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雨の夜に置いてきたもの  作者: トンイ
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第十三話 見つかった骨

 田所亜樹の件は、一旦落ち着いた。


 少なくとも、そう見えた。

 警察からの確認も終わった。


 田所本人からも謝罪を受けた。

 妹の美樹も、酒癖の話をしていた。


 森田に話しても、特別大きな反応はなかった。

 そんなことあるんですね。


 大きな怪我じゃなくてよかったですね。

 その程度だった。



 正も、そう受け止めようとしていた。

 田所亜樹は、あの夜、酔って記憶を曖昧にしていた。

 自分が声をかけたことで、驚いて転倒した。


 救急車で運ばれた。

 その後、混乱したまま病院を出た。


 警察も、本人も、そういう形で落ち着こうとしている。

 なら、それでいい。

 そう思うことにした。


 思うことにした、という時点で、本当はまだ何かが残っているのかもしれない。


 だが、正はそれ以上考えなかった。

 考えないようにした。


 その日も、会社ではいつも通りの時間が流れていた。


 朝のメール確認。

 資料の修正。

 田所企画への返信内容の確認。


 森田から上がってきた見積もりの再チェック。

 どれも、いつもの仕事だった。


「神谷さん、ここの表現なんですけど」

 森田が、資料を持って近づいてくる。


「どこだ」


「二ページ目の納品条件です。田所企画さんの前回の要望に合わせるなら、こっちの方がいいかなと」


 正は資料に目を落とした。

 文字を追う。

 数字を見る。

 条件を確認する。


「そうだな。こっちでいい」

「わかりました」


「ただ、ここの注釈は残しておけ。後で揉めると面倒だ」

「はい」


 森田が席に戻っていく。

 正はパソコンの画面へ視線を戻した。


 仕事は進んでいる。

 問題はない。


 自分はまともに働けている。

 そう思った。


 昼前、営業企画部の一角が少しざわついた。

 誰かがスマートフォンを見ながら、声を上げたのだ。


「え、これ近くじゃないですか」

「何が?」


「人骨が見つかったって」

 その言葉に、正の指が止まった。


 人骨。


 周囲の声は、最初はただの雑談だった。

 仕事の手を少し止め、近場のニュースについて話している。


 どこの会社にもある、昼前の小さな騒ぎ。

 正は画面を見たまま、聞かないふりをした。

 だが、耳は勝手にそちらへ向いていた。


「どこ?」


「旧南町交差点の近く。今、工事してるところ」


 旧南町交差点。

 正の背中が、冷えた。


 七年前の雨の夜。


 車を走らせていた道。

 滲む街灯。


 赤い傘。

 倒れた人影。

 その場所に、近かった。


「工事現場で見つかったらしいですよ」

「え、事件?」


「まだ分からないって。事故か事件かも含めて調べてるって」

「性別も分からないの?」


「今のところ、詳しい身元は不明。ニュースでは、性別や年齢も調査中って」


 性別不明。

 身元不明。


 事故か事件かも分からない。

 その言葉が、正の中で妙にゆっくり沈んでいく。

 森田もスマートフォンを見ていた。


「結構前の骨かもしれないって書いてありますね」

「怖いな」


「この辺、昔から工事止まってた場所じゃなかった?」

「そうそう。再開したら出たって」


 正は、画面の文字を見つめた。

 見ているはずなのに、何も読めない。


 人骨。


 旧南町交差点の近く。

 身元不明。


 正の頭の中で、七年前の夜が勝手に動き出す。

 あの日、倒れた人影は動いた気がした。


 手。

 指先。

 ほんの少しだけ。


 助けなければならないと思った。

 思ったはずだった。


 だが、正は逃げた。

 その後、どうなったのかを知らない。


 ニュースを見ようとして、最後まで見られなかった。


 警察に連絡もしなかった。

 病院も探さなかった。

 事故の記事を追うこともできなかった。


 知らなかった。

 知ろうとしなかった。


 だから、今になって考えてしまう。

 自分が轢いた人間は、本当に助かったのか。

 倒れていたあの人は、あのあと誰かに助けられたのか。


 それとも。

 正は椅子に座ったまま、息を吸う。

 うまく入ってこなかった。


「神谷さん?」


 森田が声をかけてきた。

 正は顔を上げる。


「大丈夫ですか」

「ああ」

 返事が少し遅れた。


「少し、考え事をしていた」

「顔色悪いですよ」

「寝不足だ」


 いつもの言葉が口から出た。

 便利な言葉。

 それ以上踏み込ませないための言葉。


 森田は少し心配そうにしたが、それ以上は聞いてこなかった。

 正はもう一度、パソコンの画面を見る。

 だが、文字は頭に入らなかった。


 田所亜樹。


 彼女は生きている。

 昨日、謝りに来た。

 妹と一緒に、喫茶店に来た。


 大きな怪我はなかった。

 警察も、あれは転倒事故として整理しようとしている。

 なら、田所亜樹は七年前の雨とは関係ないのではないか。


 そう考えた瞬間、正の中で何かがずれた。

 今まで、田所亜樹を見るたびに、七年前の雨を思い出していた。


 白い服。

 左足。

 雨の日の頭痛。


 自分の前で倒れた姿。

 すべてが過去へ繋がっているように思えた。

 けれど、もし違ったら。


 田所亜樹は、ただ最近の転倒事故の相手だっただけで。

 七年前に正が轢いた誰かとは、まったく関係ないのだとしたら。


 では。

 七年前のあの人は誰だったのか。


 そして、今ニュースで見つかった骨は。

 正は、スマートフォンを手に取った。

 ニュースを開く。


 手がわずかに震えている。

 検索する必要もなかった。


 地域ニュースの上の方に、記事が出ていた。

 旧南町の工事現場で人骨発見。

 警察が身元確認を進める。

 事件、事故の両面で調査。


 文字は短かった。

 情報も少ない。

 見つかった場所。


 工事関係者が発見したこと。

 警察が現場を確認していること。


 骨の状態から、亡くなってから相当の時間が経っている可能性があること。

 性別や年齢は不明。

 身元確認を進めている。


 それだけだった。

 それだけで十分だった。


 正の胸の奥に、七年前の雨が戻ってきた。


 あの夜。

 倒れた人影。


 その向こうに見えた、もう一つの人影。

 雨のせいだったのかもしれない。


 街灯の光が滲んでいただけかもしれない。

 正自身、ずっとそう思おうとしてきた。


 だが、人骨が見つかった。

 あの場所の近くで。


 正は、画面を閉じた。

 これ以上読んでも、何も分からない。

 それなのに、読まずにはいられなかった。


 もう一度開く。

 同じ記事を読み返す。


 新しい情報はない。

 それでも、何度も見てしまう。


 午後の仕事は、ほとんど手につかなかった。

 メールの返信に、いつもの倍以上の時間がかかった。

 資料の数字を見落とし、森田に指摘された。


「神谷さん、ここ」

「ああ、すまない」

「珍しいですね」


「少し疲れてる」

「無理しない方がいいですよ」

「ああ」


 森田の声が遠い。


 周囲の電話の音も、キーボードの音も、プリンターの音も、全部が膜の向こうから聞こえてくるようだった。


 正の頭の中には、ニュースの文面だけが残っている。

 旧南町交差点近く。


 人骨。


 事件、事故の両面。

 身元不明。


 七年前のあの夜、正は誰を置いてきたのか。

 田所亜樹ではないのか。


 では、誰なのか。

 そして、その人はまだ、どこかで生きているのか。


 それとも。

 夕方になっても、正の胸の重さは消えなかった。


 会社を出る。

 空は曇っていた。

 雨は降っていない。


 だが、湿った風が吹いている。

 正は駅へ向かいながら、足元を見る。


 濡れていないアスファルト。

 車のライト。

 横断歩道。


 どれも七年前とは違う。

 それなのに、同じものに見えた。


 田所亜樹の件は終わった。

 そう思ったばかりだった。


 だが、七年前の件は終わっていなかった。

 終わるはずがなかった。


 正が勝手に見ないふりをしていただけだ。

 自宅に帰ってからも、正はテレビをつけることができなかった。

 ニュースを見れば、またあの話が出るかもしれない。


 見たい。

 見たくない。

 その二つが胸の中でぶつかる。


 結局、テレビはつけなかった。


 代わりにスマートフォンでニュースを検索する。

 同じ記事。

 似たような短い記事。


 どれも、まだ詳しいことは書かれていない。

 身元不明。

 事件性も含めて調査。

 その言葉だけが増えていく。


 正はスマートフォンを伏せた。

 部屋の中は静かだった。


 雨は降っていない。

 だが、正の耳には雨音がしていた。


 七年前の雨。

 田所亜樹の顔をしていた夢の中の女。


 そして今、ニュースの中で見つかった骨。

 それらが、同じ場所に集まってくる。


 正は顔を覆った。

 もしかして、田所亜樹は関係なかったのか。

 そう思った。


 思った瞬間、少しだけ楽になりかけた。

 田所亜樹が七年前の被害者でないなら。


 自分は彼女に対して、あの夜の罪を負っていないのかもしれない。

 だが、その安堵はすぐに消えた。

 代わりに、もっと冷たいものが残った。


 では、自分が置いてきた人間は、誰だったのか。

 その誰かは、今、骨になって見つかったのか。

 正は、しばらく動けなかった。


 窓の外で、車が一台通り過ぎる。

 タイヤが道路を擦る音がした。


 水音ではない。

 雨の日の音ではない。


 それなのに、正には水を裂く音に聞こえた。

 その夜、正は眠れなかった。


 目を閉じると、ニュースの文字が浮かぶ。

 人骨。

 旧南町。

 身元不明。


 その文字の向こうに、倒れた人影がいる。

 顔は見えない。

 田所亜樹の顔でもない。


 誰の顔でもない。

 ただ、雨に濡れた誰かが、道路の上に倒れている。


 正は夢の中ではなく、起きたまま、その光景を見続けていた。

 七年前の雨は、まだ終わっていない。


 そのことだけが、はっきりしていた。

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