉が嫌だった。

 自分のことなのに、たぶんとしか言えない。

 自分の昨日なのに、他人から聞かされた話の方が形を持っている。


 警察官は、強く決めつけたわけではなかった。

 神谷正も、言葉を選んでいた。

 目撃者たちも、断定はしていない。


 それでも、全員の言葉が同じ方向を向いていた。

 事故に遭ったのは、田所亜樹だったのではないか。

 自分では覚えていないだけで。

 自分では認めたくないだけで。


 亜樹は、スマートフォンを手に取った。

 警察からの着信履歴が残っている。


 その番号を見つめる。

 押せばいい。

 そう思った。


 思ったまま、数分が過ぎた。

 自分から電話をかけたら、認めることになる気がした。


 あの夜、駅前にいたことを。

 転倒したことを。

 救急車で運ばれたことを。

 病院から出ていったことを。


 覚えていない自分を。

 けれど、このままにしておく方が、もっと気持ちが悪かった。

 亜樹は通話ボタンを押した。


「はい、中央署交通課です」

 男の声がした。

 亜樹は、喉の奥に力を入れる。


「あの、田所亜樹です。昨日の件で」

 電話の向こうで、少しだけ空気が変わった。


「田所さんですね。体調はいかがですか」

「大丈夫です。すみません」

 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。

 でも、謝らずにはいられなかった。


「昨日の件なんですが」

「はい」

「私……たぶん、私だったんだと思います」

 言ってしまった。


 その瞬間、胸の奥が少し沈んだ。

 でも、同時に少しだけ楽にもなった。


「昨日は混乱していて。警察の方にも、うまく説明できなくて」

「記憶が戻られましたか」

「はっきり戻ったわけではありません。ただ、昨日は飲んでいて、時間の記憶が曖昧で」

 亜樹は言葉を選んだ。


「目撃された方のお話も聞いて、神谷さんにもご迷惑をかけてしまって……だから、たぶん私だったんだと思います」


 電話の向こうの警察官は、少し間を置いてから答えた。


「分かりました。では、後日あらためて詳しい確認をさせていただくかもしれませんが、現時点ではそのように記録しておきます」


「はい。すみません」

「お怪我の具合は」

「大きな怪我はないと思います。頭痛は少しありますが」

「続くようでしたら、病院を受診してください」


「はい」

 通話を切る。

 亜樹は、しばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。


 これでよかったのだろうか。

 分からない。

 けれど、少なくとも警察には連絡した。


 次に連絡しなければならない相手も、分かっていた。

 神谷正。


 自分を助けようとしてくれた人。

 救急車を呼び、警察に名刺を渡した人。

 その人に、自分は余計な心配をかけた。

 謝らなければならない。


 亜樹は連絡先を開きかけて、手を止めた。

 一人で会いに行くのは、少し気が重かった。


 神谷に何を言えばいいのか分からない。

 そもそも、自分自身の説明が曖昧なのだ。


 そのまま午後になった。

 会社へ戻ると、いつもの空気があった。


 電話の音。

 キーボードを叩く音。

 誰かが資料を確認する声。

 全部がいつも通りなのに、亜樹だけが昨日から少しずれた場所にいるようだった。


「亜樹」

 背後から声をかけられて、亜樹は振り返った。


 佐伯美樹だった。

 大学時代からの友人で、今は田所企画の別部署にいる。

 仕事上、毎日一緒にいるわけではない。

 それでも、昼休みや帰り際に顔を合わせれば、昔の延長のように話せる相手だった。

 遠慮がなく、声も少し大きい。


 亜樹が一人で抱え込もうとすると、雑に踏み込んでくる。

 そういうところが、少し苦手で、少し助かる相手でもあった。


「顔、ひどいけど」

「……そんなに?」

「うん。昨日飲んだ?」

 亜樹は答えに詰まった。

 美樹は目を細める。


「飲んだんだ」

「少し」

「少しって言う人ほど少しじゃないんだよ」


 いつもの言い方だった。

 亜樹は、小さく息を吐く。


「美樹。少し、話してもいい?」

「なに。仕事?」

「仕事じゃない。でも、仕事に関係ないとも言い切れない」

「なにそれ。怖いんだけど」

 美樹は眉をひそめた。


 亜樹は、休憩室の隅で昨日のことを話した。

 警察から連絡が来たこと。

 事故に遭った可能性があると言われたこと。


 自分には記憶がないこと。

 目撃者や神谷正の証言で、たぶん自分だったのだろうと警察に伝えたこと。

 そして、神谷に謝らなければならないと思っていること。

 美樹は途中から、いつもの軽さを消して聞いていた。


「それ、一人で行く気?」

「そのつもりだけど」

「やめた方がいい」

 即答だった。

 亜樹は少し驚く。


「どうして」

「亜樹一人だと、また曖昧なまま謝って終わるでしょ」

「それは……」


「昨日の夜のこと、覚えてないんでしょ。しかも飲んでた。だったら、亜樹の酒癖を知ってる人間が一人いた方がいい」


 美樹は、真面目な顔で言った。


「取引先の人なんでしょ、その神谷さん。変に誤解されたままにするのも良くないし」

「でも、謝罪に友人を連れていくのは」

「友人じゃなくて、事情を説明できる人間として行くの」

 美樹は言い切った。


「昨日、夜に私がメッセージ送った時、亜樹の返事ちょっと変だったし」

「そうだっけ」

「ほら、覚えてない」

 美樹は呆れたように言った。


「だから行く。私が全部喋るわけじゃないけど、必要なら補足する」

 亜樹はしばらく黙った。


 本当は、一人で行くべきなのかもしれない。

 けれど、自分の説明はあまりにも頼りない。

 たぶん私だった。


 そんな言葉で謝られて、相手が納得できるのか。

 そう考えると、美樹の申し出を断りきれなかった。


「……分かった」

「よし。場所は?」

「これから連絡する」


「会社じゃない方がいいね」

「うん。喫茶店にする」

「それがいい」


 午後。

 亜樹は神谷正へ連絡を入れた。

 電話ではなく、仕事用のメールだった。

 けれど内容は仕事ではない。


『昨日の件で、直接お詫びをしたいです。お時間をいただけませんか』

 しばらくして、正から返信が来た。


『大丈夫です。場所はどちらがよろしいですか』

 亜樹は迷った。


 会社では話しにくい。

 警察署でもない。

 かといって、自宅へ行くのも違う気がした。


 結局、駅前の喫茶店を指定した。

 正の会社からも、亜樹の会社からも行ける距離にある店だった。


 夕方。

 亜樹は美樹と並んで、喫茶店へ向かった。

 美樹は亜樹より少し背が低い。

 髪の長さや服の雰囲気は、少しだけ似ている。


 ただ、顔立ちはそこまで似ていない。

 近くで見れば、目元も口元も違う。

 何より、美樹は歩き方が軽い。

 亜樹よりずっと遠慮なく、前へ進む。

「で、その神谷さんって人、どんな人?」

「仕事先の人」

「それは聞いた」


「真面目そうな人」

「ざっくりしてるなあ」

「実際、まだよく知らないから」


「その人が救急車呼んでくれたんでしょ?」

「そうみたい」

「いい人じゃん」


「だから謝りに行くの」

「それはそうだね。亜樹、たぶん迷惑かけてるし」

 美樹はあっさり言った。


「……たぶんじゃないと思う」

「そこは認めるんだ」

 亜樹は小さく息を吐いた。


 喫茶店に入ると、正はすでに来ていた。

 奥の席で、少し硬い表情をして座っている。

 亜樹が近づくと、正はすぐに立ち上がった。


「田所さん」

「神谷さん。お時間いただいて、すみません」

「いえ」


 正の視線が、美樹へ向く。

 亜樹は一歩横へずれた。


「友人の佐伯美樹です。田所企画の別部署にもいて、昨日の件を少し知っているので、同席してもらいました」

「佐伯美樹です」

 美樹はぺこりと頭を下げた。


「亜樹がご迷惑をおかけしました」

「いえ、そんな」

 正は慌てたように首を横に振った。


 三人は席に座った。

 亜樹は、テーブルの上で手を重ねる。

 何から話せばいいのか、少し迷った。

 でも、先に言うべきことは決まっている。


「昨日の件、本当にすみませんでした」

 亜樹は頭を下げた。


「神谷さんが救急車を呼んでくださったのに、私がうまく説明できなくて。警察にも、変なことになってしまって」


「田所さんが謝ることでは」

「いえ」

 亜樹は首を横に振る。


「たぶん、私だったんだと思います」

 正は、何も言わなかった。

 ただ、亜樹を見ている。


「昨日は飲んでいて、記憶が曖昧で。警察の方にも、最初はよく分からないと答えてしまいました。でも、目撃者の方もそう言っていましたし、神谷さんも私だと思ってくださったんですよね」


「はい」

 正の声は小さかった。


「だから、私だったんだと思います。覚えていないだけで」

 言い切ったあと、亜樹の胸が少し痛んだ。


 自分で言っていても、まだ完全には納得できていない。

 それでも、そう言うしかなかった。

 美樹が横から口を開いた。


「亜樹、ほんと酒癖悪いんです」

「美樹」

「いや、言っといた方がいいって」

 美樹は正に向き直る。


「普段はちゃんとして見えると思うんですけど、飲むとすぐ寝るし、途中の記憶が飛ぶこともあるんです。本人は少ししか飲んでないって言うんですけど、大体少しじゃないんで」


 正は困ったように笑った。


「そうなんですか」

「そうなんです。私も昔から何度か見てるので」

「何度もはないでしょ」

「あるよ。大学の時から」

 美樹はきっぱり言った。


 亜樹は少しだけ顔を伏せる。

 恥ずかしい。

 でも、その恥ずかしさが、この場の空気を少しだけ普通のものにしてくれた。

 正の表情も、さっきより少し和らいでいる。


「昨日も、夜に少しメッセージしたんですけど、返事が変だったんですよ」

 美樹が言った。


「変って」

「誤字多いし、同じこと二回送ってくるし。ああ、飲んでるなって思いました」

「それは……」


 亜樹は反論しようとして、やめた。

 覚えていない。

 正は美樹の話を聞きながら、ゆっくりとうなずいた。


「でも、大きな怪我がなくてよかったです」

 正が言った。

 その声は本心のように聞こえた。

 亜樹は静かにうなずく。


「はい。ご心配をおかけしました」

「いえ。俺も、突然声をかけてしまったので」

「神谷さんは悪くありません」

 亜樹はすぐに言った。


「むしろ、助けていただきました」

 その言葉に、正が一瞬だけ黙った。


 何かが胸に刺さったような顔だった。

 亜樹は不思議に思ったが、深くは聞かなかった。

 美樹がグラスの水を飲みながら、正を見た。


「神谷さん、本当にありがとうございました。亜樹、ちゃんとしてるように見えるけど、抜けてるところあるんで」


「美樹」

「だって本当だし」

 正は少しだけ笑った。


 それを見て、亜樹もようやく息を吐いた。

 事故。

 警察。

 救急車。


 自分でも覚えていない時間。

 その全部が、少しだけ遠くなる。

 正は、目の前の二人を見ていた。


 亜樹と美樹。

 髪型や雰囲気は少し似ている。

 けれど、顔立ちも話し方も違う。


 歩き方も違う。

 美樹には、足を庇うような様子はない。

 それを見て、正の中で何かが落ち着いていった。


 やはり、あの時倒れたのは田所亜樹だったのだ。

 美樹は、亜樹の酒癖を知っている友人だった。

 昨夜の亜樹の様子も、少し知っている。

 その美樹が、亜樹なら記憶が曖昧になってもおかしくないと言っている。


 警察もそう見ている。

 目撃者もそう言った。

 本人も、たぶん自分だったと言っている。

 なら、もうそれ以上疑う必要はない。


 正は、そう思った。

 思うことにした。


 喫茶店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 亜樹は店の前で、もう一度頭を下げた。


「本当にありがとうございました」

「こちらこそ、わざわざ」

「また、仕事の方でもよろしくお願いします」

「はい」

 それは、いつもの仕事の挨拶だった。


 けれど、正には少しだけ違って聞こえた。

 田所亜樹という人間が、自分の中で前より近くなった気がした。

 美樹が横で軽く手を上げる。


「神谷さん、亜樹がまた何かやらかしたら教えてください」

「美樹」

「冗談だって」


 美樹は笑い、亜樹に軽く肩を押されながら駅の方へ歩いていった。

 正は二人の背中を見送った。

 亜樹の足取りは、少し慎重に見えた。

 美樹はその横を軽く歩いている。

 二人の姿は、人混みに紛れていった。


 翌日。

 正は会社で、森田に昨日のことを少しだけ話した。


 詳しい事情までは言わない。

 ただ、事故の相手が田所亜樹本人だったらしいこと。

 記憶が曖昧だっただけらしいこと。

 田所企画の佐伯という人も同席し、酒が入ると記憶が飛ぶことがあると説明していたこと。

 その程度だった。


「そんなことあったんですか」

 森田は少し驚いた顔をした。


「ああ」

「でも、大きな怪我じゃなくてよかったですね」

「そうだな」


「田所さん、ちゃんとしてる人に見えますけど、そんなことあるんですね」

「酒が入っていたらしい」

「ああ……それなら、まあ」


 森田は納得したようにうなずいた。

 それ以上、深くは聞いてこなかった。

 正は少しだけ安心した。


 誰かに話して、普通に受け止められる。

 それだけで、この件が少しずつ日常の中へ戻っていくような気がした。


 昼前。

 正のスマートフォンが鳴った。

 中央署交通課からだった。

 正は席を立ち、廊下へ出る。


「はい、神谷です」

「先日の件でご連絡しました。田所亜樹さんご本人からもお電話をいただきました」

「はい」


「ご本人も、当時の記憶が曖昧だったと。おそらく転倒されたのはご本人で間違いないだろう、というお話でした」


「昨日、本人から謝罪を受けました」

「そうでしたか」

 警察官の声は、少しだけ事務的に落ち着いていた。


「では、今回は転倒事故として一旦確認を進めます。後日、必要があればあらためてご連絡するかもしれません」


「分かりました」

「ご協力ありがとうございました」

 通話が切れる。


 正はスマートフォンを見つめた。

 一旦、終わった。

 そう思った。


 少なくとも、警察の中では。

 田所亜樹本人も認めた。

 佐伯美樹も、酒癖の話をした。

 森田も、普通の話として受け止めた。


 警察も、転倒事故として処理しようとしている。

 なら、そうなのだろう。

 そう思えばいい。


 正はスマートフォンをポケットに戻した。

 廊下の窓から、外が見える。


 空は曇っていた。

 雨は降っていない。

 それでも、正の耳には、ほんの少しだけ雨音が残っていた。


 けれどその音は、昨日までより少し遠かった。

 田所亜樹は生きている。

 大きな怪我もない。


 そして、自分は今度は逃げなかった。

 そのことだけを、正は小さく胸の奥で確かめた。


 仕事に戻る。

 パソコンの画面には、田所企画の資料が開かれていた。


 担当者名に、田所亜樹の名前がある。

 正はその文字を見つめた。

 昨日までより、その名前は少しだけ近く見えた。


 事故の相手。

 仕事先の人。

 そして、謝りに来た人。


 田所亜樹という名前が、正の中で静かに重なっていく。


 その重なりが、後に別の形でほどけることを。

 この時の正は、まだ知らなかった。

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